51小節目 無人ブランコは僅かに揺れる

 散歩をしている子犬と男の子が僕と越阪部おさかべのそばを通り過ぎた。その子犬はそっぽを向いていて、男の子と距離を取っていた。一方男の子はニコニコしていて楽しそうだ。


「……私は、あんな感じなのかもしれないな」

「あんな、感じ……?」

「あの、子犬のような」


 真っすぐすぎる愛情を拒否している子犬。そのサインに気が付くことのない男の子。子犬が越阪部で、男の子が越阪部母ということか。確かにピタリと当てはまるような気がした。


「ちょうどいい、公園がある。そこで落ち着けて話そう」


 今は誰もいない小さな公園。かなりおぼろげな記憶だが、確か幼稚園にいたときによく親に連れていってもらった気がする。それ以来ということだから……ここに来るのはだいたい7、8年ぶりというところか。

 あの時から変わらないであろう遊具がすごく小さく見えた。もちろんするつもりはないが、もうこれらの遊具を全力で遊ぶことはできない。それにもはや当然のことだが、親も今の僕を連れてここで遊ばせようなんて思うこともあり得ない。

 普通は……あり得ない、はずだ。でも……。


 僕と越阪部は適当なベンチに座った。越阪部は今の僕らにはすっかり小さくなってしまったブランコをじっと見つめていた。誰もいない空のブランコは微動だにしなかった。ただそこで静止している。

 何か思い立ったのだろうか。不意に越阪部が立ち上がって、そのブランコのもとに歩いていく。僕はそんな越阪部をベンチから見ているだけ。

 越阪部はブランコには座らずに、座るところを頭くらいまで持ち上げてパッと離した。さび付いた金属のこすれる高い音を上げながら、数回大きく宙に踊る無人のブランコ。摩擦が強いせいか揺れが収まるのは早くて、あっという間に勢いを失ってしまう。


「それでも、小さくは動くんだ」


 ベンチに座る僕に向けて、越阪部はこう言った。よく意味が分からない。


「……どういうこと、だ?」

「見てれば分かるよ」


 越阪部が指さす場所……ついさっき勢いを失って静止したばかりのブランコを見る。……ああ、確かに。よく見ればまだ、目を凝らさないと分からないレベルだが、ブランコは揺れ続けている。完全には静止していない。


 ……いや、分かったがこれはどういうことだ? 何が言いたいんだ?


「キミは私のことをどう思う?」

「……」


 越阪部の話題があっちに行ったりこっちに行ったり。そもそも越阪部母の話をするんじゃないのか? ……とはいえ、越阪部が向けてくる目は真剣そのものでふざけてるようには全く思えないから僕はその質問に答える。


 ……素直に、答えられそうな感じがした。


「そうだな、俺は……いい友達だと思ってる。何というか感性も近そうだし、女子の中だとだいぶ話しやすい気がするんだ。越阪部ってさ」

「どうして話しやすいと思うんだ?」


 越阪部が僕の隣に戻って座る。口調は極めて穏やかで、僕の目を真っ直ぐにじっと見ている。越阪部の黒く大きめな瞳に吸い込まれそうだ。僕の言葉も、思っていることも。

 実際僕の気持ちは、越阪部によって吸い取られるようにつらつらと僕の口から出てしまう。


「それは……越阪部って結構感じが男子っぽい、っていうか……ああ、もちろんいい意味で! 女子として見れない訳じゃないんだ、だってルックスとか、結構可愛らしいとこあるし……って、何言ってんだ俺……」


 いやいやいや素直に言いすぎじゃないかいくら何でも!?

 僕は慌てて口をつぐんだが、越阪部はそんな僕を見てほんの少し口端を上げた。


「はは……そっか。私がずっと演じてきたものは間違いじゃなかったんだな」

「演じてきた……?」


 ……演じて、きた。って。越阪部がすっと立ち上がって僕の前に来る。

 後ろから夕陽に照らされて越阪部のシルエットが浮かび上がる。やっぱり、越阪部は小柄だ。歳不相応に小さい、とすら思える。


「私はこんな身体で、こんな顔。それに、高い声をしてる……らしい。だから……『可愛い』ってたくさん言われたんだ、昔は」


 言葉だけは昔の自慢話をしているようだが、越阪部はまるで嬉しそうな気配を見せない。

 ああ……もしかして越阪部って。


「……越阪部は『可愛い』って言われるのが嫌だった、のか?」

「嫌だった。うんざりだった。子供ながら」


 即答だった。


「だから私は可愛くないように振る舞ったんだ。褒め言葉を拒絶して、感情を内側に押しとどめて、笑顔を押し殺して、楽しいを押し殺して。……そうするために昔の私はどうしたか、分かるか?」


 少し考えてみる。まもなく何となく思い当って……。


「……分かる、気がする」

「多分、キミが思うそれは正解だ」

「どうして分かるんだ? 俺は何も言ってないぞ?」

「キミは、勘がすごくいいと思うからね」


 そして、越阪部は。


「……そう、正解は『私自身を嫌いになること』だ。そしたら、どうしようもなく可愛くなくなるだろう?」


 ほのかに笑った。自嘲するように。

 ああ、そうか、越阪部は……自分も含めたすべてを敵に回すように振る舞ってきたんだ。


「……心音ここねにはすごく助けられたんだ。小三の頃にこの土地に来た後、一番最初に話しかけてくれたのが彼女だが……彼女のおかげで幾分かは丸くなったと思う。ほんの少しは笑えるようになったと思う……」


 越阪部が僕の隣に座る。宇宙の遥か遠くから届く夕日を眺めているような、そんな表情。


「でも、小さい頃からずっとずっと着け続けた仮面だ。既に固着していて……今更もう剥がれないんだよ」


 越阪部は諦観していた。完全に。


 ――固着している? 今更もう剥がれない? 越阪部がさっき言ったばかりの言葉と矛盾している。

 だってさ、心音のおかげで笑えるようになったって言ったじゃん。自分からさ……!


 僕の目線は越阪部がさっき動かしたブランコに行く。既にブランコは完全に止まっているように見える。


「……それでも、小さくは動くんだろ?」


 止まっているように見える、でも、多分、まだ……目に見えない、感じ取れないくらいは動き続けているんじゃないだろうか。


「そう、かもな」

「それ、に!」


 僕は立ち上がってブランコの元に行った。地面からは膝の半分くらいしか離れていないので普通に座って乗ることは難しいし、そもそも乗って遊ぶ歳でもない。だから僕は、さっき越阪部がやったように座る部分を顔の目の前まで持ち上げ……そして、勢いをつけて押し出した。


「誰かがこうして動かそうとし続けるなら――」


 すぐに勢いを失い止まりかけるブランコを持ち上げ。


「――ずっと、動き続ける、だろ!」


 それを押し出す。無人のブランコは動くのをやめない。誰かがブランコに力を加える限り。

 固くて動かないように思える、いや思い込んでいる、越阪部の着けた仮面だって……きっと。


「……キミは、私にそこまでするのか?」


 越阪部が僕を睨みつけた。僕はひるまない。


「するよ。俺だけじゃない、心音だって同じことをする。……一人じゃないんだ、お前は」

「こんな私にそこまでする価値なんて――」

「ある」


 言葉を遮って言う。強い言葉にはそれ以上に強く出るんだ。僕の気持ちを、伝えるんだ。


「あるんだ」

「どうして」

「毎日近くにいるからだよ。俺と心音の近くに、毎日」


 越阪部は、もう、僕にとって……。


「……いなきゃいけないんだよ、越阪部は。俺たちの日常にさ」

「……」


 ……哀しそうな目。そう、見えてしまった。

 越阪部はその瞳を僕から逸らすと、後ろを振り向き突然逃げ出すように駆け出してしまった。慌てて止めようとする。


「お、おい、越阪部!」


 すんなりと言葉に応え、止まってくれた。が……越阪部は。


「すまない。私は……その好意に、応えたくない」

「どうして!?」

「私は!」


 はっきりと見えた。

 僕に叫ぶ越阪部の頬に、涙の筋が伝っていた――。


「……私にはその資格がないんだ! その資格が、ない……ない、のに……っ!!」

「越阪部! 待てって――っ!」


 僕は再度逃げ出す越阪部を追いかけようとする。

 しかし。


「あなた、吹奏楽部の子ー?」


 特徴的なこの声、この口調。分かる。分かってしまう。

 最悪だ。よりによってこのタイミングで来るなんて。


 頭が真っ白になる。思考が一瞬にして奪われてしまう。

 この人は……越阪部の母だ。嫌がる越阪部を思い切り抱きしめている……。


「うちの『可愛い』夢佳ちゃんをこんなにして……」

「……ごめんなさい」

「謝っても許さないからね? 夢佳ちゃんは、私が全部守るから」


 話が通じない。それどころかこの人、一瞬で越阪部だけしか見えなくなってる……!


「っ、おい、私の話を――」

「大丈夫よ夢佳ちゃん。お母さんが夢佳ちゃんを守るからね?」

「違うんだ、違うんだよっ!」

「何が違うの? だってひどいことされたんでしょ?」

「してない!」

「落ち着こうね夢佳ちゃん。落ち着いたら分かると思うからね? あの子にひどいことをされたって、ね?」

「違……っ……!」


 越阪部を強引に引きずっていく越阪部母。予想外の展開、しかも最悪中の最悪の展開……こんな唐突すぎる展開に、僕はただ呆然と立ち尽くすだけだった。


 でも、さ。いくらなんでも予想外でもさ、なんで……なんでこんな時に、僕の身体は動けないんだよ……。


「……最低だ、俺」


 ふらふらとベンチに戻ろうとしたが、微動だにしない無人のブランコが目に入る。僕はふらふらと、その小さく薄汚れた空席に吸い寄せられていく。

 宙に吊るされ不安定に揺れる窮屈な座席。座り心地は最悪だが、今の僕にはそれが良かった。


 落ち込んだ気分はそのままに、僕は少しずつ冷静さを取り戻していく。

 そして、はっとした。


 いつもなら僕は他人の気持ちとか、そういうのを何となく察することができる……らしい。あまり自覚というものはないが。

 しかし、あの時の越阪部は何を思っていたのか? 何を求めていたのか?


 僕は……まったく思い出せなかった。


「俺……越阪部のこと、見えてなかったかもしれない」


 気が付けば夕日は完全に沈んでいた。

 赤い光さえも、僕の元には、越阪部の元には……届かない。


 ひんやりとした夜風が身体をかすめ、僕の熱を奪った。




--※--




「そう言えば。ウチらが昔通ってた幼稚園のブランコ、なくなったんだって」

「……古くなったから、かな」

「かもねー……」


 誰かが隣にいれば、ブランコは動き続ける。

 でも……撤去されたブランコはもう動かしようがない。




 翌日から、越阪部は学校に来なくなった。

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