うつろうもの

細川たま

天鷺村

行楽日和、日本晴れ。この上ない快晴の日に、我々は天鷺村という、辺鄙な村に遠出した。

車で数十分、クイーンの楽曲を車内で堪能していると、既にそこは天鷺村であった。道路が通ってはいるものの、我々以外車はどこも走っていない。それどころか、ひとっこひとりいないのである。辺鄙な村というより、これではまるでゴーストタウン(廃村のよう)だった。

だが、気味悪がるほどではない。何故ならば、ここは所詮田舎なのだから、人を見かけなくとも不自然ではない。

よく見ると、古風な家が多い。父の話では、それらは市営住宅といい、条例によって存在するものらしい。ただ、その瓦屋根の家々には、ちゃっかり近代的な窓が備わっており、採光を確保していた。当然だが、どこか解せない。

迷路のようにいりくむ小道を糸を通すように抜けていくと、目的の場所へ辿り着いた。城址公園と美術館に見つめられた、亀田城が山を背景にそびえていた。厳密には、亀田城を復元した建造物だ。

我々は、早速城内を物色しようと、5mもの高さを誇る正門をくぐり抜けた。本来は城だとしても、今となっては観光地である。従って、我々は悠々と、かつ大胆に突破してみせた。

といって、入場料は抜け目なく請求された。大人二人で840円。つまり、一人あたり420円の計算である。今はただ、元がとれるよう、願うばかりである。

会計口の女の説明が一々うるさいのが印象深いが、ここでは掘り下げない。とにかく、順路と書かれた標識に従って進めと言うので、大人しくそうした。

歩きながら、なんと雅な空間なのだろうと感嘆した側から、これでもかという程にコンクリート造りの近代建造が順路上に建っていたので幻滅した。ただ、その狭い道は日陰で涼しかったので、ぐっと堪えた。

そこは資料館だった。真田幸村の五女にあたるお田とかいう、亀田藩に嫁いだ側室の因縁で、ちょうど企画があって、真田家と亀田藩についての詳細が、展示物と共に明記されていた。私はつい面白がって、日課のメモを、その場に相応しくない機器に書き留めていた。当然、後続の観客であった珍妙な外国人ら三名に、怪訝な表情でねめつけられ、挙げ句には、こちらが英語をわからないと思って、ぬけぬけと言われたい放題されてしまったが、別段なんということもない。

私の沽券と真田十勇士の知識とでは、やはり天地雲泥の差があるのである。

とりあえず、真田のコーナーはあらかた見て回ったので、先に進むことにした。今度は郷土の画家を紹介した展覧であったが、全く興味深いことはなかった。ただ、女体の肉体美を表現した画家なのだなと理解がはたらいたのみで、たいしてそれ以上の考察はしなかった。

同様に、今度も郷土の有名人にあたる、農学者、生物学者とか言う肩書きを持つ偉人の展示であり、明治の年表と、総目録、あるいはその人物の研究したヨタカなる鳥類のデータが揃っていたが、完全に私の専門から逸脱していたので、気にもとまらなかった。従って、これ以上は特筆しない。

そこを出ると、なんとまあ、聖域の如し神聖さを帯びた日本庭園が、ところ狭しと配置されていた。実際にそこは狭小としており、馬の通る余地はなかった。やはり、馬は厩舎におさまるのが道理かと半ば諦念のようにそう思っていると、当時の農家があったので、折角だから母屋と厩を観察することにしたが、だとすれば馬はどのように敷地内を出入りするか気になって仕方なかった。

武家屋敷は、土間と囲炉裏があるだけで、なんだかしょぼくれており、酷いのは、近代的なキッチンが設備されていたことに、入り口が自動ドアだったこと、畳の上の箪笥の上に、コカ・コーラの段ボールがふてぶてしく鎮座していたことだ。あれには失笑せざるを得なかった。一方で、ウィットに富んだ案内があったので、是非とも紹介しておきたい。そこはぜんまい織りの部屋だった。実演はもうしておらず、小道具が放置されたような有り様を呈していた。しかし、しおり戸にはこういう案内が貼られてあった。

もしかすると、鶴が機を織っているかもしれませんので、静かに戸を開閉してください。

取り立てて面白かったというほどでもないが、こうしたユニークな案内も悪くないと思った。一笑し、退屈が愉快になって、足取りが軽くなった。すると、最後は本殿らしかったので、我々は天守閣からの景色を一望しに行った。

が、驚くべきことに、本殿の一階は、購買と食堂の一緒くたになった空間なのであった。ここは復元以来、営利目的に改築された今はなき前人の名残と化してしまったのであった。それを実感した。なんだか、胸糞悪くて仕方なかった。自動ドアに、食堂、なんでもござれだ。自動ドアの配備されているのを鑑みれば、おそらくこの改築は昭和以降のものであり、考えやすいのは、平成に入ってからの少子高齢化、限界集落化(過疎化)にあたっての地域復興の一環だ。となれば、この醜態は、現代人が招いたと考えねばならない。別に否定するつもりはないが、例によって、私は得も言われぬ不快感で、苦虫を噛み潰したような表情を敢えて演じてみせた。

最早店内とも形容すべき建物の階段を一段一段上っていった。途中で、最初の外国人らにあったが、目をあわせることもなく、めいめいの目的地に向かってすれ違った。

二階には宴会場(もはや歴史など感ずる余地はなかった)と神輿があり、踊り場には大神楽と称して、獅子舞の絵が飾られていた。三階はよくわからぬ、スイッチで作動しない、謎のランプがいくつも備え付けられた壁があり、とうとうそれより上はお待ちかねの、天守閣であった。ただ、そこはガラス張りになっていたので、ガラス戸を開けなければならなかった。それで、それを引いたのだが、びくともしなかった。開けようにも開けられないので、お預けをくらった家畜のようなもどかしい心地になった。すると、ガラス戸の向こうに、白髪の老夫婦がいたので、どうも外には出られるらしいとわかった。そこで、ほかの方角のガラス戸を引くと、なんとびっくり開いたのである。どうやら、先のガラス戸は破損していたようだった。全く調子の狂う話だ。

いざ戸の向こう側へ出ると、涼やかな風が肌に気持ちよかった。田舎暮らしだから、肌にあった風だった。展望した景色は、どんな夜景よりも美しく、貴重なものだった。飾らない、伝統と歴史を匂わす自然体が、なんだかしっくりした。

が、ひとつ難癖をいえば、床の腐食をこそ改修するべきだ。

と、そこへ先程の老夫婦の、老爺の方が我々に訪ねてきた。

「あなた方も、旅行でいらしたんですか?」

老爺は、穏和そうな声をしていた。

「ええ。この城が目当てで」

父はそう返事をした。

「そうなんですか。私たちは、元々ここの生まれなんですよ。それで、久しぶりにここに来ようって話になりましてね」

「なるほど、里帰りですか」

「どうですか? この村、良い村でしょう。特に、ここからの眺めは絶景です」

言いつつ、老爺は眩しそうに、村の全体像を目におさめんと、ずっと遠くを見やった。澄んだ表情だった。

「ええ。ほんとに」

「ただ、この村は変わってしまった。私たちのように皆出ていき、人は来ず、昔ながらのものには手が加えられた。悲しいものです」

「残念です」

父はともかく、老爺の方は本当に居たたまれなさそうに、感傷に浸っていた。

「お兄ちゃん。お兄ちゃんはこの村、好きかい?」

今度は無理やり笑って、私に訊ねた。私は唐突にふられたので当惑した。

「わかりません。ただ、なんだか、建物や自然には賑やかな雰囲気があって気持ちが良いのに、肝心の賑々しい住人がいなくて、淋しいです」

「そうだね。もう、寿命のようなものが、この村にきているのかもしれないな。私と一緒だ。ああ、この村の、この景色も、もう見納めかもしれないなあ」

そう老爺は、独り言のように言った。私は、そんな老爺にかける言葉が見つからなかった。

我々は、自動ドアにもかかわらず遠隔操作が必須なドアを、スタッフだか店員だかわからない、シフトチェンジでもしたのか最初の会計口にいた女に開けてもらい、ようやっと外界へ出た。

いつの間にか、太陽光で加熱された、蒸し暑い車に乗って、我々は天鷺を跡にした。

帰り道、我々は、仏教の宗派と、住職と税金に関する話で盛り上がっていたが、やはり念頭においたのは、亀田城であった。かつては盛況だったろうあの村の、あの城と、あの老爺の言葉である。

歴史とは全体なんなのか。それらの財産を後世に引き継がねばならぬ我々が、保存と称し、手を加えてもよいのか。あるがままを残すべきではないのだろうか。村に寿命というものがあるなら、もう手遅れなのではないのか。私はそんなよしなしごとをとつおいつ考えつつ、父はだまって沿線に車を走らせた。空はもう曇り空であった。私はぼっと、ぼやけて霞んだ海を眺めた。 心なしか水平線は遠ざかっていくようにみえた。車内ではエアロスミスのロックンロールが響いていた。

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うつろうもの 細川たま @hosokawatama

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