夏貴・アイデンティティー
千冬さんが落ち着き、僕へのあらぬ誤解が解けるまで、実に1時間もかかった。
何だかぐったりとしてしまって、僕は今、ベンチにもたれかかっている。
あぁ、夕方になるにつれ、そよ風が涼しくなるなぁ……なんて黄昏ていると、
「ご、ごめんなさい、夏貴くん」
隣に座る千冬さんが、申し訳なさそうに頭を下げてきた。
対して僕は慌てて跳ね起き、かぶりを振る。
「だ、大丈夫ですよ千冬さん。千冬さんが落ち着いてくれたなら、僕はそれで……」
「そんな、ダメですっ。私のせいで夏貴くん、ここにいた皆さんから、すごい目で見られてたのに」
「……まぁ。すごかったですね、あれは」
冷たい視線を浴びせる大衆の中には、スマホで通報しようとする人もいた。
すぐに誤解ですと伝えなければ、今ごろどうなっていたことか。
千冬さんを宥めるより、周囲を治めるほうが、よっぽど苦労したかもしれない。
余計に疲れたのは、きっとそのせいだ。多分。
「私、何か奢ります。必要なら今日のレンタル料は貰いませんからっ」
「いやいや。気を遣わなくてもいいよ。レンタル料はきっちり払う。ただでさえ何回かまけてもらってるんだから」
これ以上借りを作るのは、あまり良い気分じゃない。
「……ごめんなさい」
「いや、僕のほうも伝え方が悪かったです。すいませんでした」
努めて穏やかな口調で謝り、頭を下げる。
いざこざが起きたときは、喧嘩両成敗で和解するのが丸い。
まだ不安げに怖がる蒼色の瞳に、僕は優しく微笑みかけた。
すると千冬さんも、一瞬呆けたが、すぐにいつもの可愛い表情をしてくれた。
自販機で買ってきたスポーツドリンクは、中身がもう空になっている。
落ち着かせるまでの間で、すっかり飲みきってしまったらしい。
もう時間も遅く、影が色濃く傾いてきた。
そろそろ公園を出て、いつもの別れの交差点まで向かったほうがいいだろう。
よっこらしょ、と僕は立ち上がった。
そして振り返り、千冬さんに手を伸ばすと、
「……ふふっ」
なぜか小さく笑った。
首を傾げると、千冬さんははっと驚いて言う。
「あ、違うんですっ。その……よっこらしょって、まるでお爺ちゃんみたいでしたから。つい」
「ん……そうですか?」
「はい。私のお爺ちゃんもよく、そうやって椅子から立ち上がってて……それを思い出したら、笑ってしまって」
「へぇー」
千冬さんのお爺さん、か。
考えてみれば千冬さんのこと、あまり知らないような気もする。
レンタルの関係だからと、踏み込んでいなかったから当然と言えるが──ここにきて何だか興味を覚えた。
ちょっと聞いてみようかな、と思う。
しかし千冬さんが、差し出された手を見るや、
「す、すいませんっ。無駄話してしまって」
すぐに話を切り上げ、立ち上がって手を繋いだ。
聞くタイミングを失う。
しかし、そこまで知りたいわけでもないので、今はやめておくことにした。
今日はこれでお別れだが。
明日はもちろん、会おうと思えばいつでも会えるのだから。
機会が巡れば、きっと聞けるはずだ。
僕は心の中で納得し、千冬さんに微笑む。
「じゃあ、途中まで行きましょうか」
「はいっ」
今日の千冬さんは何だか、全体的に明るいなぁ、なんて思った。
そんな夕焼けの帰り道だった。
***
僕は両親とほとんど喋らない。
思春期に入ってから現在まで、ずっとそうだ。
特に喧嘩をしたわけでもない。両親のことを嫌ってもいない。反抗期なども全くなく、むしろ学校であったことや外で何してたかなどを、簡潔にだが伝えているのだ。
それなのに、会話の数そのものが減っている。
どうしてなのか、自分でもよく分からなかった。
小さい頃はよく喋っていた。
父も現在より口数が多く、運動会の時なんかは、声を張り上げて応援してくれた。
かなり不器用だったのは覚えている。
それでも僕は、そんな懸命な父を尊敬していたし、何よりも好きだった。
ある日から余所余所しくなって、帰宅した僕を一瞥しては、新聞に没頭するようになるまでは。
嫌いではないが、好きでもない。
だからこそ迷惑なんてかけさせたくないし、極力不安になんてさせたくない。
故に、人前での1人称を「俺」と直したのも。
優秀な成績を収め、先生からも信頼される素行を心がけるのも、全部。
絶対に問題を起こさないようにするため。
ひいては親に迷惑を、心配をかけさせないためだった。
そうやって、何も問題なく過ごしているのに。
どうして両親は、僕と何も話してくれないのだろう。
どうして僕を──てくれないのだろう?
そんな葛藤を常に渦巻かせながら、玄関のドアを開けて帰宅した。
母が元気な声で、明るく出迎えてくれる。
「おかえりー! 外暑かったでしょー」
「うん」
「今夜はそうめん作るから、期待しといてねぇー」
「分かった。一旦着替えてくるね」
「はいはーい」
階段を上がろうとして、ふとドアの隙間からリビングを見やる。
父は何やら見慣れない本を読んでいた。
カラー印刷の裏表紙──そもそもブックカバーは外す主義の父が、なぜ付けたまま読んでいるのか。
少し不思議には思った。
しかし、歩き回った汗で濡れた白Tシャツの嫌悪感は凄まじく、もう我慢できなかった。
故に湧き出た疑問をかなぐり捨て、僕は一目散に自室へと上がっていくのであった。
──そうして服を着替え、ベッドに横になり、スマホのメッセージアプリで千冬さんと少しやり取りをして、夏休みの宿題も進めるうちに。
気がつけば、窓の外は真っ暗になっていた。
部屋のカーテンを閉めると、1階に下りてリビングへ向かう。
ドアを開けると、食卓には氷水の入ったボウルがあり、中にはそうめんが入っていた。
僕に気づいた母が、声を掛けてくる。
「夏貴、夜ご飯よ。席に着いて」
「うん」
「アナタも席に着いてください。ご飯の時間ですよ」
「……ん」
父が重々しく頷き、さっきの本を置いて立ち上がった。
タイトルを覗こうとしたが、しかし裏表紙を上に向けているため、分からない。
僕の視線に気づいたのか、父がじっと見つめてきた。
慌てて本から目を逸らし、そそくさと席に着く。
そうして家族3人、食卓を囲むと、手を合わせてから食べ始めた。
ボウルからそうめんをすくい取り、つゆの入ったお椀に浸してから啜る。
白く細い麺はキンキンに冷えて、つゆもよく染み込んだ。
歩き回った身体の疲れが、涼しさとともに抜け落ちていくようだった。
「夏貴」
すると、対面に座る母が声を掛けてきた。
妙にニヤニヤした表情から、大体何を言うのかを悟る。
「明日の件、どうだって?」
「……大丈夫だってさ。俺が公園まで迎えに行って、それからウチに寄ることになった」
「そう! それはよかったわ!」
「あ、来るのは昼の2時ぐらいだから。昼ご飯は多めに作らなくていいからね」
「分かったわ、うふふっ」
温かい視線がこそばゆい。
一人息子の初めての連れ込みだからか、母はとても舞い上がっていた。
げんなりとしつつ、隣の父のほうを見る。
父はただ食事に集中していて、まるでこっちを向いていなかった。
手元に視線を落としている──お椀に麺がなくなっては、またすくい、無心で啜る。
興味がないと思われても仕方のない態度だった。
もっとも、別に触れてほしいわけでもない。
黙っていてくれるなら、僕のメンタル的にもありがたいことだ。
1人で勝手に盛り上がる母を置いて、黙々と食べ進めていると、
「──夏貴」
母がびくっとして、お喋りを止めた。
僕も目を見開いて、俯きがちだった顔を上げる。
あの父が、まっすぐに僕を見つめていた。
いつもと変わらない真顔から、全く感情は読み取れない。
しかし話しかけてくること自体が、随分と久しぶりなことを。
食卓にいる全員が、恐らく認知していた。
場の空気を一変させると、父は小さな声でぽつりと言った。
「その彼女は美人か」
「…………は?」
「美人なのかと聞いている」
突然の質問に困惑する。
思春期に入ってから久々の第一声が、これ?
美人かと言われて、つい考える──うん。やはり千冬さんは魅力的な女の子だ。
確信を持って頷き、答える。
「まぁ……美人だよ。顔も可愛いし、性格もお淑やかで落ち着いてるし。周りへの気配りだって出来る。僕には勿体ないぐらいの女の子だ」
すると父は、深く息を吐いた。
何かお気に召さなかったのか、と不安になると、
「そうか。ならいい」
唐突に話を切り上げた。
思わず心の中でズッコケて、終わりかい! とツッコミを入れる。
一体何だったんだ、今の質問は?
不思議に思えども、しかしもう父はいつもの状態に戻っていた。
残り少ないそうめんを箸で摘み、涼しい目をして味わっていた。
「お父さんが自分から喋るなんて……うふふっ。きっと明日は吉日だわぁ」
「……母さんも何言ってるの、ホントに……」
色ボケする母にもツッコむ。
気づけばボウルの中は氷水だけだった。
***
夜、暗闇の中で考える。
父のあの発言は、どんな意図があったのだろう?
効率重視の父は無駄な時間こそ過ごせど、無駄な言葉は一切出さない。
つまりは何かしらの意図があって、あの謎発言が出てきた──はずだ。
『彼女は美人か』
聞いた瞬間は戸惑ったが、改めて考えると愚問だと思う。
顔は可愛いからとか、性格は良いからとか、そんな単純な指標だけで彼女を選ぶほど、僕は直情的な人間ではない。
一目見て、肌で感じた雰囲気。
付き合ってみて垣間見えた、いくつもの側面。
それら全てが愛くるしく思うからこそ。
僕は千冬さんをレンタルして、一緒にいるのだ。
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