♪36小節目 Awaking Another...

 ステージに上がった僕らを、温かみのある色をしたライトが過剰なくらいに照らし上げる。それを合図に、ざわざわとしていた客席から音が一気に引いた。


 音楽室よりも間が離れている僕ら演奏者の距離。それでも隣に同じ音楽を演奏する人たちがいるのには変わりがないし、それに、細かな違いこそあれど、これから僕らがやることは普段やってきたことと変わりない。


 何も心細くはない。一人じゃない。だって、みんながいるから。


 燕尾服に身を包んだ長谷川はせがわ先生が客席に向かって一礼すると、暗くなった観客席から期待を込めた拍手が上がった。

 指揮台に上がり、僕らの方を見る。長谷川先生の表情は柔和だ。いつも通り……いや、それ以上の柔和な微笑みだった。


 ――いよいよ、始まる。


 指揮棒が上がって楽器を構える。

 ほんのわずかな時間、まるで時間が止まったような感覚。風景も、音も、空気すらも。


 きっと、今、この瞬間のために、僕はここにるんだろう。そう思えた。


 振り上げられ、僕らは同時に息を吸った。

 振り下ろされ、作り出された打点と共に僕ら金管群が音を発した。

 ありとあらゆる小さなノイズをかき消して、このホールが僕ら真中まっちゅー吹奏楽部の音によって一瞬で埋め尽くされる。


 しかし……その音は、今まで僕が身を置いてきた音とは異質な音だった。


 ここはホールだ。音楽室とは違う。

 少しやりすぎなくらいの反響音。それでいて、どこか距離を感じる音同士の距離。まるで水と油のように、個々の音が分離している感覚さえした。

 見かけは豪華、中身はスカスカ。そんな音にこの場所はさせてしまうんだ。


 本番だからとか、そういう理由じゃない。ここで演奏するのは明らかに勝手が違う。

 出だしの数音を吹いて、僕は直感で感じた。この場所は、この舞台は……普段やってきたことと変わりないことをするだけでは、通用しない。


『音がちょっと粗くても、残響があればわりと『ぽく』聴こえちゃうものだし』


 いつか聞いた先輩の言葉が頭をよぎった。

 ……僕らの演奏も、『ぽく』聴こえてくれているだろうか。

 たとえ、『ぽく』聴こえてないにしても……今の僕にはそれを修正することはできない。それが出来るだけの力なんてないし、余裕すらない。どうにかこうにか音を出すだけで精一杯だ。


 そして……音楽は、どんな時も、待ってくれやしない。

 気が付けば、僕はトランペットのベルを膝にかけたタオルの上に置いていた。最初の金管主体の場面が終わり、木管主体の静かで流れるような場面。トランペットは休符が続く。


 いつも通りが通用しないのは僕だけじゃないようだった。ホールの響きでごまかせるどころか、響きで悪化している気さえした。

 どこか浮ついていて、何だか分解してしまいそうな感じだ。音程も安定していない。その中でやたら目立つアルトサックスの音。……きっと心音ここねだろう。

 サックス経験者である心音はソロ慣れしすぎていて、合奏に馴染めるか先生に心配されていた。当然心音もそれを知っていて、そのための対策も打っていただろうが……それは、周りもいつも通りが出来ている前提の対策だったんだろう。

 今、まさにその影響が前面に出てしまっていて、一つの音だけが悪目立ちしてしまっている。


 ……人に気を取られている場合じゃない。僕も僕で音がある。

 休み明けのフォルティシモ。思い切り吹いた。

 思い切り吹くことしかできなかった。



 前半部が終わり、すっと音が引く。木管が余韻を奏でる中……僕の隣から強烈な音が闇を切り裂く。


 ここは本来オーボエのソロだ。しかし、僕ら真中吹奏楽部にはオーボエがいないため、その代わりとしてトランペットがソロを務めることになっている。

 二年生の粕谷かすや先輩の音。少し目の粗い、大きくはつらつとした音。この場面には少しそぐわないかもしれないけれども、その音色は僕が隣でいつも聴いてきた粕谷先輩の音そのものであって……普段通りで、いつも通りの音だった。


 ――地平線から顔を出す見慣れた朝日の光が、未知の場所に戸惑って視力を失いかけていた僕の目を激しく射る。


 ああ、そうだ。いつも通りでいいんだ。

 たとえいつも通りが通用しないとしても……僕らが出来るのはいつも通りでしかない。


 ……いや、そもそもいつも通りが通用しないだなんて僕の思い込みに過ぎないのかもしれなかった。


 ああ、どうして気が付かなかったんだろう。この音はきっと、今までも僕の隣にあったというのに。

 出来るならばやり直したい。でも、音楽は待ってくれない。戻ってもくれない。

 だから、これから出すであろう音を今まで通りにやっていくしかない。


 越阪部おさかべたち、フルートの歌う旋律につとめて柔らかく寄り添うように吹く。

 僕が出せる優しい音には限界があるけれども……それでもせめて。

 これは気持ちの切り替え。僕の決意。あと残り半分もない僕らの音楽を、吹き通してみせる。


 再びテンポが戻る。最初と同じ雰囲気の場面へと戻る。

 もう、見失わない。周りには確実にみんながいて、僕の隣にはまばゆい朝日の光が行くべき場所を指し示してくれる。

 後戻りはできないけれど、前に進むことはできるんだ。みんなと同じ音楽で繋がりながら、一歩一歩前へ前へと。


 木管の快活な主旋律にそれを後押しする合いの手を入れる。ホールの奥まで軽く届いてまっすぐ響くような感覚。床から足を伝って頭へと、心地よい振動が絶えず通り抜けていく。

 その感覚は、きっと、錯覚じゃない。


 思い出した。ああ、そうだ。

 合奏は楽しい。

 単純に……楽しい!


 朝日の光はいったん雲にさえぎられる。雲が幻想的にぼんやりと光る。

 そして、再び僕らに……いや、このホールにいる全てのひとに、その眩しくフレッシュな光を届けるんだ。


 Awakenedアウェイクンドゥ Likeライク the Mornモーン

 この音楽は、僕らのめざめ。僕らの夜明け。

 これから僕が3年間青春を過ごすことになるであろうこの真中吹奏楽部での、ほんの序奏にすぎないこの演奏だけど……今、この時は、この時のためだけに。


 僕は――わたしは――確かに、この舞台に在ったのだった。



 余韻。僕らがこの場所で届けるべき音楽は、全て終わった。

 先生の合図に合わせて素早く起立して……やることを完全にやり切った僕らは、確かに拍手を受け取った。



 観客席にいるひとたちは、どんな思いで僕らの音を聴いてくれたのだろう。

 つたない演奏だったかもしれない。以前の真中吹奏楽部と比較されて、がっかりさせてしまったのかもしれない。


 ……多分、あまり良くは思われていない。直感でそう思った。


 けれども、今の僕はそんなことを気にしてはいけないと思った。

 確かにこの場所で、僕らは演奏を終えたのだ。


 それだけで、いいんだ。きっと。

 だって……そうだろう?



 ――それだけが、わたしの望みだったんだろう?



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