D 突然ラッシュは突然に
25小節目 ラブコメ展開は突然に
そして、
まともに受け止めた僕の心は悲鳴を上げた。
様々な表情を見せる日常がその痛みをごまかそうとも、部活になれば絶対に山先輩とは会うし、そのトランペットの澄んだ音色は僕の間近から聴こえてくる。
山先輩の存在が僕を苦しめた。隣に存在するだけで苦しくなった。
誰も悪くないだけに、余計に苦しくなった。
「
「はい」
僕の名前を呼ばないでください。
「最近、音に元気がないように思うけど……大丈夫?」
「僕は、大丈夫です」
心配するのをやめてください。
「そう? 何かあったら相談に乗るよ?」
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」
そんな笑顔を向けないでください。
「……そっか」
……そんな、寂しそうな声で……言わないで……。
いつも見せるポジティブな山先輩は空っぽで。
わずかに見えるネガティブな山先輩は濃密で。
綺麗なトランペットの響きは空しくて。
そんな山先輩が、僕の心をひたすらに痛めつけた。
--※--
色々あって疲れていた僕にとってはちょうどいいリフレッシュ期間だった。楽器を吹かなくなるというのは不安ではあるけれども。
……だけど、僕はなぜか音楽準備室にいる。
いや、正確には拉致された。
「昼休みだからセーフセーフ。それにこれは部活じゃなくて遊び遊び」
などと謎の理論を展開するのは、トランペットパートの二年生、
昼休みに入って30秒も経たずに粕谷先輩は煙を巻き上げる勢いで僕の教室に押し入り、驚く間もなく両手首をピンク色のスカーフで拘束して……こんなことになっている。
「はあ……部活休止期間だというのに、なんでこんな目に……」
「あはは、難儀だねえ」
「
そして、被害者がもう一人いた。三年生で、我が部の学生指揮者である花岡
よく先輩にこんなこと出来るな……。
「にしても粕谷さん、何でわたしを?」
「粕谷、今度やる曲でトランペットのソロあるじゃないですか。でもご存じの通りあんまり上手く吹けなくって……」
粕谷先輩のソロはそれこそ最初よりかは幾分かマシにはなったものの、まだまだ音の粗さが抜けていない。顧問の
「それでアドバイスが欲しくてわたしをここに連れてきたってことかあ」
「恵里菜先輩は学生指揮者ですし、いいアドバイスをしてくれると思うので!」
花岡先輩は自分の意見をちゃんと言ってくれる人だし、アドバイスも的確だと思っている。粕谷先輩がここに連れてくるのもうなずける。やり方にはうなずけないけど。
……あれ?
「あれ、じゃあ僕はなんで」
「見澤くんは……あれ、何で持ってきたんだろ」
「じゃあ帰してくださいよ!? というか持ってきたって僕はモノ扱いですか!?」
相変わらずこの先輩は苦手だ。無茶苦茶な上に物理的にも精神的にも逆らえない。
目いっぱいの反論をする僕を無視して粕谷先輩はトランペットを棚から出した。そして軽く音出しをした後、
「それじゃあ、吹きますから聴いてくださいね!」
と元気いっぱいに宣言する。無論僕らは拘束されたままである。
粕谷先輩が有無を言わさない絶対権力者に思えてきた。……いや、元からそうだったか。
粕谷先輩のソロはたったの12小節程度で、うち4小節は伸ばしだ。
ほんの十数秒にも満たない独壇場。とはいえ、一人でメロディーを演奏する機会であるのには変わりない。粕谷先輩は相当意気込んでこのソロを練習していた。
……そういえば、周りに何も音のない状況で粕谷先輩の音を聴くのは初めてだ。無理やり拉致されたとはいえ、せっかくの機会なので僕は目を閉じて粕谷先輩の音に集中をした。
息を吸う音が空間を満たす。普段と比べてやや控えめな音量に聞こえた。
そんなことを思った直後、芯のハッキリした硬い音が僕の鼓膜を揺すった。
中身の粒はまだまだ粗いが、それこそが粕谷先輩の音なんだと分かる。山先輩みたいな綺麗さはないにしろ……何というか、山先輩の音と比べてちゃんと人がやってるんだな、みたいな感じがある。山先輩には失礼ではあるんだけど。
しかし、どこか突き抜けるような粕谷先輩らしい勢いがなくて物足りなく思ってしまう。演奏する場面が静かな場面であるのもあるが……少し、窮屈というか、臆病というか。
もっと思い切り吹いて、粕谷先輩らしさを出していいんじゃないか。確かに曲の雰囲気は大事だけれども、これは先輩のソロなんだから。
フレーズが吹き終わる。音色の余韻と共に、粕谷先輩がトランペットを口元から離した。
「えへへ……どうですか、恵里菜先輩」
なぜか少し照れ気味に花岡先輩に聞いた。
……よく考えれば、粕谷先輩は僕ら二人のためだけに音楽を奏でている。先生に聴かせるならまだしも、年の近い人間だ。そりゃあ気恥ずかしいものがある。
花岡先輩はそんな粕谷先輩に微笑みを向けた。
「うん。少なくとも最初よりかはよくなってると思うよ。でも、ちょっと遠慮しがちな感じがしたかも」
「遠慮、ですか?」
「そう。もっとちゃんと息を入れて吹いてもいいんじゃないかな」
僕が思ったことと大体同じ感じだ。的外れなことを思っていなくてよかった。内心安心する。
「そう、ですか……?」
しかし、妙に腑に落ちない感じの粕谷先輩。
僕と目があう。嫌な予感がした。
「……見澤くん、はい」
粕谷先輩が僕にトランペットを差し出してきた。無論、吹いた後の、である。
僕は身体を強張らせた。この後言われることが容易に想像できる。そして、願わくばその想像が杞憂であってほしいと強く強く思った。
しかし。
「え、ええっと……」
「ソロ、吹いてみて?」
「はいぃっ!?」
現実は非情であった。
「見澤くんならどう吹くのかなーって、さ。たまに遊びで吹いてるから吹けないってわけないでしょ?」
いや、確かに僕と粕谷先輩は同じ1st担当で楽譜も同じ、当然ソロも楽譜に書かれているから遊びで吹いてみたりはしてるけど!?
別に先輩二人の前で吹きたくないとかそんなんじゃないけど!?
問題なのは、僕の目の前に差し出されたトランペットが粕谷先輩が口をつけた楽器であるということで……!
「ん? どうかした? 嫌?」
そんな聞かれ方したら、拒絶なんて出来るわけがないだろ!? 僕は首を横にブンブン振った。
「い、嫌じゃないです!」
「じゃあ、はい。……あ、そっか、拘束解かなきゃダメか」
手首の拘束をすんなりと解いてもらい、僕は言われるがままに粕谷先輩のトランペットを受け取る。
……温かい。粕谷先輩の体温で温められていることを感じてどぎまぎする。頭が妙な感情にかき混ぜられて混乱しそうだ。というか混乱した。
助けて花岡先輩。どうすればいいですか。僕は助けを求めるようにアイコンタクトを送った。
「……?」
花岡先輩は柔和な微笑みを向けて……何も、してこなかった。
何も、してこなかった。
え? カラオケの恨みまだ続いてるのこれ? それともこの状況を楽しんでるのこれ?
……何にせよ、花岡先輩は当てにならないようだった。
そして、味方が誰もいないと分かってしまえば……僕は覚悟を決めなくてはいかなくなった。できる限りゆっくりを意識して深呼吸を数回して、か細い糸を慎重にたぐるようにして何とか平常心へと戻っていく。
トランペットのマウスピースをじっと見つめる。粕谷先輩が口をつけていたマウスピース。息に含まれていた水分が温度差によって冷やされ、細かい水滴となって表面に張り付いている。そして、それが微妙な具合で光を反射する。
思春期真っ最中の健全な男子である僕は、それに妙なエロさを感じてしまった。身体の奥から心臓が発する爆音が僕の頭をくらり、くらりと揺する。
……いや、本当にいいのかこれ? 僕はこれからする行動に不安を覚えて、もう一度粕谷先輩の方を見た。
その行動が未知なる地雷原に足を踏み入れることと同義だったのを知ったのはその直後だった。
「……い、いいよ。見澤くんなら、さ」
「ぶふっ!?」
侮っていた。
僕は粕谷先輩を侮っていた。
粕谷先輩の女子としての魅力を侮っていた。
ほかの人の感情に人一倍敏感だ、と幼馴染から言われた僕には分かる。先輩としての余裕を出そうとした粕谷先輩の言動ではあるが、その実裏では何か男女間でのそういうのを絶対意識してるって分かる。
その証拠に妙に頬が赤いし何なら耳もうっすら染まってるし身体も挙動不審げにちょっと揺れてるし、何しろわずかに震えててわずかに上ずっている先輩の声がそれはもうすごくすごくすごくすごくやばい。
そしてそんなことを手に取るようにくっきりはっきりきっぱりと分かってしまう僕もなんかもうなんかアレである!!
何だよこれ。何なんだよこれ。
こんなの、こんなのラブコメの世界でしかありえないと思ってたんだけどこれ!?
そして、そんな粕谷先輩が決死とも言える覚悟で吹かせた先輩風に当てられた僕の頭からは、逃げるという選択肢が吹き飛ばされた。
……こんな思いを感じ取ってしまったなら、もう、やるしかないじゃないか。
「……じゃ、じゃあ」
僕は唇を引き結んで、粕谷先輩がさっき吹いたばかりのトランペットを構える。
そして、一呼吸置いてから――マウスピースに唇を当てた。
「っ……」
唇に伝わる金属の硬さ。僕の普段使っているものと大差ない、無機物の硬さ。
しかし、どことなく湿っている感触が僕の脊髄を激しく刺激した。そして、僕の唇の表面温度とは違う温度の温もりを含んだ熱が身体の芯を強く揺する。
粕谷先輩のトランペット。
粕谷先輩がさっきまで吹いていたトランペット。
それに、今、僕は触れている。唇で触れていた部分に、直に、触れている。
……いや何やってんだ俺!? ソロを吹いてみろって言われたじゃないか!? トランペットにキスしていいよとは一言も言ってないじゃないか!?
ごまかせ! 何としてでもごまかせ! あんな劣情、うやむやにしてしまって無に帰してしまえ!!
半ば強引ともいえる信号を身体から受け取って僕は思い切り楽器に息を吹き込んだ。マウスピースに当てている引き結んだ唇が高速で振動して、管によって増幅されて――そのヤケクソじみた勢い任せの音は、外に発射された。
ヤケクソじみた音なんかじゃなかった。
音が発されたその瞬間、先輩たちが目を丸くしたのがはっきりと分かった。
明らかに質の違う音が、スパンと空気を切り裂いて飛んでいったのだった。
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