ヒノモトという集落
第144話
買い物があるならここで済ませた方がいい、だなんてアドバイスを受けた私達は、未だに見慣れない町並みに圧倒されながら固い地面の上を歩いていた。雪は見えない。集落の外に目を向けると、白い大地が広がっているのに。
団子屋ってなんだろう。私がお店のある方を指差してマイカちゃんを誘おうと横を向くと、駆け寄ってきた少年がマイカちゃんのバッグに手を伸ばしているところだった。不意を突かれて声を上げるくらいのことしか出来なかった私と違って、マイカちゃんはしっかりと少年の手首を掴んでいた。細い手首を捻り上げながら、怖い顔をしている。
「いででで!!」
少年が声を上げても、彼女は手を離さない。「ごめんなさいは?」と謝罪を催促して、さらに手首を持ち上げた。だけど、本当に信じられないことに、少年はマイカちゃんを睨み付けて、とんでもない言葉を口にした。
「うるせぇ!! ばばあ!!」
「はい、じゃあこの腕はいらないのね」
「あああああ!!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!!」
「最初からそう言えばいいのよ」
マイカちゃんはすんなりと謝罪を受け入れると、ぱっと手を離す。私は、もしかしてこの少年殺されるんじゃないかな、という気持ちから肝を冷やしていた。少年は半べそをかきながら手首を擦っている。折れてないかな……。
でも、スリを働こうとした少年に「大丈夫?」と言うのもちょっと違う気がして、私は彼に名前を聞いた。何々君、もうこんなことしちゃ駄目だよ、なんて言って適当に切り上げようとしたのだ。
だけど、張り上げられた声に私は虚を突かれることになる。
「君、名前は?」
「そんなもんねぇよ! 貴族じゃねぇんだぞ!」
「は……?」
名前が、無い……?
そんなの、聞いたことがない。ヒノモトのことはほとんど伝わっていないから私が知らないのも無理はないんだけど。それにしたって、名前を付けない文化があるなんて、私の理解の範疇を超えていた。
身なりから見て、私達がよそ者なのは少年にも察しが付いていたのだろう。むしろ、それが分かっていたからスリに及んだとも言える。何にも知らねぇんだな、なんて言いながら、少年は名前について教えてくれた。
「ここで名前があるのなんて貴族だけだ。勝手に名乗ったら殺されるしな。俺はみんなにチビって呼ばれてる」
「じゃああのおじさんは?」
「あれはハゲだな」
「容赦ないわね」
「じゃああのおじさんは?」
「あれもハゲ」
「欠陥だらけじゃない」
この集落の人、少なく見積もっても半分くらいは悪口っぽい呼ばれ方してそう。
とりあえず、名前については分かった。私は更にもう一つ、少年に質問をしてみることにした。
「ここは一巻目なのは知ってるけど、何巻目まであるの?」
「誰が教えるかってんだ!」
「私と遊ぶ?」
「零まであるんだ!」
「こういう手合いはマイカちゃんに任せるに限るね」
感心しながらそう言うと、少年は補足するように呟いた。少し小声で、まるでその話はしてはいけないと言いつけられてるみたいに。
「五巻目までは地上だからまだマシだ」
「どういうことよ」
「六以降は地下にあるんだよ。九の次が零な。あそこはヤバいんだ」
「おじさんも危ないって言ってたけど……地下の方が良さそうじゃない? 暖かそうだし」
「とんでもねぇ! この世の地獄だ! 死体がゴロゴロ転がってるって話だぞ!」
えぇ……。まぁ、私達は零巻目とやらを目指すつもりはないから、別にいいんだけどね。問題はどこに赤の柱への入口があるか、だ。嫌な予感はちょっとしてるんだけど。
「ま、零巻目は塔への入口くらいしかないって話だけどな」
「げっ……」
「他には、地下もこの辺と同じように一本道になってるらしいって事くらいしか分かんねぇ」
「最悪じゃん……」
つまり私達は死体が転がってるようなところを突破して塔を目指さなきゃいけない、と……ルーズランドに辿り着いた辺りで半分以上の道程はクリア出来たと思ってたから、ここに来て知らされる事実に驚きっぱなしだ。
これからの道のりを思って難しい顔をする私達を見上げて、今度は少年が質問を投げかけてきた。
「お前ら、合言葉は使ったのか?」
「あぁ。うん。それがどうかしたの?」
「もしサカキファミリーのものを使ってたとしたら、九巻目までは行けると思うんだけどな。ま、サカキファミリーが合言葉をよそ者に漏らす訳ないしな」
「サカキって、どこかで聞いた名前ね」
「あれだよ。ヤヨイさんが言ってたんだよ」
「ヤヨイ!?」
「え、うん」
ヤヨイさんはこの集落では相当の有名人のようだ。おじさんと青年の反応から、なんとなく察していたけど。
「お前ら、ヤヨイ様の知り合いなのか……?」
「そうだよ。知ってる?」
「ひぇ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
彼の問いに肯定してみせると、マイカちゃんに手首を捻り上げられても泣かなかった少年が泣き出してしまった。落ち着いてと声をかけても収まらず、呼吸もままならなくなって、しまいにはむせて吐いてしまった。私は少年の背中を擦ってあやすように声を掛けたけど、彼には届いていないようだ。
「え、ちょっと、大丈夫? ねぇ」
「ラン、この子の怖がりようは尋常じゃないわよ」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「ねぇ、ちょっと落ち着いて」
見かねた大人が近寄ってきて、いまだに虚ろな少年の首を掴んで無理矢理立たせてしまった。だけど、少年は文句一つ言わず、視線を落としていた。
「二巻目の入口はこの道をまっすぐ行ったところになります。こいつはあとで俺が処分しておきますので、どうか……」
「ちょっと、処分ってなによ」
「いえお気遣いなく、本当に」
「質問に答えなさいよ!」
要領を得ない返答に激高したマイカちゃんが男の首を掴んで、そのまま横になぎ倒してしまった。周囲を見ると、道行く誰もがちらりと一瞥して、だけどすぐに視線を逸らしてそそくさと早足で離れていく。
「ちょ、ちょっと、マイカちゃん。気持ちはわかるけど」
「チビに何かしたらタダじゃ済まさないわよ!」
「マイカちゃん、離してあげて。行こ。ほら」
私は男の胸ぐらを掴むマイカちゃんを宥めて、二人を引き剥がした。あまりここで長く言い争っているのは得策ではなさそうだ。私は男に「チビがスリを働こうとしたことは黙ってるから不問にしてあげてほしい」と伝えると、マイカちゃんを連れてその場を離れた。
このまま話していると、マイカちゃんの怒りに感応したクーまで大きくなって、またひと悶着起こしそうだったから。
「……なんなのよ」
マイカちゃんは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。二巻目の関所を目指す足取りはかなり重い。
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