ひとりの夜
闇
ひとりの夜
僕は、いつも笑っていた。誰かを傷つけないように、嫌な思いをさせないように。どんなに僕が悲しくても苦しくても、お外では、にこにこしてた。お家に帰って、笑わなかったら、お母さんも、いつも僕のことなんかほとんど気にしないお父さんも、ぱっきんジュースを分け合うお姉ちゃんも、心配そうに言うんだ。
“何か嫌なことでもあった?”
たくさんあった。でも、言っちゃいけないと思った。お仕事で大変なお母さんとお父さん。自分のことよりお家のことや僕のことを優先してくれるお姉ちゃん。これ以上、心配も迷惑もかけちゃいけないと。だから、お家でも、笑う。学校で嫌なことがあっても、お姉ちゃんに叱られて、悔しかったときも、ちっとも顔にださないように、笑ってた。お父さんとお母さんは、僕が笑っていることに安心して、頭を撫でてくれる。微笑んでくれる。
それでいい。僕は、お母さんとお父さんに笑っていてほしいから。
でも、お姉ちゃんだけは、騙されてくれなかったんだ。
お布団の中で独り泣いて、こっそり僕は、怒りと悲しみを吐き出す。
ある日、お姉ちゃんが、夜中に僕の部屋に入ってきた。静かにって、ジェスチャーして、ついておいでと、僕を誘う。真っ暗な家のなかは、知らないところみたいだった。お外も真っ暗でカーテンの隙間から少しだけ明るい黒が見えた。いつも、テレビがついていて、賑やかなリビングは、しんと静まり返ってて、僕は、少しだけ怖くなった。家族でご飯を食べているときは、少し狭いな、なんて思ってたのに。ソファに僕を座らせると、お姉ちゃんは、少しだけ灯りをつけた。そのままキッチンに行って、かちゃかちゃと何かを作っていた。いつもの夕方とおなじなのに、暗いだけで、どきどきした。悪いことをしているみたいで、ちょっぴり楽しかった。
お姉ちゃんは、お料理が上手だ。夜ご飯は、習い事がなければ、お姉ちゃんが作ってくれる。僕が遊んでる間に、お姉ちゃんは働いてる。少しだけお手伝いするけど、すぐわすれちゃうからよく怒られる。最初は、尋ねる程度だけど、あんまりにも僕が、生返事だとお姉ちゃんは、冷たくなる。ため息をついて、家事を済ませていく。
でも、僕が、ちゃんとお手伝いできると優しく笑って、誉めてくれる。今のお姉ちゃんは、その時とおなじお姉ちゃんだと思う。僕を見て、僕のことを考えてくれている時のお姉ちゃんだ。
ごしごし目を擦って、泣いていた目を誤魔化そうとした。ちらりとお姉ちゃんをみると、いつの間にか近くにいて、濡れたタオルを差し出していた。僕は、しまったと思った。心配かけてしまった。それもお姉ちゃんに。僕と同じ子供のお姉ちゃんに。僕にマグカップを手渡して、隣に座ったお姉ちゃんは、半分大人だった。僕の手には、甘いココア。お姉ちゃんは、たぶん、苦いコーヒーだと思う。何だか静かに一口、一口、飲み込む姿は、綺麗だった。いつものくまさんの絵がプリントされたパジャマなのに。思わず自分の手元を見下ろした。見た目じゃわからないのに。もうすぐ身長だって、お姉ちゃんを越してしまうって言うのに。僕はココア。お姉ちゃんにとって、僕は、まだ、苦さを知らないお子ちゃまなんだろう。悔しくて涙が、でてきた。慌ててタオルでぬぐう。どうしてだろう。お布団の中でしか泣けなかったのに。ぽろぽろ、涙が溢れる。がらんとしたリビングに僕の涙をこらえる声だけが、響く。ずっと黙っていたお姉ちゃんが、やっと口をひらいた。
「泣きたいときに泣きなさい。でないと泣き方を忘れてしまうわ」
小さな声だった。いつものお姉ちゃんからは、想像しにくいくらい。でも、ずっしりと重たい言葉だった。思わずお姉ちゃんを凝視した。
僕の知らないお姉ちゃんだ。
「布団もぬいぐるみも甘やかしてはくれない。ただそこにいるだけよ。わたしは、あなたが何が嫌だったのか、悲しかったのかなんてわからない。でも、無理をしているのはわかる」
まるで僕は、お姉ちゃんのお友だちになった気分だった。お姉ちゃんは、僕とこんな口調で話さないから。じっと両手で握ったマグカップを眺めながらお姉ちゃんは続けた。
「わたしは、あなたの理解者にはなれないかもしれない。でも、甘やかしてあげられる。わたしには、いなかったけど、あなたには、姉のわたしがいる」
ゆっくりと紡がれる言葉は、どこか諦めが含まれていて、でも、どこまでも正直だと思った。止まらない涙にお姉ちゃんは、少しだけ見て笑った。
「わたしは、もう、笑い方も泣き方もわからない。でも、あなたはまだ、引き返せる。せめて、お家の中だけでもいいから、素直になりなさい」
思わず抗議した。お姉ちゃんは、いつもあんなに笑っているじゃないかって。
「嘘つき…」
すとんとお姉ちゃんの表情が、消えた。
仮面を被ってる人はだいたいわかる。だって、僕がそうだから。分厚いひとほどよくわかる。だって、そういう人は、ひとりになるか、誰かの影にいくと、ことりと目の輝きを捨てるのだ。僕は、お姉ちゃんのそんな姿を見たことがない。お姉ちゃんは、なんでもできて、頭が良くて、かわいくて綺麗なんだ。だから、仮面なんて被らなくたって、お友達ができるだろうし、悲しいめにあったり、悔しいめにあったりしないだろう。
でも、そのすべてを諦めた瞳を見て、そんな認識が間違っていたのだと思わされた。
「まあ、わたしのことは、いいの。あなたが好きなようにとらえなさい。でもね、泣くのは大事だから」
また、どこか遠くを見ながら、やさしい瞳をしていた。僕に何を見ているのだろう。お姉ちゃんのマグカップから、半分コーヒーが消えていた。
「我慢しちゃいけない。誰かに甘えなさい。独りで泣くよりずっといい。本当は、泣く前に話せる人がいる方がいいんだけどね」
そっと立ち上がったお姉ちゃんを見上げた。ぬるくなったココアをペロペロなめるように僕は、少しずつ飲んだ。
「わたしができるのは、ここまで。あとは、自分でどうするか決めなさい」
お姉ちゃんは、ずるい。
僕にばかり話をさせようとして、自分のことは何も言わない。どうして、話してくれないんだろう。お姉ちゃんの話を聞けば、僕だって、素直になったかもしれないのに。頭は、そう言ってキッチンまで歩いて行ったお姉ちゃんを責めるけど、心は正直だった。不器用なお姉ちゃんの優しさで、涙は止まらなかった。だって、ココアは、いつもより甘くて、お水じゃなくて牛乳で。電子レンジを使ってなかったから、僕の部屋に来る前にコンロで温めてたんだと思う。猫舌な僕のために。僕に言い聞かせるんじゃなくて、選択できるように、独り言のように話して。
なんて、不器用なんだろう。僕ならこんなことせずに、どうしたのって聞いてしまうのに。優しいココアを飲みきるのが、もったいなくて、ちびちびと飲んだ。キッチンでお姉ちゃんが、僕を見ていた。
お砂糖と牛乳を残ったコーヒーに足していた。くるくると混ぜて、いっきに飲みほすとお姉ちゃんは、僕に言った。
「子どもの特権なんだ。親に甘えられるのは今しかないんだ。あなたが黙っている方が、お母さんたちは心配するし、気にするよ。気づかないふりをしているだけだから」
そんなこと考えたことなんてなかった。誰も僕のことをわかってくれないんだって、どこかで思っていたから。
「まあ、あなたはちゃんと笑えてたつもりだろうけど、まだまだ、猫をかぶりきれてないもの」
けろっとした顔で笑いながら、さらっとお姉ちゃんが言った。完璧とまでは言わないけど、だいぶいい仮面をつけれてたつもりだったのに。
「話さなくてもわかることはあるけど、言葉がないとわからないこともあるわ。逃げてばかりじゃ、誰も理解者になってくれない。自分から動かないと。手を差しのべてくれる人たちを無視してはだめよ」
そっと手元のココアをみた。これは、お姉ちゃんなりの寄り添い方だった。本当に不器用だけど。でも、そんなお姉ちゃんだから、僕は大好きなんだ。
「うん。お姉ちゃん、ありがとう」
いつもは素直に言えないけど、今は、今だけは、ちゃんと言えた。お姉ちゃんは、少し目を見開いて驚いたあと、すごく優しいとけた表情で僕を見た。
「どういたしまして。ちゃんと笑えるじゃない。その方がずっといいわ」
僕は、笑っていたらしい。お姉ちゃんは、それだけいうとおやすみと言って、自分の部屋に戻っていった。
僕は、甘いココアを握りしめて、もう一度だけ呟いた。
「ありがとう」
もう、この暗いリビングは、怖くない。ひとりの夜だって、怖くない。僕には、ちゃんと味方がいたから。
ひとりの夜 闇 @noah-noir
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