消えた記憶と何かを求めるモノ

小道けいな

第1話 初めの日

 寒い景色が続いている。

 起伏が激しい大地はまるで山脈のようである。小型のバスが進む道ですら、傾斜しているようだった。

 前後だけでなく左右にも傾いている感覚が続く。

 大地は枯れ草の色と、うっすらと積もった雪が見える。

 いや、雪ではなく霜や氷だと案内人が言った。

 この地域は寒いが雪が少ないという。風は冷たく乾燥しているため、火災が怖いという。

 そのせいで樹木がないのかと思わず訪ねてしまった。

 案内人はきょとんとする。しかし、理解して苦笑していた。

「たぶん違います。標高が高いことや、樹木が育ちにくい土というだけです。でも、その考え方は面白いです」

 今度何かあったら使わせてくださいと言ってきた。別に私は構わないとうなずいておく。

 それにしても、なぜ私は軍が用意した小型バスでここに来たのか。

 記憶が薄かった。

 記憶喪失というわけではない。案内人が言っていることを理解しているし、乗っている物がバスだということもわかるし、それがガソリンで動くこともわかっている。空を飛んでいる物が鳥であることも、大地に生えているのが草でそれが枯れているのだって理解している。

 ただ、ここにいるという現実が乏しいことだった。

 このことを聞くのもおかしい。

 着ているのは上等な服。暖房が聞いているバスなので、コートは脱いでいるが、そのコートも襟巻も上等な品質であるのだ。ブーツも、カバンも何もかも、身に着けているものや荷物は上等なものだ。

 記憶が薄いのは私が何者でここにいるということである。

 ただ、私は、このような衣類を身につけられるような立場にはなかったという記憶がある。

 ふと、心に不安が揺らいだ。

 外を見ると恐怖が浮かぶ。

 小型バスは大きな湖の横に出た。湖の水は凍っておらず、寄せて返すのが見える。

 ゆっくりと白い波や氷をまとわりつかせ、波は動く。

「……私は……」

「別にあなたは危険なところに行くのではないですよ。先方が、あなたを妻にほしいと言ってきて、結婚するというだけです」

 案内人は不意に言う。

「そうだったかしら?」

 私は首をかしげながる。案内人を見るが、案内人は外を見てこちらを見なかった。

 一瞬、窓に映った案内人の顔が見えた。

 気のせいでなければ、恐怖と安堵が入り混じった奇妙な表情に見えた。

 一瞬のことであるし、窓に映るという不安定な状況だったから実際はわからない。

 答える声が震えていたかもしれないし、案内人のいつもの声音だったかもしれない。

 もう一度確認することもできたはずだけれども、私はできなかった。

 なぜなら、真実を知ってしまうと、正気を失うのではないかと考えたからだった。

 いえ、今の状況はすでに正気を失っており、真実を知ることで、正気に戻り恐怖を覚えるのではないかと思った。

 考えすぎなのかもしれない。

 小さな村に小型のバスは入っていく。小型のバスどころか大型バスでもトラックでも走れそうな広い通りがある。そこを走っている。

 このような地域の村ならば、古くからの狭い道が多そうだが、ここは違うようだった。

 車窓から見える村は静かだ。でも、ゴーストタウンではないことを示すように、家は手入れされているし、生きている植木がある。

 日がかげってきているため、家によっては明かりがついている。

 静かなのは、ただ外に出ていないためだった。

 小型バスはスピードを上げた。

 一瞬、通りに誰かいたら危険ではないかと考えるけれど、人も車も出会わなかった。

 周囲が山に囲まれ、高低差がある村なため小さいと感じていたが、非常に広いということを感じた。

 そして、正面に巨大なお屋敷が見えてきた。

 お城というより宮殿というのかもしれない。

 大きな屋敷には灯がいくつもともっているのが見えた。それに、道に沿って灯がついている。

 屋敷に到着すると、門のところには番人がいた。

 小型バスは止まると、中に入れようと番人は動いた。案内人は慌てて扉を開けて外に出る。このとき、かすかに生魚がそばにあるような臭いがした。

「いや、もう、時間がないため、お嬢様と荷物はここで受け取ってもらえないだろうか?」

 番人は運転手の言葉に笑顔のまま「それがお望みならばかまいませんが」と言う。

「あ、いや、すまない……お嬢様はきちんとお連れしないといけない。大変失礼なことを申し上げた」

 案内人が横から慌てて答えた。

 番人の笑顔は変わっていないけれども、何か変わった感じが私にはした。

「か弱き女性に歩いてもらうには、建物までの道のりは長いのです。荷物はわたくしどもが持ちますが、歩くには難しいでしょう」

 番人は告げた。

 そして、鐘を鳴らし、門を開けたのだった。

 小型のバスは塀の中に入っていった。

 道の両脇は芝に覆われた庭だった。薄暗くなってきているためはっきりと見ることはできない。しかし、見える範囲だけでもどこの公園だろうかと思うほどの広さがある。ところどころに灌木や高木が植えられている。

 そういえば、この村に来るまでに木が生えていなかったため、不思議な気もした。木の種類によっては、標高が高いところに生えるものもあるだろうし、ここは手入れがされているため根付く植物もあるかもしれないのだった。

 小型のバスは進むが、なかなか建物に到着しない。その間に、日が完全に落ちてしまう。

 運転手と案内人から妙な緊張感が伝わる。

 先ほどのやり取りからも、彼らは日があるうちに村を出たかった様子は伝わっている。その理由は私にはわからない。

 この村で、この建物で暮らすことになるらしいから。

 もし、彼らが怯えの理由が分かったとしても、私には選択肢がないのだった。なぜ選択肢がないのかはわからないけれども。

 妻にほしいということは結婚をすることになるのだ。

 その相手はどんなヒトなのか私は知らない。

 どれだけ走ったのかわからないけれども、玄関に到着した。

 灯に照らされ、そこはまぶしいくらいだった。

 案内人が降りる。その手を借りて、私は下りた。

「よく、いらっしゃいました」

 執事らしい男性が私の前に立つと最上級の礼を示した。それに続いて他の使用人たちも頭を深々下げた。

「荷物はこちらで運びます。身一つでも問題はありませんが」

 荷物はトランク一つだけ。身一つとほぼ変わりがない。

 案内人から受け取ったトランクを使用人は恭しく運んでいく。そんなにしてもらうほど立派なものは入っていないのにも関わらず。

「では、私たちはこれで退去します」

「もう遅いですし、お泊りくださってください。夜道は危険でございますよ」

 執事は丁寧に言う。その言葉には親切心を私は感じた。執事の表情に浮かぶ微笑みは、本当に心配をしているようであった。

 確かに村の外に出るとなるとあの不安定な道を進んでいくことになる。

「いや、ですが……突然の来訪となればご迷惑をおかけしてしまいます」

「いえいえ、この方をお連れいただくということで、突然ではありませんよ。ここは近くの町から大遠いですし、舗装されているとはいえ、道がいいとは言い切れません。そのようなところで、この時間にお返しするとなると、危険な道に放り出してしまうことになります。むろん、通常であれば問題はありません。しかし、凍結する可能性のある悪路に慣れていらっしゃらない、いえ、わたくしどもですらそのような道は走りたくありません。そのような状況でお返しする方が失礼であります。天候は明日は本日のような天気でございます。慌てて帰られるより、一晩ゆっくりとなさって、疲れを取ってからお帰りいただいた方が、安心安全ではないでしょうか」

 執事が言っていることはもっともだと思った。

 二人運転手はいるため、交代し、休息は取っている。それでも、狭いバスの中である。

 私ですら狭いと思う室内に、背丈もあり、体格も良い運転手達は身を縮めていないとならなかったに違いない。乗客が運転手二人と案内人、私という数しかいなくとも。

「……では、お言葉に甘えさせていただきます」

 案内人は運転手達に目配せをしていた。仕方がないということを確認し合っているように思えた。

 執事はにこやかに「では、バスはわたくしどもで駐車場において参ります」と言う。

「いや、そこまでお手を煩わせるには行けない。案内はしていただきたいと思うが、これを置くという仕事くらいはさせてください」

 運転手は慎重に言葉を選んでいた。

 何かを警戒しているということは事情が分からない私にも分かった。

 このように道中を一緒にした人たちが不安がると、ここに残ることになる私は非常に怖いと思った。

「申し訳ございません。ご婦人をこのようなところに待たせてしまって」

「いえ……その、本日送って下さった人たちにお礼も述べないといけないと思っていました。そのため、お話が終わるまでは……と思いました。でも、寒いとかありませんわ。これまで、バスの中に今したし、外の空気を吸うということはとても気持ち良くて、気分が安らぎました」

 私も知らず知らずのうちに言葉を選ぶ。

 この軍人たちが不当な扱いを受けないように。

 変なことを言って、私が嫌われないように。

「それでは、夕飯はご一緒いただけるように手配しましょう」

「よろしいのでしょうか?」

「むろんでございます。お疲れでしょうから、あなたさまのお部屋にお運びしようかと思っていました。この方々と語らいたいとならば、ご希望に添いましょう」

 執事は運転手達を見た。

 彼らは私を見つめる。

 その視線は安堵にも感じる。私など何も力がないのに、安堵してもらえるということは大変嬉しいことだった。

 この屋敷のことも、ここの人たちについても私は何も知らない。

 むしろ、私は自分のことも知らない。

「では、冷えて参りましたでしょう、どうぞ、中へ」

 私は執事につれられて中に入る。

 中は明るく、暖かい。

 玄関ホールは天井が高く広い。

 私は足を止めて、見回す。

 白を基調とした壁、柱に、薄赤い光が反射する。明るい光は緩やかに室内を染める。

 玄関ホールには二階に上がる階段もあるが、奧に入る廊下も見える。二階にも同じ方向に廊下があるようだった。

 ホールの所々には飾りを置く台がある。その台も彫刻されており、色彩こそないが、華やかである。台の上には大きな花瓶と花が置かれている。花はこの季節には見られない物だった。

 温室で育てられたのか、春を告げる花はホールにともる明かりに紛れ、ひっそりとしている。

 太陽の光が入る日中に見ると、白い壁や柱と相まって、その花は春を引き連れてくるように咲き誇るに違いない。

「どうかなさいましたか」

 私は慌てて口元を抑える。

「いえ、申し訳ありません。あまりにも素晴らしい玄関ホールでしたので、見とれてしまいました」

 素直に告げると、執事は誇らしげに一礼する。

「ありがとうございます。この屋敷の主が代々築き上げたものでございます。わたくしは仕えるものですが、屋敷を手入れするのには尽力しております。築き上げたのは主でございますが、わたくしも誇らしく思います」

 代々となるとどのくらいの時を経た建物なのか気になる。

 私はそういった建物とか調度品に詳しいわけではないけれども、自分が住む場所でもあるし、単純に古くて美しいものには興味は惹かれる。

「あなたさまのお部屋はこちらでございます」

 女性が一礼して案内を引き継いだ。

 年齢は四十代後半の落ち着いた女性だ。ふっくらとした体を覆うのは黒い落ち着いたワンピース。きれいな白金の髪は後頭部で丸くまとめられていた。

 穏やかそうな笑みを浮かべ、私の前を歩く。

「これからはわたくしがお世話をさせていただきます。何かあればすべてわたくしにお伝えください」

「ありがとうございます。でも、私、自分でできることもありますし……でも、私……」

 何ができたのか記憶がなかった。

 とたんに恐怖が湧く。

 ここが何で、何で私はいるのかと。

「無理になさらなくてよろしいのです。あなたさまには何事も許されているのです。わたくしの生殺与奪まで」

「……え?」

 さらりと女性が言ったため、私は聞き漏らしたり、間違って聞いたのかと思った。

 生殺与奪となると、私はどんなこともこの人たちに言っていいということになってしまう。人の命をとるようなことを?

 このようなことを私は聞き直すことはできなかった。

「大変申し訳ありません。ご迷惑をおかけしたならば……」

「いえ、少し、私がつかれていたのかもしれません。まだ、何も知らないのに」

「ありがたきお言葉。誠心誠意仕えさせていただきます」

 私は不思議だった。

 どのようなところに来たのかも分からない。

 徐々にわかってきたのは、私が権力を得たこと、お金にも困らない生活を得たことということだ。

 これらは非常に恐ろしいものでもある。なぜ、そのようなことが可能なのか、嫁ぐためにきたということは相手はどのような方なのかということが続いて浮かぶ。

 結婚を前提に来たとしても、私は私のことが分かっていないのと同じように、相手のことを知らない。

 扉が開き、部屋の中が目に入る。

 そこは一室ではなく、隣にも部屋があるのが分かった。つまり、居間や日中の部屋であり、奥には寝室があるのだろう。

「こちらがお部屋です。気に入らない場合はおっしゃってください。別の部屋や家具に取り替えます」

「……不満はないと思います……そもそも、このように広く立派なお部屋、すぐに見られないです。それに、不満が出るにはもったいないくらいの部屋です」

「そんな……あなた様は何でも望んで構わないのです」

 女中頭は私を見つめる。その目の色は哀れみもあるようだった。

 なぜそのような顔をされるのかがわからないため、収まりかかっていた恐怖と不安が沸き上がった。

 この屋敷の主という人は暴力的な人なのだろうかということだった。あらゆる権力を私にも許す代わりに、ひどい目に合わせる人なのかもしれないと考える。

「お疲れのようですが……いかがいたしますか? 外は寒かったですし、湯をお使いになりますか?」

「……ありがとうございます。そうですね、気分も変わりますね。寒気がしたのですが、外にいたんでした」

「なんと! お風邪を召したら大変です。大切なお方なのに」

「いえ! 湯につかれば、大丈夫ですわ」

「すでに準備は整っております、さ、こちらに」

 ベルを鳴らす。それが合図だったらしく、隣の部屋に続くと思われる扉が一つ開いた。そこから若い女性が複数現れる。着ている服は簡素である。

「どうぞ、こちらに」

「わたくしはこちらでドレスの用意や荷物の整理を行っております。もし、彼女らに不手際があれば、何事でもわたくしにおっしゃってください」

 私はそんなことはないと思いながら、浴室があるだろうほうに向かう。

 そこは私が住んでいたアパートの一室くらいの広さはあるだろう、脱衣所だった。

 女性たちは顔を伏せたまま、私の衣類を脱がす。

「じ、自分でできます」

「いえ、このお屋敷で、主の妻となられる方に、余計な仕事をさせることはありません。あなた様は自分がしたいことをすればよろしいのです。湯には自身で使ってもらうことになりますが、洗うことや濡れた体を拭くこと、衣類を用意することなどはわたくしたちの仕事です」

「でも!」

「あなた様のすべきことは、あなた様の心の平穏を保ち、主様の妻となられることです」

「……」

「あの方のためにあるのがあなた様です」

 彼女たちは淡々と私の服を脱がしていく。他の人の前で裸になるということはこれまでなかった。そのために、同性であっても恥ずかしいという気持ちになる。

 それに、私に心の平穏というならば、自分一人でしたいものもある。それでも、彼女らの様子を見ると私に求められているのはどういうことで、私の心の平穏は現代の物とずれている気がした。

 そう、服を独りで着られない貴族の女性、というのが私の有るべき姿ということを彼女たちは信じている。私が一人で服を着たり、風呂の入るということはその基準からずれていく。

 私は一人でそれはできる。ここで生きていくには私には不要のことらしかった。それ以外のことでも心の平穏を保つことが求められているのだろう。つまり、このようなことは些事であり、もっと違うことに心を砕かないとならないのかもしれない。

 そうなってくると、今、ここで彼女たちに任せないことや、私が恥ずかしがることはおかしいことであるのだ。恥ずかしがることが余計に恥ずかしいそんな気がする。

 初めて他者に任せて風呂に入ることはくすぐったかった。

 体や髪を乾かされ、きれいに整えられると鏡に映る自分が、自分ではない気がしてきた。

 自分でできるとはいえ、美容師などのように大変きれいにできるわけではない。こうして整えられることは特別なときでしかない。

 そのような時があったのかしら?

 私の中に不安が膨れ上がる。記憶があいまいな部分が多すぎて、この思考の間に何か大切なことを忘れているのではないかと言う思いが湧いてしまう。

 屋敷の方で用意されたドレスは私のサイズにあっていた。それをまとい、ここに案内してきた人たちと最後の夕食をとるのだ。

 彼らが怯えていたのが不思議だった。

 何があるのかわからないし、考えたらいけないという気になった。

 私はここで生活をしていかないとならないのだから。もし、何か気づいてはいけないことに気づいてしまった場合、私はどうなってしまうのかという恐怖が湧く。

 だから、考えない、気づかないことが重要だと直感していた。

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