第6話
彼と初夜を過ごし、きちんと妻になりたいと思っていた。
けれどこんな形で――なんて、決して望まなかった。
あの日から一ヶ月が経った。
オスカーは日を開けずリデルの部屋を訪れ、淡々とした義務のような行為を済ませて帰って行く。
朝を共に迎えたのは、初日だけ。それとて、別にリデルと過ごしたかったからではなく、空が白み始めるまで彼の怒りが収まらなかったからというだけに過ぎない。
全身の痛みと疲労で動けず呆然と涙を流すリデルに、彼は何も告げず、侍女たちに後始末を任せて去ったのだから。
一度目の行為を除いては、オスカーの手つきに荒々しさを感じることも、怒りを感じることもなかった。むしろ彼は痛くはないかと、リデルを気遣いさえした。
さすがに初めての女性にあのようなやりかたは拙かったと、彼なりに反省したのかもしれない。元々は高潔な騎士なのだ。
しかし後日、侍女の口からオスカーの伝言を聞き、リデルはこれ以上の絶望があるのかと思った。
彼はリデルに、自身の許可がなければ部屋から出ることさえ禁じたのだ。
――俺は『カッコウの雛』を育てる気はない。
あの時彼が口にした言葉が、頭の中で鳴り響いた。
ミーナは、自分のせいだと言って泣いた。
リデルのためによかれと思ってイーサンを呼んだが、まさかこんな事になるとは思いもしなかったと、何度も謝っていた。
リデルはそんな彼女を、笑って赦した。あなたのせいじゃない。わたしが旦那さまを怒らせてしまったの、と。
そして驚いた。こんな状況でも、自分はまだ笑えるのだと。
部屋に閉じこもったまま、日々は過ぎていく。
軟禁も同然の状態となったリデルの部屋には、副長の妹がよく顔を見せにきた。相変わらず美しい顔に余裕のある笑みを浮かべ、豪奢なドレスを着た彼女はリデルより余程、城の女主人らしい。
「城のことはわたしがやっておきますからどうぞご安心なく。奥さまが部屋から出なくても、何も困りませんもの」
リデルがいてもいなくても同じだと、暗にほのめかされた。
以前にも増してひっそりと、息を殺したように過ごすリデルを心配し、ミーナが外に出ようと誘ってくれた。天気がいいとか、花が綺麗だとか言って。城の敷地内を散策するくらいなら、オスカーも反対することはないだろうと。
けれどリデルは、彼に外出の許可を求めなかった。厭われていることがわかっていながら平気で出歩けるほどの、強い精神を持ち合わせていなかった。
そうしている内に、不思議なことが起こった。
こんなことになる前は一度も聞かれなかったのに、なぜかオスカーから、欲しい物はないかと頻繁に聞かれるようになったのだ。
もしかすれば、リデルが父に不満を言うことを恐れていたのかもしれない。
でも、リデルはそんなことはしないし、それに自分の欲しいものが絶対に手に入らないことを知っている。だから毎回、何もないと答えた。
そのたびにオスカーは不機嫌になり、焦れたようにリデルを抱いた。
ある日の晩、オスカーが綺麗な短剣を手渡してきたことがある。これは何かと問いかけると、貴女への贈り物だという答えが返ってきた。
誕生日でも記念日でもない、結婚して初めての贈り物に、リデルは驚いた。
一体どういう風の吹き回しだろうと思ったが、気まぐれでも彼から何かを貰えたことが嬉しかった。
「ありがとうございます、大切にいたします」
ひび割れた心に、染み渡るような喜びが広がって行く。
久しぶりに微笑んだリデルに、オスカーは素っ気なく付け加えた。
「騎士の妻は、ならず者からその身を汚されそうになった時のため、必ず短剣を持つものだ。それを肌身離さず持ってさえいれば、貴女も私の妻として、夫の名誉を守らねばならないという自覚が芽生えるだろう」
リデルはその日から毎日、短剣を陽にかざしては飽きもせず眺めた。夜、寝台に入る前も、必ず短剣を枕の下に入れておくようにした。
オスカーの望んだ通り、室内を移動する時ですら、肌身離さず持ち歩いた。
また別のある日のこと。
リデルは外から楽しそうな声が聞こえてくるのに気付き、掃除係の下女に、あれは何かと尋ねたことがある。
下女は、村の子供たちを招いて食事を振る舞うのだと教えてくれた。オスカーが領主になってからは半年に一度、必ず決まった日に行っているのだそうだ。子供は未来を紡いでいく宝だからと。
興味を引かれて窓から外を覗いてみると、庭の芝生の上を大勢の子供たちを引率し、見知らぬ女性が歩いていた。
艶やかな栗色の髪をひとつに束ね、質素なワンピースに身を包んだ、綺麗な若い娘。
子供たちに何かを話しかける彼女の、太陽のように明るい笑顔を見た瞬間、リデルは悟った。
オスカーが面倒を見、心を砕き、城へと請うている娘は彼女なのだと。
貧しい装いなど気にもならないほど美しい彼女の訪れを、オスカーは心から歓迎しているようだった。
リデルには見せたこともない柔らかい微笑で迎え、優しい抱擁と頬へのキスを贈っていた。
耐えられず、リデルはすぐにカーテンを閉めた。
その夜、珍しくオスカーの訪れはなかった。翌朝わざわざ副長の妹がやってきて、例の彼女が城の客室に泊まったのだと教えてくれた。
毎月身体に起こるはずの変化が遅れていることに気付いたのは、初めてオスカーと夜を過ごし、ふた月が経った頃だった。
ミーナから侍女頭に報告が行き、すぐに医者が呼ばれる。
――診察の結果、懐妊が発覚した。
その日の晩になり、ようやくリデルの許へ顔を出したオスカーは、たった一言、こう告げただけだった。
「……これからは十分に自愛するように」
興奮も、喜びも、満足感も、何も伝わってこない。
いつも彼がリデルに話しかける時そのままの、淡々とした声。
この期に及んで一体何を期待していたのだろうと、リデルは一筋、涙をこぼす。子供さえできれば、少しは彼の態度も変わるのではないかという淡い希望は早々に打ち砕かれた。
身ごもっている期間、オスカーは夫としての最低限の義務とばかりに、三日に一度だけリデルの許を訪れた。
事務的な態度でリデルの気分や体調を尋ね、欲しいものがあれば何でも侍女たちに命じるようにと言う。
そして会話の最後は毎回お決まりのように、身体を大事にしろという一言で終わる。それ以上の会話に発展したことは皆無だ。
気付けば、赤子のための乳母が決まっていた。身元の確かな女性で、産み月がちょうどリデルのひと月ほど前らしい。
母親の声はお腹の子にも聞こえているから、本を読んだり話しかけてあげればいいと教えてもらった。
日に日に大きくなっていく腹を撫でながら、リデルは以前、彼からもらった綺麗な装丁の本を手に取る。
もったいなくて眺めるだけだったそれを初めて開き、腹の子に聞こえるよう声に出して読んだ。
悪い竜に攫われた美しい姫君を、勇敢な王子が助けに行く優しい恋物語だった。
そうして産み月を迎え、リデルは元気な女の子を産み落とした。
華奢な身体で出産に耐えられるだろうかと誰もが心配していたが、予想されていたより遙かに安産だった。
男の子でなければ跡継ぎにはなれない。
オスカーは落胆しているかもしれないと心配していたが、彼の表情からはやはり、何も読み取れなかった。
けれど、ゆっくり休むよう言い残した彼が、赤子を抱こうともせず、リデルに背を向けたのだから、きっとそういうことなのだろう。
オスカーそっくりの冬色の目と、漆黒の髪。
色は父親似だが、顔立ちはリデルによく似ていると、ミーナは喜んでいた。
娘はリデルによって、エミリアと名付けられた。
オスカーが希望の名前はあるかというので口にしたら、そのまま採用されたのだ。
彼は思いもしなかっただろう。その名が、以前自身がリデルに贈った本に登場する姫君の名前だなんて。
リデルにとって、娘は大好きな人との間に産まれた愛しい宝物。だからどうしても、思い出の本から貰った名を付けたかったのだ。
エミリア誕生の報を受け、両親やきょうだい、親戚だけでなく、国中の貴族が元王女の出産を祝った。連日贈り物が届けられ、訪問客も後を絶たなかった。
階下は常に大勢の人の声で賑わい、頻繁に祝宴も開かれているようだ。
その様子に耳を傾けながら、リデルはひっそりと、ぼろぼろの身体を癒す。娘は早速乳母の手に託され、泣き声すら耳にできない日々を過ごさなければならなかった。
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