第7話

 エミリアが生まれて半月が経ち、ひと月が経ち、二ヶ月目を迎えた。

 医者の判断もあり、リデルは一般的な基準に比べて少し長く、とこにつかなければならなかった。

 何度か熱を出し、起き上がれない日が続くこともたびたびあった。

 リデルが伏せっている間、やはりオスカーが顔を出すことはほとんどない。

 せめてエミリアの顔を見たいと思い、ミーナを介して彼へ願い出た。嫁いできて初めての、リデルから夫への願い事。

 しかし返ってきたのは、ささやかな希望を却下する言葉だった。


「旦那さまは、産後の奥さまのお身体に負担をかけるのが心配だと仰っておいでです」


 言いにくそうに告げられたその言葉は、本当にオスカーが口にしたものなのだろうか。

 もしかすればにべもなく断られたリデルを哀れに思い、ミーナが嘘をついたのかもしれない。リデルを傷つけないための、優しい嘘を。


 床払いを終えて二週間後。リデルは久々に体調もよく、ようやくエミリアに会いに行くことを許された。

 意外にもオスカーは、小さな娘のために肌触りのよい産着をたっぷり揃え、立派な寝台やたくさんの玩具を揃えてくれたらしい。

 可愛いぬいぐるみや人形で部屋が埋め尽くされそうだと、乳母は笑っていた。

 産まれたのが男児でなくとも、夫が我が子を特別冷遇するつもりはないらしいことに、リデルはほっと胸を撫で下ろす。


 しかし、娘のために用意された日当たりのよい部屋の扉を開けようとした瞬間。聞こえてきた声に、リデルの身体はぎくりと強ばった。


「なんて可愛らしい赤ちゃん……。髪も、目も、あなたにそっくりだわ」


 顔を合わせたことなんて、一度もない。

 なのに、どうしてわかったのだろう。その声が、村に住むあの美しい、太陽のような女性のものだと。

 立ち尽くすリデルの耳に、今度はオスカーの声が聞こえてくる。


「抱いてみるか?」


 こんなに柔らかな彼の声を、リデルは初めて耳にした。

 彼は、愛しい人を相手にこんな風に喋るのか。


「いいの? でも、さっき言ってたじゃない。この子は人見知りだって……。泣かせたら悪いわ」

「遠慮するな。お前は特別だ」


 オスカーの発した言葉が鈍器のように、ガンとリデルの頭を殴りつける。

 布が――恐らくエミリアが被っていた掛布が擦れる音がし、少し遅れて、女性の溜息が落ちた。

 エミリアの泣き声は、聞こえない。


「可愛い……。こんなに愛おしい気持ちになったのは初めてよ」

「やはり、俺の思った通りだ。エミリアもお前に抱かれるのが嬉しいらしい。これからもこの子に会いに来てやってくれないか? シャーロット」

「ええ、もちろんよ。……オスカー」


 女性の、とろけるような甘い笑みまで容易に想像できるような、親しげな呼びかけだった。

 その後、リデルは自分がどうやって自室へ戻ったのか覚えていない。 

 気付けば目の前に心配そうな顔をしたミーナが立っており、長椅子の背もたれに身体を預けるリデルの肩を、名を呼びながらそっと揺さぶっていた。


 それから何日経っても、頭にこびりついて離れない。

 シャーロットと呼びかける、オスカーの柔らかな声音が。

 副長の妹も敵わぬほど、オスカーに心から愛されている女性の名前が。

 心に入った罅が、パキリと小さな音を立てた気がした。



 静かに、静かに。

 水を与えられぬ花のように、リデルは生きながらひっそりと枯れていく。

 熱を出すたび食事もろくに喉を通らず、あれほど好きだった読書をする気にもなれず虚ろな日々を送るリデルの許に、ある日珍しくオスカーがやって来た。

 彼は、以前より更に痩せたリデルを見るなり顔を歪めた。不快そうに眉根を寄せた彼が発したのは、リデルへ療養を勧める言葉。


「領地の外れに、母が好んだ別荘がある。ここに比べて気候も穏やかで空気もよく、住民たちも明るく気質がいい。しばらくそこで身体を休めてはどうだ。城のことも、エミリアのことも、貴女は何も心配しなくていい」


 出来損ないでも、さすがに彼の言葉の真意がわからないほど愚かではない。

 自分は、夫に見限られたのだ。

 自分がいなくても、城のことは副長の妹がいれば事足りる。

 エミリアの世話は、乳母と、あの美しい女性に任せるのだろう。

 オスカーは、リデルを必要としない。これまでも、そしてこれからも。

 城を出たリデルがここに戻ってくる日は、きっと一生やってこない。

 だが、縋り付くようなみっともない真似をして、彼を困らせたくなかった。


「お気遣い、ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」


 リデルが身体を壊したことによって、オスカーは療養という大義名分を得た。誰に非難されることもなく、要らぬ妻を余所へ追いやることができる。

 少しは彼の役に立てただろうか。

 乾いてカサカサになった唇で、リデルは微笑を形作った。我ながら、よく出来た笑みだった。


 出立の朝、オスカーはわざわざリデルを馬車まで見送ってくれた。


「別荘を管理しているのは、気立てのよい老夫婦だ。心煩わせることなく、ゆっくり休め」


 馬車に乗り込む直前に掛けられた言葉は彼からの、名目だけでも妻だった女に対する、最後の情けだったのだろう。


「愛しているわ」


 リデルは娘の白い頬に唇を寄せ、小さく囁いた。

 離ればなれになっても、エミリアがリデルにとって宝物である事実は一生変わらない。


「さようなら」


『行ってきます』でも『また会いましょう』でもない別れの言葉を告げ、リデルは車窓から、まだ赤子のエミリアと彼女を抱いた夫を見つめ続けた。

 ふたりの姿が豆粒のようになっても、二度と会えないであろう愛しい人たちの面影を目に焼き付けるために。


 けれどその後すぐ、リデルの目が永遠に閉ざされることになろうとは――一体誰が、予想していただろうか。


 城を出て少し離れた森に差し掛かった一行は、短い休憩を終え、再び別荘へ向けて出発しようとしていた。

 しかしリデルたちが乗り込んでしばらく経ってから、急に外の様子がおかしくなったのだ。

 護衛たちのものであろう、呻き声が聞こえてくる。それに気付いたリデルは、同行してくれていたミーナと顔を見合わせた。


「お、おい、どうしたんだ? 大丈夫か!」


 御者のそんな声と共に、ガシャガシャと、重い金属が地面に落ちるような音が響いた。

 外を見ずとも、鎧を着た護衛たちが倒れたのだとわかった。


「皆、どうした! 一体何が――」


 困惑する御者の声をかき消すように、大勢の男たちの乱暴な声と、馬の鋭い嘶きが聞こえた。


「な、なんだお前たちは! 何を……ッギャァァァァァァァァ!!


 およそ普通の人生を送っていれば耳にすることがないであろう御者の悲鳴に、リデルとミーナは固く身を寄せ合い、震え上がった。

 ガチャガチャと、金属が擦れ合う音がする。

 けれど、護衛たちの鎧の音とは違う。もっと別の何かだ。

 歯の根が合わず、ガチガチと音を立てる。抱きしめ合う腕にこれまで以上に力がこもった瞬間、唐突に、バンッと激しい音が響いた。

 馬車の扉が外から開かれたのだ。


 外に立っていたのは見知らぬ男たち。

 明らかに無法者とわかる容貌をしており、不潔そうな服には返り血を浴びていた。

 聞こえてくるはずの馬の鼻息も、御者の声も聞こえないことに気付いたのは、リデルもミーナもほぼ同時だっただろう。


「ひ、ひ、姫さま、わたしの後ろにっ」


 今にも倒れそうな顔色をしているというのに、ミーナは勇気を出し、主人を守るという義務を全うしようとした。

 しかし男たちはそんな彼女の手を掴み、無理矢理外へ引きずり出した。ミーナの悲鳴が、森中に響く


「ミーナッ!」


 大切な友が殺されてしまうかもしれない状況に、リデルは一瞬恐怖を忘れ、馬車から飛び出そうとする。

 しかし扉を塞ぐようにして中に入ってきた男によって、それを阻まれた。

 無精髭を生やした、目つきの悪い大男。見た目の年齢や雰囲気から、この無法者集団の頭目ではないかと予想がついた。


「アンタが姫さんか。ちっと痩せすぎだが、噂より美人じゃねぇか。へへっ、こりゃ想像以上に楽しめそうだぜ」


 男の下卑た笑みを見て、リデルは己がこれからどんな目に遭うか悟った。

 じりじりと近づいてくる男に気付かれぬよう、腰のリボンに手を伸ばす。指先が硬く、冷たい感触に触れた。

 男の手が胸に伸びてきた一瞬の間に、リデルは隠し持っていた短剣を素早く抜き、相手へ向かって全力で振り降ろした。

 特にどこかを狙ったというわけではない。ただ、夢中だった。

 しかしミーナを助けねばという一心で突き立てた刃は、運良く男の耳を切り落していた。


 醜い悲鳴が上がる。

 耳を押さえながら蹲る男の首に刃を当て、リデルは声を張り上げた。自分でも、どこにこんな力が眠っていたのか不思議だった。


「来ないで! 来たらこの男の命はないものと思いなさい!」


 血を吹き出す仲間の姿に動揺してか、男たちの反応が鈍る。その隙を見逃さず、リデルは木の側で腰を抜かしているミーナへ、視線だけで逃げろと訴える。

 彼女のすぐ背後に、男たちが乗っていたであろう馬が、数頭佇んでいた。

 ミーナは乗馬が得意だ。

 ふたりで逃げれば助からないかもしれないが、ミーナひとりであれば逃げ切れる可能性が高い。ここにふたりで残ったところで、共に死ぬだけだ。

 しかしミーナは目に涙を浮かべ、首を横に振って拒絶する。


「姫さまを置いてなんていけません……っ!」


 忠実な侍女である彼女がリデルの命令に従わなかったのは、後にも先にもこれだけだった。

 そんなミーナだからこそ、生きてほしいと思った。


「助けを呼ぶのよ! いきなさい!!」


 リデルは大きく息を吸い、ありったけの声を張り上げた。

 大人しく、声を荒らげることなど一度もなかった主人の、空気を震わすような叫び。

 ミーナは弾かれたように顔を上げ、未練を振り切るように背後の馬に飛び乗った。


 耳を失った痛みと衝撃から男が立ち直ったのは、それとほぼ同時だった。

 ミーナをこの場から逃がせた安堵から油断していたリデルの拘束を、男はいともあっさり振り解く。

 背後に突き飛ばされ地面に転げたリデルは、己の手から短剣が離れなかったのは奇跡だと思った。


 ミーナには助けを呼べと言ったが、彼女が戻って来た時には、もう何もかもが手遅れになっているであろうことを、リデルは知っていた。

 もし命を奪われなかったとしても、この無法者たちはリデルに、女性にとって最大の屈辱を与えるだろう。

 そして妻を傷物にされたオスカーは、彼が何一つ悪いことをしておらずとも、世間から後ろ指を指されてしまう。

 妻を野盗に汚された男、と。

 リデルは自分が悪し様に言われることより、オスカーに迷惑を掛けることのほうが耐えがたかった。


 ああ、そうか。

 短剣の感触を指先で確かめながら、リデルは彼が以前口にしていた言葉を思い出す。


 ――騎士の妻は、ならず者からその身を汚されそうになった時のため、必ず短剣を持つものだ。それを肌身離さず持ってさえいれば、貴女も私の妻として、夫の名誉を守らねばならないという自覚が芽生えるだろう。


 こんな時のために、彼は短剣を贈ってくれたのだ。

 今、まさにリデルはならず者からその身を汚されそうになっており、そしてリデルの身が汚されれば、オスカーの名誉が傷ついてしまう。

 リデルは薄らと笑った。

 何を笑っているんだと怒声を張り上げる、男たちの声すらほとんど耳に届いていなかった。


 彼の名誉を守るため、自分でもできることがあるのだという事実が無性に嬉しかった。

 短剣を首に押し当て、ぐっと力を込める。

 そのまま躊躇うことなく、一息に刃を引いた。


 赤い、赤い血が、降り注ぐ。

 生温かい感触が肌の上に広がって行き、視界が徐々にぼやけていく。

 首を掻ききったというのに、不思議と苦痛は感じなかった。ただほんの少し、胸の痛みがあるだけ。


 ――ごめんなさい……。そして、ありがとう。


 初めの言葉はエミリアへ。

 次の言葉はオスカーへ。

 この世で最も愛するふたりへの言葉は音になることもなく、風に乗って消えていく。


 閉ざされた瑠璃色の目から、ころんと涙が流れる。

 それはまるで、リデルの中にあった命の、最後のひと欠片のよう。

 沈む意識の中でリデルは温かな涙の感触を、確かに感じ取っていた。


 もう、何も見えない。

 何も聞こえない。

 すべてが闇に呑み込まれる中、リデルの頭の中にある光景が浮かび上がる。


 ――大丈夫ですか、王女殿下プリンシア。私が離宮までお運びしましょう。


 黒い騎士服に、銀の飾緒。

 白い手袋に包まれた右手を遠慮がちに差し出すオスカーの、心配そうな視線。 

 冴え冴えとした、冷たい青。リデルの大好きな、冬色の瞳。


 それが、リデル・ラ・シルフィリア・ディ・アーリングの、最後の記憶。

 人々から『はずれ姫』と蔑まれ、夫に愛されなかった花嫁の、短すぎる人生の終焉だった。

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