第65話

 ――アーサーさまが……副長が亡くなった?


 それも十二年前、リデルと同じ時期に。『とある事件』によって。

 指先が痺れ、ガンガンと頭が痛み出す。

 またこの感覚だ。夕食会の日、ジュリエットとして初めてマデリーンを目にした時と同じ、ぐるぐると頭の中をかき混ぜられているような不快感。


 ――副長はどうして……。待って。……そうだわ。


 耳の奥で馬のいななきと、男たちの絶叫が聞こえる。目の前に広がった血だまりと、野盗たちの笑い声。

 あの時、、、だ。

 アーサーは野盗と交戦して命を落とした。彼だけではない。恐らく護送のため組織された隊は全滅だっただろう。

 リデルの乗った馬車を守るために。


 ――どうして、こんな大事なことを忘れていたの?


 別荘へ行くようオスカーから指示されたことも、馬車を襲われたことも、リデルが首を掻ききったことも覚えていたはずだ。

 野盗に囲まれリデルが自害しなければならない状況下で、騎士たちが無事であったはずがない。それなのに、どうして。


 ――待って。それならミーナは?


 最後に彼女の姿を目にしたのは、助けを呼びに馬を走らせる後ろ姿。その後の消息はジュリエットにはわからない。

 それなのにどうして、記憶を思い出してから今まで、ミーナの安否を一度も気にしなかったのだろうか。姉のように慕い、親友のように仲良くしていた、大事な侍女の存在を。

『リデル』なら、真っ先にそのことを心配するはずなのに。


 何かが、おかしかった。

 思い出していないこと。思い出したこと。思い出しているはずなのに、なぜか特に意識することもなく見過ごしていること。


 ――わたしは……。わたしの記憶は……?


 過去に思いを巡らせ、考えれば考えるほど、意識が不自然に濁っていく。

 頭が――痛い。酷く痛む。


「うっ……ぇ……」


 吐きそうになるのを、ジュリエットは必死で堪えた。胃液がじわじわとせり上がり、目の縁に涙が溜まる。


「お嬢さま!」


 いち早く異変に気づいたメアリが、ジュリエットの傍らにしゃがみ顔を覗き込んだ。


「酷いお顔の色です。お部屋に戻って休みましょう。歩けますか?」


 ジュリエットは口を押さえたまま、無言の肯定を返した。まだ、頭の中をかき混ぜられているような奇妙な感覚がする。少しでも気を抜けば、胃の中のものを全部戻してしまいそうだ。

 酷い気分だった。  


「申し訳ございません、エヴァンズ男爵夫人。ジュリエットさまは少々気分がお悪いようです。そろそろお暇させていただきたく存じます」

「え、ええ。それはもちろん。……でも、お医者さまを呼ばなくて大丈夫ですの? よかったら落ち着くまで休んでいかれても……」


 あのマデリーンがそこまで言うということは、今のジュリエットは余程酷い有様なのだろう。

 だが、できるだけ彼女に弱みを見せたくはない。

 ジュリエットはメアリの腕を、少しだけ強く掴んだ。それだけで意思は伝わったようだ。 

 

「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが、男爵夫人にご迷惑をおかけするわけには参りませんので」

「まあ。わたくしは気にしませんけれど……。でも、どうぞお大事になさってね」

「はい。それでは、失礼いたします」


 マデリーンも、それ以上引き留めるようなことはしなかった。純粋に心配そうな表情で、メアリに支えられ退室するジュリエットを見守っている。


「メアリ、ごめんなさい……」

「黙っていてください、お嬢さま。ここで戻されたら困ります」


 メアリの言い方は一見突き放したように聞こえるが、これが彼女なりの励ましだとジュリエットは知っている。

 マデリーンの部屋を慌ただしく後にしたジュリエットは、ロージーの案内ですぐさま新しい部屋へ通された。じっくり観察する余裕はないが、最初に用意された部屋より手狭で、二間続きの部屋だということだけはわかる。


 ロージーからハリソン医師を呼ぼうかと提案されたが、それは断った。慣れない環境に気持ちがついていけず、少し疲れたのだろう。

 あまり大げさにしたくはない。


「では、何か気分がすっきりする飲み物を入れて参りますね。少々お待ちください」


 そう言って部屋を後にしたロージーが、程なくして盆の上にカップを乗せて戻ってきた。

 中でゆらゆら揺れている液体は、黄色に近い透き通った緑色だ。よく見れば、細い花びらが数枚、液体の中で踊っている。


「どうぞ、薬草茶です」


 すん、と匂いを嗅いでみれば、ほのかに甘い匂いが漂う。

 

「……上品な香りね」


 カップの縁に唇を付けて一口。多少の苦さは覚悟していたにも関わらず、非常に飲みやすく、ほっとする味だ。火傷しない程度の熱い液体が流れ込んでくると共に、微かな甘みが口いっぱいに広がり、胃の腑から全身に向かって、じわじわと温かさが広がっていくかのようだ。


「甘くて美味しいわ。こんな薬草茶は初めて」

「最近、アッシェンで開発を始めたんです。紅茶に次ぐ新たな産業になるかもしれません。ご主人さまは商売上手ですから」


 ロージーの屈託のない優しい笑顔を見ていると、徐々に息苦しさがなくなっていく気がした。


「ありがとうございます。ロージーさん」

「いいえ、同じお城で働く仲間ですもの。ジュリエットさんもメアリさんも、今後もどんどん頼ってくださいね」

「それじゃ、お言葉に甘えて少しだけ休ませてもらいますね。メアリもゆっくり過ごしていて」


 心配そうなメアリに精一杯の微笑みを見せ、ジュリエットは目を閉じた。そして瞬く間に眠りに落ちたその先で、思いも寄らぬ夢を見ることになる。

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