57小節目 この世界のこと

 『翔空』


 フルート、アルトサックス、トランペットという変わった編成の3重奏。作曲者は永海優という人だ。帰宅後に検索エンジンで調べたが、作曲家としてはヒットしなかった。おそらく身内の、たとえば忘年会のような小さなイベントで、何かちょっとした出し物のためにわざわざ書き下ろされたんじゃないか――と楽譜の持ち主であった、吹奏楽部部長の中井田なかいだ文香ふみか先輩は言っていた。……なぜ中井田先輩が持っていたのか、そもそも永海優という人と中井田先輩がどういう関係なのか、ますます謎が深まるばかりだが。


 とにかく、この曲の特徴としては……2分程度、30小節ちょっとで終わる短い曲。スタンダードな4/4拍子で、テンポも72とゆっくり。途中に3/4拍子ゾーンが少しだけ挟まっているということ以外は特別な技術を必要としないシンプルな曲。初心者でもしっかり練習をすれば十分吹けるレベルだが、テンポがゆっくりかつあまりにシンプル過ぎる。そのため、音程、リズム、ハーモニーといったありとあらゆる要素のごまかしが一切効かない。これを上手に聴かせるとなるとかなりの技量が必要となることは、音楽初心者の僕ですら分かった。

 もっとも、今回はコンクール等といった場所で演奏するのではなく、単にフルートの同級生、越阪部おさかべ夢佳ゆめかの母親を納得させるために吹くのだが……せっかく演奏するのだから、出来る限り上手に聴かせたい。


 見た目は簡単、聴いても簡単、実際吹くだけなら確かに簡単。しかしいざ極めようとなれば超難曲。そんなキャッチフレーズがお似合いなこの曲。

 だが……我ながら、これが初めてのアンサンブルだとは思えないほどに凄まじい上達スピードだと感じていた。中井田先輩の教え方がいいのだろうか、3人の息がぴったり合っているからなのだろうか、それともこの音楽室という場所が力を与えてくれているからなのだろうか……よく分からないけれども、少なくとも僕一人で黙々と練習しているよりも圧倒的に思い通りの音が出ていた。イメージの音と、耳から飛び込む僕らが奏でる音がばっちりと重なっていた。


 越阪部の母親は超が付くほどの子煩悩であり過保護だ。とある一件……まあ、僕が明確にやらかしたと言っていい一件なんだけど、その事件があってから毎日学校に送迎しに来ている。その時間が練習のタイムリミットなのだが……今までは部活終了時には既に越阪部母が来ていたのだが、練習を始めてから不思議なことに、ある程度の猶予を持って母親が来るようになった。

 越阪部いわく、少し『アイツ』と話をして、それを『なぜか知らんが奇跡的に』聞き入れて貰っているとのこと。事件の後に学校への登校すら許さないと主張する母親と話し、送迎という条件付きで越阪部の学校への復帰を可能にしてしまった、顧問の長谷川はせがわ先生の効果もあるのだろうか? よく、分からないが……。


 とにかく、予想していた障害は完全に取り除かれたと言ってもいいような状態で、僕ら3人は曲の練習に取り組めていた。他の生徒より遅く下校するので、その際に廊下で先生に怪訝な顔で睨まれたりするけれども、僕にとっては何も感じなかった。僕はいわば日常を取り戻す戦いをしているのだ。他人の目に構ってられるかってんだ。


「まあ、感じ悪いよなー、とは思うけどな」


 幼馴染でサックス担当の佐野さの心音ここねと二人で帰る道。いつもより暗い道を歩く。周りの明るさが違うだけで、なんだか新鮮に思える。本当はここに越阪部がいるはずなんだけれども……。


「先生にも先生の考え方っていうのがあるんだよ。そういう風に見られちゃうのも仕方がないと思う」

「それを仕方ない、で済ませられる心音って優しいよな」

「人の考え方って色々だもん。ウチも両親のつながりで色んな人と会ってきたから」


 心音の両親は元々同じ高校の吹奏楽部の部長と副部長だったと聞いている。2人が卒業した後もちょくちょくOB・OGとして高校に顔を出したり、集まったりしており、そこに心音も連れられていた。当然ながら吹奏楽部は人数が多いので、心音は幼い時から色んな人に出会っていた。

 小さいときから色んな大人を見てきた心音は、視野が僕の比ではない。


「達観してるな……」

「それって老けてるってこと? 殴るよ?」

「いつからお前そんなに暴力的になったんだ」


 護身用サックスケースを目の前に突き出されたのでストップを掛ける。


「夢佳のお母さんだってそう。外の人間であるウチらから見れば、確かに変な人のように思えてしまうけれど……もし、夢佳のお母さんの人生を全部辿ることが出来たら、見え方がすごく変わってくると思うんだ」

「なるほど……」

「多分、そんなこと出来ようがないんだけどね。……だから、夢佳のお母さんにもウチは出来るだけ寄り添ったうえで、3人で帰る日常をもう一度手に入れたいんだ」


 そう語る心音の瞳は真っ直ぐだった。ああやって広い視野で物事を受け入れつつも、持ちうる気持ちは素直で純粋そのもの。それが心音という人間なのだ。


「……そのためには、曲を完成させないとな」

「うん! 音楽には力があるんだ。悠斗ゆうともウチも、その音楽の力に誘い込まれて吹奏楽部にいる。そうでしょ?」

「その通りだよ」

「だからさ。今度はウチらの番。……なんてね」


 ちょっとカッコつけたかったのか、心音は照れたように笑った。


「うん。俺らの番。世界を変えてみせよう」


 それにちょっと大きく盛って乗っかってみる。


「あはは。大げさすぎ」

「大げさにしてみました」

「うん。……でも、間違いじゃないかもね。今のウチらの日常は、ウチらの世界の全てだから」

「だな」


 世界はもっともっと広いけれども。今の僕らにとって、学校での生活こそが世界の全て。2人で帰る日が、3人で帰る日に戻る……そんな日常の変化も、僕らの世界にとってはとても大きな変化なのだから。


「……世界って言えば」


 心音が夕闇の空に言葉をぽつりと溶かす。飛行機だろうか、紫色の空の遠くにはゆったりと点滅している赤い光が浮かんでいる。


「悠斗はさ。世界の数って、どれだけあると思う?」

「何を突然」

「なんとなく」

「んー……」


 この吹奏楽部に入って、何となく感じてきたことがある。


「多分、なんだけどさ。無数に分岐してるんじゃないかな、とは思っているんだよな」

「……パラレルワールドってやつ?」

「そう」


 越阪部の母を長谷川先生が説得し、越阪部が再び登校できるようになったこと。

 偶然にも屋上でフルートを吹く越阪部に遭遇して、距離がぐっと縮まったこと。

 そして、これまた偶然にも中井田先輩が僕らの編成にドンピシャな楽譜を持っていたこと。

 もっと言えば、僕がここに転校して、心音と再会したことすらも……。


「……運というか、もはや都合が良すぎるんだよ。俺らにとって。まるで、成功のレールがまっすぐ引かれてるような感じがする」

「言われてみれば……文香先輩が楽譜を持ってるときはびっくりしたもん」

「だから多分。それが成立しなかった世界線も無数にあるんじゃないかなって、僕は思ってる」

「ふーん……」


 太陽は沈んだ。端っこにわずかに残ったオレンジの光と、夜の色が混ざる空。眺めていると、別の世界にいる僕らがうっすらと透けてみえるような気がした。


「けれどもさ、最終的には俺ら次第だと思う。どんなに運がよくたって、都合がよくたって……俺らがダメなら、いい終わり方にはならない」

「うん」

「だから、頑張らなきゃな……今の俺らは、こんなにも恵まれているんだから」


 僕の言葉に、心音はふふ、と笑った。


「うん。頑張ってね」

「何だよ。心音も頑張るんだぞ?」

「ウチはいっつも頑張ってるからねー」

「うわー、楽器経験者の心の余裕ってやつかよ」

「だってたっくさん頑張ってくれる悠斗がいるからね! よゆーよゆー!」

「俺にプレッシャーを放り投げるなって……」


 2人で帰る日常も悪くない。だって当たり前だ、僕と心音は幼馴染なのだから。

 ……でも、やっぱり越阪部がいてくれたらな、とはどうしても思ってしまう。


 ふと、あの時屋上で越阪部が見せた眩しい笑顔が脳裏をよぎる。

 何でだろう。今、目の前にいるのは心音だけなのに。

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