35小節目 縛り付ける過去、暗示された未来

 西部地区研究発表会。午前の部が終わり、同級生たちと昼食を食べ。

 それぞれの楽器を出して、楽器運搬の都合で打楽器パートと別れ、僕らは誘導係である他の吹奏楽部の生徒に案内されてリハーサル室、そしてステージへと向かう裏通路に二列で並んでいた。

 僕らの初舞台はもう目前に迫っていた。


 午前の部にあった最後の演奏によって、昔の僕……ヒーローだと思い込んでいた僕を思い出してしまい。

 そして、何でこの吹奏楽部に憧れるようになったのかも思い出して。ネガティブな感情とポジティブな感情がせめぎ合って……でも、元からして本番に弱い僕は緊張を隠せなかった。


 楽器を握りしめていた手に汗がにじむのをはっきりと感じる。


「緊張しますっ……」

「大丈夫だよ玲奈れなちゃん。にしてもこんな感じなんだ、本番って」


 トランペットの先輩と同級生が声を潜めて話している。二年生の粕谷かすや未瑠みる先輩も、昨年この真中まっちゅー吹奏楽部がこういった大きなイベントに参加できなかったためにここが初めての大舞台ということになる。

 そのためだろう。先輩として高野たかの玲奈れなに励ましの言葉をかけていても、粕谷先輩は弱気を隠しきれていないようだった。普段は僕らを好き放題振り回す癖して、こういう真面目な舞台には弱いらしい。


「今までやってきたことを、やってきた通りにやればいいだけ。……そうですよね、かおる先輩」

「うん。他の部は他の部、ウチの部はウチの部。あたし達らしい演奏をしよう」


 三年生のパートリーダー、やまかおる先輩が粕谷先輩の頭をぽんぽんとした。僕らよりも一年長い付き合いだからなのだろうか……多分、山先輩は粕谷先輩の緊張を見抜いているようだった。

 そして、それを解消するための最適な行動をとってあげている。実際粕谷先輩は山先輩にそうされて、頬を緩ませていた。


 ……理想の先輩を演じてあげているかのようだった。やはり、僕には山先輩が空っぽにしか見えない。山先輩の感情が見えない。

 こんな、本番前の緊張に包まれている環境でも、山先輩は山先輩のままだ。やはり、この先輩は……偉大過ぎる。


「……『ゆーとくんっ』」


 耳元で不意に呼ばれてびくりとした。高野のささやき声。僕だけにしか聞こえないだろう小さな声。

 高野の小さくて白い手は、僕の学ランの裾のほんのわずかな部分だけを、ぎゅ、ぎゅ……と震えながら細かく引っ張っていた。


「……ボクらしさって、何ですか?」


 ずいぶんと唐突な質問だった。『あたし達らしい演奏をしよう』という山先輩の言葉を受けての質問だろう。

 しかし、回答に迷うことはない。この間帰りが遅くなり、家の近くまで送った時に言った言葉がまさにそれだからだ。


「『こう吹きたい』という、意志の強さ。目立たなくても裏から演奏を引っ張ることすらできる、意志の強さ。……大丈夫だ

よ、高野なら」


 僕は高野にしか聞こえないような声で、しかしはっきりとそう言い切った。

 ……でも、高野は。


「……ゆーとくんは」



 感謝の言葉ではなく、こう言い返してきた。




「ゆーとくんは、大丈夫ですか……?」



 とっさにうなづけなかった。ワンテンポ遅れて、ぎこちなくうなづくことしかできなかった。


 ウソをついた。高野にだけじゃない。僕自身にも向けて。




--※--




「大丈夫だ。いい音をしている。俺が保証する。……本番、頑張ろう!」


 ――はいっ!


 今までで一番熱のこもった返事がリハーサル室に響いた。


 本番直前の音出しの時間は短い。音出し、チューニング、そして曲の出だしの確認。それだけで僕らはリハーサル室を後にする。

 『いい音をしている』と顧問の長谷川はせがわ先生は言っていたけれども……僕の音は鉛のように重くなっているのを感じていた。ベルから放たれた音色がその場でずしんと落ちてしまう。遠くに響かない。


 いくら外で普段通りを装おうとしても、内面ですら本番が楽しみだと思いこませようとしても……音は、正直だった。

 明らかに不純物が入りすぎている。僕は、緊張している。


 ――僕は、本番に弱い――。


 寸前になって思い出された過去が僕を追い詰める。

 本番前に聴いた崩れかけの演奏が、未来の僕を暗示しているかのように思えてくる。

 過去が、今が……決して主人公ではない僕を、じりじりと苦しめる。

 『お前はこうなるぞ。お前は繰り返すぞ』と。



 ――極限だった。




 気が付けば舞台袖にいた。いったん別れていた打楽器パートの面々とも合流をしていた。

 僕の足は意志を失い、ただただ前にいる、偉大すぎる同じ楽器の先輩の背中を追うだけのものになっていた。


 前の学校の演奏がぼんやりと聴こえてくる。聴いたことのない曲だが、おそらく吹奏楽オリジナルの曲のようだった。

 今がまさに曲後半の聴かせどころといったところだろうか、ずしりと響く低音の上に、金管群の美しく壮大なメロディが何かを伝えようと叫んでいた。


 やたらと、上手く、聴こえた。



 音から意識を逸らすように周りを見渡す。

 一人で集中を高めている人。前の団体の演奏を楽しんでいる人。小さく言葉を交わし合う人。ここまで強く緊張しているのは、多分僕だけだった。

 前にいる偉大すぎる先輩は、さらに前にいる同級生の両手を優しく握っていた。先輩に励まされた気弱だが意志の強い彼女は、きっと本番でも大丈夫だろう。


 ……たとえ中身のない空虚でもいい。

 僕は、何にでもすがりたかった。そうしなければ、僕は間違いなく――。



「……見澤みさわくん」


 思いが通じたのだろうか。偉大すぎる先輩……山先輩が後ろを振り向いて、いつも通りの表情で僕に語り掛けてきた。

 その表情の裏には文字通り何もない。何もなくても……僕は、助けてほしかった。


「はい」

「緊張してるのバレバレだよ」

「……ですよね」

「音を聴けば分かる。見澤くんの場合は尚更分かる」

「そんなに分かりやすいですか、俺……」

「多分ウチの部で一番分かりやすい」

「あはは……」


 山先輩にかかれば、演じていた僕のウソも簡単に剥がされてしまう。分かりやすいという自覚はないけれども……。


「見澤くん」


 山先輩の混じり気のない透き通った瞳が僕を見据えた。

 その唇から紡がれようとしている言葉は、僕を大きく勇気づけるものになる。



「『一人じゃない』。未瑠みるが見澤くんのとこと、同じところをずっと演奏してる」


 山先輩は僕の後ろ側に向かってウインクを飛ばす。 


「そうそう!」


 後ろから右肩を思い切り掴まれた。粕谷先輩だ。


「粕谷がちゃんと隣にいるから。この、『あたし』が……ね」


 粕谷先輩が僕を真っすぐに見つめてくる。全く揺らがない本気の目だ。

 あの時見せた弱気はどこに行ったのだろう。そこにいる粕谷先輩は、頼りになる先輩そのものだった。


「それに、玲奈ちゃんも……もちろんあたしだっている。2ndだけどね」

「ボクを頼ってもいいんですよっ、ゆー……み、見澤くんっ」


 山先輩と手をつないだまま、高野が大げさにうなづいてみせてくれた。


「もっと言うならば、この部のみんなだって。長谷川先生だっている」


 周りを見渡せば、色々な人がいる。

 本番直前という時間にどんな気持ちでいるか、どのような行動をするか。そして……本番、どのような音を響かせるか。

 それは誰一人として同じものではないと思う。バラバラだ。



 それでも。



「水泳とは違う。見澤くん一人の戦いじゃない」



 ここにいる人たちは、みんな。




「これからやるのは、あたしたち31人が力を合わせて作り上げる、みんなの音楽だから!」




 僕の、味方ヒロインで。




「……一緒に、演奏しよう?」




 僕は、みんなの味方ヒーローだ。




「……はい!」




 うなづいて、山先輩が差し出した手を強く握った。

 それとほぼ同時に前の学校の演奏が終わる。分厚い拍手の音が聞こえてくる。


 僕は過去を繰り返さない。

 暗示された通りにもならない。


 ……もう、大丈夫だ!



 粕谷先輩の手のひらが、僕の背中をしっかりと押した。

 意志を取り戻した足で、舞台へと向かう。

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