小夜曲・ココロキーホルダー

 行きは快晴だった青空も、楽しい時間とともに過ぎ去り。

 気がつけば夕焼けが辺りを染めていた。

 腕時計の針は午後7時を指そうとしている。

 もう間もなく太陽も沈み、そろそろ月が顔を出そうかという時間だった。

 ガヤガヤと騒ぎながら、僕たち学生集団はモールの外へと出る。


「うーん! 回った回ったぁ!」

「もうヘトヘトだよ私たちー」

「何言ってんだよー、運動部で鍛えてるくせにー」

「それとこれとは話がべーつー! 疲れたのは疲れたのっ!」

「はいはい、うるさいうるさい」

「もーうっ! 斉藤のバカッ!」


 ──だいぶ元気あり余ってるだろ、お前ら。


 心の中でツッコミを入れながら、今日一日、ずっと隣にいた千冬さんのほうを振り向く。

 映画の名残か、頬はまだ赤らんでいた。

 しかし友人たちのじゃれ合いを見て、楽しそうに笑っている姿に。

 退屈はさせなかったかなと、少し安心を覚えた。


 ここまで引率してきたチャラ男が、空を仰いで「よーし」と声を上げる。

 そして、ぱっと全員のほうに身体を向けると、両手を叩いて言った。


「そんじゃあ、今日はこのくらいにするか!」

「お開きー?」

「オッケー。お疲れさまー」

「おー、おつー」

「またどっかで遊ぼうねー!」

「そうだねーっ」

「ちょっ、皆待てって! 2次会! 2次会があるから、帰んないでぇっ──!」


 下心丸見えで、必死に引き止めるチャラ男。

 思わず笑ってしまう。

 あれだけ騒いでた連中は、もうすっかり解散ムードだった。

 もっとも僕も、あまり長居する気はない。

 千冬さんに目配せすると、僕の意図を汲んでか、微笑みながら頷いた。

 散り散りに別れる皆に、少し大きめの声で告げる。


「それじゃあ、俺たちも帰るね」

「今日はありがとうございました!」


 そんな僕たちに対し、皆は笑いながら、


「また遊ぼうねー千冬ちゃーんっ!」

「今度は女子だけで遊ぼーっ!」

「夏貴ぃ! その子死んでも手放すなよーっ!」

「じゃあなー夏貴! また彼女呼べよー!」


 温かい声を掛けてくれた。

 皆の言葉を嬉しく思いながら、ちょっとだけ胸の奥を痛める。

 無邪気に手を振る千冬さんには、この時の僕の気持ちはバレなかった──はずだ。

 楽しい空気のまま終われるのなら、どうか見抜かないでほしいと思う。


 幸い、この場はお開きとなった。

 しぶとく粘っていたチャラ男も、観念してトボトボと帰っていく。

 その寂しげな背中に、心の中で激励の言葉を送りながら。

 僕と千冬さんも、公園沿いの道へと歩き出す。


 こうして、夜の2次会は幻となって消え。

 僕は千冬さんとともに、どうにか山場を乗り越えられたのだった。


***


 街灯が暗闇を照らし、公園のほうから虫のさざめきが鳴り響く。

 妙に落ち着いた空気の中で、2人で手を繋いで途中までの帰路に就いている。

 あと2つ先の交差点に着いたら、今日はもうお別れだ。

 その距離を考えると、何だか呆気なく感じる。


 隣の千冬さんは俯いていた。

 落ち込んでいるのか、恥ずかしがってるのか。その心を推し量ることは出来ない。

 僕も何となく目が伏せがちになっていた。

 こっちの理由も、よく分からなかった。


「──今日は」


 千冬さんが、ぽつりと話し出す。


「とても楽しかったです。皆、良い人たちばかりで……まるで夢のような時間でした」

「……そんな、大げさだよ」

「いいえ。決して大げさではないです」


 そう言うと、僕のほうを向いてはにかんだ。

 心なしか明るくなった声色で、続けて言う。


「私、初めてでしたから。あんな大人数で色んなお店を回って、楽しくお買い物したのは……」

「……そうなんだ」

「はい。だから、よかったです。貴重な経験が出来て、充実した1日でした」

「それなら……よかった」


 別れの交差点が近づく。

 どれだけ歩みを遅めても、このあと訪れる流れは変わらない。

 結局は勇気なんだろう、と悟る。

 少なくとも千冬さんは──今はすっかり丁寧語口調だが──タメ口で喋ろうと努力していた。


 だから僕も、このまま別れるわけにはいかない。

 たとえ千冬さんに一片の後悔がなくても。


 僕にはまだ、千冬さんに伝えていない気持ちが、たった1つだけどあるのだから。


「……千冬さんっ」


 交差点を目前にして、声を振り絞る。

 立ち止まった僕に合わせて、不思議そうな顔で覗き込んでくる。

 もう逃げずに、千冬さんのほうを向いた。

 そして今日一日、ずっとポケットに入れていたそれを、慎重に取り出して左の掌に置く。


「っ──!」

「これ……受け取ってくれますか?」


 千冬さんがおずおずと、それに手を伸ばす。

 摘み上げ、じっと見つめると、徐々に頰が緩んでいくのが分かった。

 その嬉しそうな表情を見て、僕の選択は間違ってなかったことを知る。


 彼女の手元でコグマちゃんのネックレスが、銀色の光沢を放っていた。

 細やかに彫られたキャラクターは、丸い目をして威嚇のポーズを形作っている。

 欲しがっていたぬいぐるみと比べると、だいぶサイズダウンして、脆くなってしまったが。

 それはもはや些細な懸念だったと感じる。


 蒼色の瞳をこれでもかと輝かせながら、千冬さんが僕に尋ねた。


「──夏貴くん、いつこれを……?」

「えっと、映画見てるときに俺、トイレに行ったでしょ? その時に3階に行って、買ってきたんだ」

「……どうして、そんな」

「コグマちゃん……のグッズ、欲しそうにしてたから。サプライズ的な感じで、かっこよく渡そうと思ってたんだけど……」


 苦笑し、正直に白状する。


「……あのぬいぐるみ、両手サイズで大きくて。袋に入れないと、どうしても持ち歩けなさそうだったから」

「それで、これを……」

「はい。千冬さんなら絶対に似合うと思ったから。お気に召すか迷ったけど、時間もなくて、慌てて買っちゃいました」


 エンドロールに間に合うように、という縛りがあったのは失敗だった。

 もっと時間があれば、より良いプレゼントが見繕えたかもしれない。

 今となってはそこが、唯一の反省点だった。


「どうですか、その……やっぱりぬいぐるみのほうが、よかったですか?」


 今さらな質問だとは思っている。

 千冬さんの口元は緩み切っているのだから。

 それでも一応、乙女心の分からない初心男としては、聞いておかなければ不安だった。


 そんな僕に対し、千冬さんは、


「……いいえ」


 穏やかな目つきで応えると、そのまま瞳を閉じて、ネックレスを大事そうに引き寄せた。

 コグマちゃんが胸の中に包まれる。

 まるで溢れ出る気持ちを堰き止めるように、何かで満たされるような呼吸をして──。


 蒼色の瞳をゆっくりと開く。

 その瞳には、僕の姿が映っている。


「嬉しいです。ありがとうございます」


 ──あぁ、なるほど。


 僕はふと実感した。


 女の子を可愛いと思うときは、数あれど。

 好きになって恋に落ちる瞬間は、きっとそんなにないのかもしれない。

 そしてその恋に落ちる瞬間と、普段の可愛いと思うときの違いは。

 とてもシンプルで、分かりやすい。


「あの……夏貴くん。大変恥ずかしいんですが」


 千冬さんはそう言うと、ネックレスを差し出し、小さな声で呟いた。


「私に、付けてもらえませんか」

「……えっ」

「その、出来れば夏貴くんに、付けてほしいんです」


 突然のお願いに戸惑う。

 女子にネックレスを付ける機会なんて、人生で一度も経験していない。

 いつもの僕なら、日和って断わっただろうが。

 しかし今夜は、少し解放的になっていたようで。


「……わ、分かりましたっ」

「……お願いします」


 ネックレスを受け取り、千冬さんの背後に立つ。

 繋ぎ目がうなじに来るように、安物のチェーンを回り込ませて留める。

 そして静かに手を離すと、ネックレスはしっかり首に掛かっていた。

 付けられたことを実感したのか、ネックレスを軽く引っ張る千冬さんの横に動き、告げる。


「ネックレス、付けました」

「はい……分かります」

「首のあたりは、気になりませんか?」

「ふふっ、大丈夫です。ありがとうございます」


 僕に笑いかけ、頭を下げる千冬さん。

 なぜか釣られて下げ返すと、また笑い声がこぼれた。

 何だか可笑しくなって、吹き出す。

 そうして人目も憚らずに、気づけばあっけらかんと笑い合っていた。


 なぜだろう──こんなにスッキリとした時間を、人生で初めて過ごしたような気がする。

 本当はそんなこと、ありえないはずなのに。

 生まれて初めて、心の底から笑えたような感覚が湧き出てきて、止まらない。


「……おかしいですね。何でもないことで、こんなに沢山笑えるなんて」

「そうですね……不思議なことです」

「今日はすごく楽しかったから、もしかしたらそのせいかもしれないですね」

「俺もそう思います」


 思わず湿った目元を拭う。

 千冬さんはまた、ネックレスのほうに嬉しそうな視線を向けている。

 ──よかった。

 そう思ったのは、決して山場を乗り越えられたからでも、選択を間違えなかったからでもない。


 僕が大事だなと思える人の、満面の笑顔を見ることができた。

 その安堵ゆえの気持ちだった。


「……夏貴くん」


 千冬さんが名前を呼ぶ。

 僕は「はい」と返事する。

 そして千冬さんは、笑顔のまま、


「また、一緒に遊びましょうね」


 そう告げると、レンタル料の1万円とともに去っていった。

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