第35話
そうして訪れた、夕食会当日。
祖母の家で身支度を終えたジュリエットは、メアリと共に玄関で待機していた。
今日の装いは、夜会の時と比べて少しシンプルだ。
袖の無い深緑のワンピースに、生成りのショール。鈴蘭の髪飾りに、真珠の首飾り。髪は編み込みにして、後ろでぐるりと輪のように束ねている。
トーマスの娘からの借り物に身を包み、玄関横の長椅子に腰掛けるジュリエットを、祖母が感慨深そうに見つめていた。
「ジュリエットったら、夜会が終わったと思ったら早速夕食会へ招待されるなんて……。さすが私の孫娘だわ。ふふ、罪作りな子ね」
「……お祖母さま、何を仰っているのですか?」
どこか嬉しそうな祖母の様子に、少々嫌な予感を覚えつつ問いかける。
すると祖母は自身の頬に手をやりながら、夢見る少女のような笑顔で答えた。
「内緒にしなくてもいいのよ。あなた、夜会でアッシェン伯の心を射止めたのでしょう?」
「……………………はい?」
「アダムのような明るいタイプもいいけれど、アッシェン伯のような影のあるタイプが義理の孫になるっていうのも素敵よね。ジェームズは交際を反対するかもしれないけれど、お祖母さまはいつでもあなたの味方よ、ジュリエット!」
拳を握りしめつつ熱く語る祖母だが、ちょっと待ってほしい。
夕食に招待されたくらいで「心を射止めた」というのは、少々先走りすぎではないだろうか。しかも「義理の孫」だなんて。
祖母の頭の中では結婚行進曲を背景に、花嫁衣装に身を包んだジュリエットがしずしずと教会の花道を歩いているに違いない。それどころか、既にひ孫まで生まれている可能性すらある。
「あの、お祖母さま。一体どうしてそんな発想に至ったのかまったくわからないのですが、わたしはただ、夕食会に招待されただけで……」
「いいえ、ただの招待ではないわ!」
どん、と祖母がジュリエットの背後の壁に両手をつく。
震動で、少し離れた場所に飾られている祖父の肖像画が傾き、メイドたちが慌てて元の位置へ戻していた。しかし気付いているのかいないのか、祖母はそちらのほうには目もくれず、真剣な表情でジュリエットへ詰め寄る。
「難攻不落の、あのアッシェン伯が招待したということに意味があるのよ。あの方が奥さまを御病気で亡くされてからというもの、後妻も娶らず、長いこと寡夫でいらっしゃるのはあなたも知っているでしょう?」
「え、ええ。……え?」
――病気で?
思いも寄らぬ祖母の言葉に、ジュリエットは思わず首を傾げる。
しかしそのことについて深く考えるより早く、祖母が今度はジュリエットの両手をガシッと掴んだ。そして舞台女優もかくやと言わんばかりに、天を仰ぎながら歌うような声で高らかに告げる。
「氷のような彼の心を溶かしたのは、身分を偽り夜会へ参加した乙女の熱い眼差し……。人嫌いの伯爵は、美しき乙女の真心によって再び愛を取り戻すの。しかし愛し合うふたりの前には、幾多の困難が立ちはだかり……! あぁっ、なんてロマンチックなんでしょう!」
「お祖母さま、酔ってらっしゃるのですか?」
ジュリエットはげんなりしながら、祖母の手をやんわり解く。
紅潮した頬や、うっとりとした眼差し。そして三文芝居のような台詞回しは、どう考えても酒でも飲んでいる人間のものとしか思えない。
しかし少なくとも、祖母のほうは本気だったようだ。
「まあ、失礼な子ね。酔ってなんていませんよ。私はあなたの恋路を応援しようと思っているだけなの」
「そもそもわたしと伯爵は、恋だとか愛だとかそういう関係ではありません。今回の夕食会だって、伯爵令嬢のエミリアさまが、わたしを気に入って招待して下さっただけです」
「私もトーマスとお付き合いし始めた頃、彼の娘と仲良くなるために、それはもう色々な努力をしたものだけど……。なるほど、まずは娘から懐柔しようというわけね。我が孫ながら、なかなかの策士だわ」
――ト、トーマスとお祖母さまが!? いつから!?
もはやどこから突っ込んでいいのかわからず、ジュリエットは目を白黒とさせながら口をぱくぱく開け閉めした。
明るく優しい祖母のことを基本的には尊敬しているが、何でもかんでも色恋沙汰に結びつけるところは、本気でどうにかしてほしい。
それから、誰かと別れるたびひっきりなしに新しい恋人を作るのも。
そんなジュリエットの動揺も知らず、祖母は声を潜めながら重要な内緒話をするように囁いた。
「心配しないで、ジュリエット。もしあなたがアッシェン城へ泊まるようなことになっても、ジェームズにはちゃんと口裏合わせをしといてあげますから」
「と、泊ま!? 泊まりませんからね!? お祖母さまはわたしを、そっ、そんなふしだらな娘だとでも!?」
「いやね、ムキになって。ちょっとした冗談よ、冗談。ほほほ、ジュリエットったら
祖母はそう言って無邪気にウインクなどしているが、冗談に聞こえないからムキになっているのだと、いい加減理解してほしいものだ。
たったこれだけのやりとりで、一日分の体力を使い果たしたような気分だ。どっと疲労が押し寄せ、ジュリエットは壁に額をめり込ませながら、深く長い溜息をついた。
「……お嬢さま、大丈夫ですか?」
「え、ええ。ありがとうメアリ」
背後からグラスを差し出され、ジュリエットは中身をぐいっと飲み干す。
絞った果汁の爽やかさが口いっぱいに広がり、祖母とのやりとりで疲弊した身体に染み渡るようだ。
「と、とにかく、妙な勘ぐりをなさらないでください。わたしとアッシェン伯が、愛だの恋だのという関係になるようなことは! 決して! あり得ませんから!」
グラスをメアリへ返しながら、人の話を聞かない祖母の耳にも届くよう、一言一言区切りながらはっきり宣言する。
そう、絶対にあり得ない。
リデルだった時はオスカーを心から愛していた。けれど生まれ変わった今、彼への情など何一つ残っていない。いるはずがない。
――わたしはもう二度と、旦那さまには振り回されないんだから。
固い決意を胸に、ジュリエットは戦いに臨む戦士のような気持ちで、アッシェン城からの迎えを待つ。
馬車がやってきたのは、それから程なくしてのことだった。
「ごきげんいかがでしょう、ジュリエットさま。アッシェン伯閣下のご命令で、お迎えに上がりました」
「まあ――ライオネルさま。ごきげんよう」
玄関から顔を覗かせた人物に、ジュリエットは長椅子から立ち上がり、慌てて淑女の礼を取る。
金髪に、明るい緑色の目。騎士というより貴公子という表現のほうが似合う優美な美貌を持つ彼は、夜会の夜、ジュリエットをここまで送り届けてくれた正騎士だ。
彼もまたこれ以上ないほど完璧な仕草で腰を折り、ジュリエットの手の甲へ口付けを落とす。
「とてもお美しい。鈴蘭の妖精かと思いました」
ともすれば気障な台詞も、彼の口から放たれるととても自然な褒め言葉として聞こえるから不思議だ。
どこからともなく溜息が聞こえてきて、ジュリエットは不思議に思って視線を巡らせてみる。
するとあらゆる物陰から、屋敷中の女性使用人たちがそっと顔を覗かせ、ライオネルに熱視線を送っているのが見えた。
普通なら主人が叱咤すべき場面なのだが、祖母にそんな期待をするのはまったくの無駄というもの。
なぜなら彼女は使用人たちの無作法など気にも留めず、好奇心に満ちた瞳で、麗しの騎士と孫娘とのやりとりを見守っているのである。
ジュリエットは周囲の視線を完全に意識の外へ追い出し、ライオネルだけに集中することにした。
「わ、わざわざ正騎士であるあなたが御者を?」
「いいえ、私は護衛役です。大切なお客さまに何かあったら大変ですからね。道中の安全は、私がお守り致しますよ」
嫌味のない爽やかなウインクに、キャーッと黄色い悲鳴が上がる。振り返れば女性使用人だけでなく、祖母まで一緒になってはしゃいでいた。
年甲斐もなくはしゃがないでください、と視線だけで咎めれば、祖母が口をパクパクしながら何かを訴えている。
何を言っているのかと口元を注視して、ジュリエットはますます顔を引きつらせた。
ライオネルさまでもいいのよ、と。
祖母は無責任にもそう言っていたのである。
「――で、では参りましょうライオネルさま! 本日は侍女のメアリも同行致しますので、よろしくお願い致します」
これ以上ここに留まっていれば大変なことになりそうだと、ジュリエットはメアリに目配せをし、さっさと屋敷を出ようとする。
目の前に年頃の異性が現れるたび、祖母の脳内で勝手に恋のお相手にされては堪ったものではない。
「ああ、そういえば招待状のお返事に書かれていましたね。どうぞよろしくお願い致します、メアリ殿」
にこりと、ライオネルがメアリに向かって微笑む。
世の九割以上の女性が頬を染めるであろう笑顔。しかし有能な侍女は眉一つ動かすことなく、普段と変わりない淡々とした態度で事務的に頭を下げるだけだ。
「よろしくお願い致します、ステア・ライオネル」
それを見て、ジュリエットはしみじみと思った。
百分の一、いや千分の一でもいい。メアリのような思慮深さを、祖母が多少なりと身に着けてくれればいいのに……と。
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