第3話 チャトラン

 ふわふわと大きなあくびをしてギューッと前足を伸ばす。お尻を上げて背中を伸ばし、その背中をぐいんと丸めると体がほぐれて気持ちがいい。


 涼音さんも、お風呂の後にこんなことをしている。僕の真似でも始めたのかと思ったらヨガとかいうものらしい。


 涼音さんの香りの残るベッドを降りて、フィカス・プミラにおはようのあいさつをする。プミラは寡黙だけれど、いつも笑顔を絶やさない。


 少し開いたサッシから心地のいい風が吹き込み、レースのカーテンがふわりと揺れた。食事はあとにして、もう少し寝よう。陽だまりに寝そべって目を閉じる。


 カン、カン、カンと、遠く遮断機の警報音が聞こえてくる。やがて走りすぎる電車の音。あの雨の夜も、僕はそれを聞いていた。震えるからだと心で。


 車の通りすぎる音。ずっと向うからバイクの排気音。それが遠のくと風にそよぐ庭木の葉擦れの音。この辺りはとても静かな住宅地だ。


 コツコツと靴音が通り過ぎてゆく。涼音さんが帰って来る時もこんな音がする。でも、これは全然違う人だ。


 それにしても、このところ気になって仕方のないことがある。いや、心配といったほうがいいだろうか。そう、涼音さんのことだ。


 僕が初めてそいつを見たのは、いつだったろう。パタリパタリと尾っぽでフローリングの床を叩きながら思い返す。


 ああそうだ、原っぱに黄色いタンポポが咲き始めたころだ。あの頃はまだ冷たい風が吹いていたけど、今はもう暑いぐらいだ。


 あの日の夜、涼音さんはほろ酔いで帰ってきた。


「チャトラぁん、たらいま。ほら、今夜はお客様よ」

 涼音さんの頬はほんのり赤く染まっていた。


「お、かわいい猫だね」そいつはしゃがみ込んで僕の顔を覗き込んだ。

 こら、勝手にさわるんじゃない。僕は耳を後ろに寝かせた。

「ゴロゴロ、ゴロゴロ」

 こら、顔を寄せるな。僕はごろごろなんて喉を鳴らしてない。それに足が臭いぞお前。


「もちろん、君ほどじゃないけどね」

 男の肩越しにふふっと嬉しそうに涼音さんは笑い、そいつも笑った。


 その瞬間、僕はこいつを危険人物だと判断した。だって、笑いに合わせて口角は上がっていたけど、僕を見る目が全然笑ってなくて、真冬のタイルみたいにひんやりとしていたから。


 僕の食事を足して飲み水を入れ替えて、涼音さんは出て行った。いい子にしてるのよ、と頭を撫でて。その夜、涼音さんは帰ってこなかった。あんなことは初めてだった。


 涼音さんは毎日ご機嫌だった。時として僕の食べ物のグレードが上がったりしたけど、それはあの胡散臭い奴のせいだとわかっていたから、あまりうれしくはなかった。


 だけど、公園の紫陽花が咲き始めるころから、涼音さんは元気がなくなっていった。僕を抱いて撫でながら、泣いている夜もあった。


 それもきっと、あいつのせいだ。


 にゃご(どうしたの?)

 涼音さんは答えてくれない。猫は人間の言葉が理解できるけど、人間に猫の言葉は通じない。


 うつらうつらとしながら、僕に何かできないだろうかと考える。そのときふと浮かんだ姿があった。

 そのたたずまいは静かだけど毅然としている。それなのに、どこまでも穏やかな目。そのすがたは形容しがたいほどに神々しい。 


 ふいと顔を上げる。そうだ千年おばば様に相談してみようか。この世に千年も生きていて、知らぬことなど何もないという尊い猫さまに。


 ばば様は、僕のことを覚えているだろうか。涼音さんに拾われる前の、ちっちゃな野良だったころの僕のことを。


 思い立ったが吉日。すっくと立ちあがり、プミラに頬を寄せて出かけてくるよと告げる。

 風に吹かれたプミラがふるふると手を振り、それを尻尾で撫でて、僕のために少し開けてあるサッシから体を滑り出させた。

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