死にたがり

@sand_clock

死にたがり

目を覚ますとタールのような絶望が全身を覆う。重苦しく、あらゆる穴を塞ぎ、息をしようにも口内を、そして体内をもどんどん埋め尽くすだけだ。目を、耳を塞ぎ、そして今日という一日を絶望に閉じ込められて過ごすこととなる。

それがやってくるのは、照明を切り、体を横にし、布団を被り、そして目を閉じる度、これが最後の眠りでありますようにと祈るからだ。

そして、祈るのは目の前の現実を自分以外の誰かに変えてもらいたいから。

僕はひっそりと死にたかった。できれば自分自身すら気づかないように。ほとんどボロいアパートの一室にひきこもっている僕にそれが可能となるのは、ぐっすりと眠っている時に突然心臓麻痺が起きることくらいだろう。眠気がゆっくりと全身へ染み渡り、現実からは遠いどこかへ沈んでいくのを最期に味わえたらどれだけ幸せなことか。

僕に未来なんかいらなかった。未来がなければ希望を抱かずに済む。希望を抱かなければ絶望に変貌することもない。

だけど否応なく未来はまず希望を押し付けて、お前がこの希望を絶望に変えたのだと責め立ててく

もしかしたら祈りなんてのは無意味どころか逆効果かもしれない。”自分以外の誰か”なんて不確定なものに祈っても失望が絶望とセットでやってくるだけ。

そのうち、僕は眠る前の祈りをしなくなるだろう。代わりに僕は想像するはずだ。何よりも確かな死が僕に寄り添っている光景を。

蝿がどこからか部屋に侵入し卵を植え付け、蛆が湧き、何も反射しない濁った目玉を晒し続ける死体と化した僕。

誰だって、生きることの絶望からは逃れられない。

閉められているカーテンの隙間から這い出てくる陽射しが忌々しく思えた。

布団を被ったまま足で蹴り、乱雑に端へ追いやる。

立ち上がることなく部屋の隅にある椅子に芋虫のように這い登り、いくつものパーツを無骨な黒い箱に隠したパソコンの電源を押した。一瞬、搭載されたすべてのファンが全力で回転し、不快なうねりをあげる。すぐに調整機能が働き穏やかな環境音へと変わった。

キーボードの横にあるポケットラジオの電源を入れる。僕は積極的にネットでニュースを漁るなんてことはしない。ラジオから一方的に流れるニュースが、世界は動いてるということを教えてくれればそれでいい。

それでも僕がわざわざデスクトップパソコンを使うのはあるチャットソフトのためだ。

それは様々な理由から足跡を残すことなくネットを使いたい人たちが開発したもので、あらゆる通信を遠回りさせることで通信元を恐ろしく分かりにくくしてくれる。ローカルのPC上にもログを一切残さない。その性質上、違法な取引に使われることが多い。

利用頻度の割にバグ報告しかできないから、せめて開発者たちの名誉を守るために言うと、最初から犯罪目的で作られたのではない。彼らはただ自由を重んじているだけだ。

発する言葉を誰にも妨げられない自由。インターネット上の自身を誰にも食い物にさせない自由。個人より遥かに大きいものから踏み潰されない自由。

ただ僕が使うのはドラッグ売りの指示を受けるためだ。

個人アカウントでログインするが新着メッセージはなかった。

指示が送られる時間は五時と一七時の二回だけで、指示内容も当日以降のものと決まっている。どうも顔も知らないボスはイレギュラーな事態を恐れているらしい。

最低でも今日と明日は暇なことが確定してしまった。

そうなると僕がやることは眠りに就くか、使い捨てアカウントで適当にチャットするくらいしかない。

とりあえず僕は後者を選んだ。

自分のままでありながら、違う自分でいられるということはとても素晴らしいことだ。受け入れたくない自分のパーツを取り除き、好きなパーツに換装、追加できる。インターネットとSNSはそれを容易にした。

他にもインターネットでそれが可能な場所がいくらでもある中、僕がこのチャットソフトを使い続ける理由は、信頼しているからだ。自分ありながら自分ではない誰かが残した過去を追えないとい点で。

目に入る大量のトピックの九割方は取引関係だ。マイナス検索を使いそれらを取り除く。

数件ヒットした。ありがたいことに、このソフトでただのチャットをしたい人は少数ではあるが常に存在する。導入の難しさと犯罪行為への忌避感がある種のフィルタリングとして機能しているからだろうか。

ヒットした中の1つを適当に選び、チャットを開始する。


口が寂しいの、と『彼女』は言う。

『彼女』の生涯において最大の夢は散弾銃を口内でぶっぱなすことらしい。

これまでに何度も、銃を丁寧に掃除した後、唇に冷たい金属が触れ、歯がかちりと当たり、呼吸する度に空気が筒を行き来するこもった音がし、それからちゃんと脳をぐちゃぐちゃにかき混ぜてくれるよう、銃口を――”奉仕”をするわけじゃないから、喉奥まで突っ込んではいけないらしい。――口の上部、硬口蓋に当て、そして引き金を引く様をシミュレーションをしたと言う。

くぐもった銃声が部屋を支配した。火薬、血、そして少し焼き焦げた肉を混ぜた臭いが鼻孔を通り抜ける。焦げる臭いに不快感を示す理由が分かった。それはきっと古来から人類に有機物から無機物への変化を知らせるため、刻まれたものだからだ。

鼻から上が四つにぱっくりと割れ、べろりと剥がれた肉が目元を覆った。ぐちゃぐちゃになった血管から溢れた血液が出口を求めて鼻口に押し寄せる。服と銃は盛大に汚れたが、おかげで不快な臭いは深く沈んでいった。

衝撃で後ろに倒れたまだ柔らかい体を椅子が優しく押し返す。血で覆われてぬるぬるとした銃が手から滑り落ちた。そして、キーボードに中途半端な顔面を叩きつけ、歪なコップと化した頭蓋骨から、灰白色な脳の欠片を浮かべた紅いミックスジュースをモニターへ思い切りぶちまけた。

――気がした。

ラジオから一〇時の時報が流れる。時間帯にふさわしい明るい声だ。

開かれた視界に赤色は存在しない。キーボードのプラスチックの臭いだけが嗅覚を刺激する。

無関心なモニターはただキーボードから渡された情報を文字として表示し続けていた。

深く息を吸い、そして限界まで吐いた。

それでも頭蓋骨が軽くなった感覚は消えない。

人の大脳から延髄まですべてを含めた重さは平均約1300グラム。散弾銃の角度からして、頭頂骨は確実に吹っ飛び、前頭骨も少し持っていかれるはずだ。直立二足歩行である人類からそれらが失われるとどうなるか。バランスが取りづらくなり、できるだけ俯くか空を仰ぎ、首をあまり動かさなくなるだろう。

ゾンビになった気分だ。ぼんやりとキーボードを見つめ続ける。

そのうち、意識がキーの間にある汚れに移りかけたため顔を上げた。

倒れた時に打ち込まれた文字列が送信されていたらしく、『彼女』から心配するメッセージが届いていた。

大丈夫、僕もシミュレーションをやってみただけだ、と伝える。

「演技派なのね。それで? 気持ちよかった?」

僕は正直に書いた。

最期に感じる臭いが最悪なことを。部屋と家具に面倒な汚れを付けてしまうことが嫌だと。そして何より自殺の中でも騒がしい部類であることがマイナスだと。どうせ自殺するなら静かに、ゆったりと蛆にたかられる未来を想像しながら穏やかに逝きたいと。

「あなた変わってるわね。臭いなんて考えたことなかった。だって重要なのは引き金を引くまでだもの」

自殺を日常的にシミュレーションする奴に言われたくはない。

「自分でも頭がおかしいと思うわ。」一度そこで切り、

「でもね、精神科に行ってまさしくそうだと診断されたら狩猟免許は取れないの。夢が遠くなっちゃう。」

僕は、狩猟免許は必ず必要なのか、そんなものなくても誰かから無理やり奪って自殺するんじゃ駄目なのか、と聞いた。

「うん、駄目なの」彼女はすぐにそう返し、

「私はね、まともな生活の延長で自殺したい。それまでまともな人間と思って私と関わってきた人間全員に、自殺という可能性がどこにでもあるということを教えてあげたいの。自殺願望のある人間でもまともな人間として生活は送れることを。まともな人間でも自殺したくなるということを。遺書なんか、書いてやらない」

一枚の画像と後はテキストだけのやり取りなのに、何故か僕には今『彼女』が穏やかで、悲しげな表情をしていると確信できた。

「眠れないのに睡眠薬を頼ることもできない。自分が今生きてるかはっきりしないのに腕を切ることもできない。自分を殺すために自分を殺して生きてるの。ちゃんちゃらおかしいでしょ。唯一の気晴らしはこうして誰でもない誰かと話すこと」


それからしばらくして、僕は部屋中に体の一部が飛び散るからブルーシートは複数枚用意した方がいいこと、音で気づかれるかもしれないが、念の為手紙などの時間差がある連絡方法を使って誰かに頭を吹っ飛ばして死んでいるであろうことを伝えておくことをアドバイスしてチャットを終えた。そうしておくと死後の処理がスムーズになる。

パソコンにシャットダウンの命令を送り、完全に終了するのを見送らずに布団へ向かう。

横になり、ぐちゃぐちゃな掛け布団を体にかけた。

僕は祈らない。代わりに気がつくと拳銃がを握っていた。

銃口を硬口蓋に当てる。

僕は想像した。蝿が集まり、蛆が湧き、何も反射しない濁った目玉を晒し続ける死体と化した僕を。僕が僕でなくなっていく光景を。

そして引き金を引き、穏やかな眠りについた。

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