屋上のサロメ

ささね

第1話

H先輩は、別段騒がれるような容貌の人ではありませんでした。そればかりか、目に突き刺さるような長い前髪が、初対面時の印象を悪くしていましたし、実際、性格も社交的とは言えません。一般的な学校であれば、H先輩は間違いなく、名簿を見て、やっと存在を思い出される類の生徒だったでしょう。

それでもそうはならなかったのは、この学校が特殊な学校であったからです。ここは、ある種の生徒たちには栄光が約束された場所。ここから出ることができるならば、私たちには、薔薇色の人生が約束されているのです。


舞台に立つために生まれてきた。H先輩は学内新聞のインタビューでそう答えていました。その言葉に違わず、役を演じているH先輩の姿は強烈です。普段の彼はなんだったのかというくらい。逆に舞台と普段との落差が、彼の存在をよりいっそう謎めいたものにさせています。そして、観客はH先輩の謎を暴きたいと、そう願ってやまないのです。しかし、その謎を解いた者はいません。なぜなら、その謎は舞台の上でしか解くことができず、謎の一端を掴みかけたときには、舞台の幕は降ろされてしまうからです。

一度、H先輩が新聞部に密着取材されたことがありました。なんて魅力的な企画でしょうか。H先輩の熱狂的なファンはこぞって新聞を貰いに行きました。我が校の校内新聞は、日頃から学生の作る領域を遙かに凌駕していましたが(この学校の全てが、一般の基準より少し高いのです)、殊にH先輩に関しては、歪な情熱を燃やしているようでした。三十六面、H先輩のことしか書かれていないのです。H先輩に興味がない生徒は、どう思ったでしょうか。同じ演劇科の生徒である私から見ても、それは異常としか言いようがありませんでした。

しかし、H先輩の謎は、己の手で解かねばなりません。


それはそうと、演劇科にはH先輩の他にKという生徒がいます。K先輩は、モデルのバイトをしていて、学内にも外部にもファンクラブがあり、大変華やかな人です。それでいて、容姿に奢ることなく努力家で、目上を敬い、他の先輩が疎かになりがちな後輩の指導も熱心に取り組んでくれる。いわば私たち後輩の憧れです。もちろん、先生方にもとても期待されていました。

しかしそれは「H先輩の次に」であり、その順位が変わったことは一度もありませんでした。K先輩であっても、H先輩の前では霞んでしまうのです。

K先輩の名誉のためにも言っておきますが、それはK先輩の努力が空回っていたというわけではありません。

演劇科の生徒は、他の学科の何倍も高い倍率から選ばれた生徒によって構成されています。一般の入試に加えて、演劇科のオーディションも受けなければならないのです。そのオーディションで毎年、他の学科の五倍の生徒が落とされるというのですから、ただごとではありません。K先輩は、その中でも指折りの実力者なのです。本来なら、もっと注目されてしかるべき方なのです。

しかし、H先輩の存在があるかぎり、K先輩は、H先輩という太陽の陰にならざるを得ませんでした。こういった演劇科の現状について、お二人がどう考えているのかはわかりません。ただ、少なくとも演劇科の生徒たちは、お二人を尊敬し、その尊敬の中に畏怖を隠しながら、K先輩に憐憫の情を持っていました。

そして、この物言わぬ数多の目が、H先輩とK先輩を、そして演劇科全体を息苦しくさせていくことになるのです。


私が演劇科に入って間もない頃、演劇科の緊張はピークに近かったのだと思います。私はいつもの稽古の終わりに、携帯を忘れたことに気が付き、教室に取りに戻りました。教室の机の中にあると思っていたのですが、見つからず、昼休みに屋上で台本の読み合わせをしたことを思いだし、私は屋上へ急ぎました。

幸い屋上の扉はまだ施錠されていませんでした。重い扉を体で押して開くと、風で制服が強く煽られるのでした。季節は秋に移り、日暮れが随分早くなったせいで、早くも校舎は既に夜の帳を下ろしていました。

こんな暗くて見つかるだろうか、そう不安に思ったときでした。屋上に誰かいるような気配がしたのです。目を凝らしてあたりを窺います。

なにせ、この学校は立地の関係で日暮れになると、ほとんど前が見えなくなってしまいます。生徒の通学路にポツポツと街灯が立っている他は、あたりは濃厚な闇に包まれていました。


闇の中に、人らしき姿がぼんやりと見えました。背格好からして生徒だと思いました。生徒はこちらに気が付いているようでしたが、なんの反応もありません。どうも不穏な雰囲気を感じ、近寄りたくはなかったのですが、男子生徒が立っている場所は、私が昼休みに座っていた場所と近かったのです。明日の朝に出直そうという考えは、私の中にはありませんでした。

「携帯、どこやっちゃったかなー」と相手に聞こえるように大きな独り言を呟きながら、用心深く男子生徒との距離を詰めていきました。

その男子生徒が、H先輩だということに気が付いたのは、大股三歩で手を伸ばせば届くという距離まで近付いたときでした。H先輩は、私がそこまで近づいても微動だにしませんでした。そして、驚くべきことにH先輩は屋上のフェンスの向う側に居たのです。


最初は本当に意味がわかりませんでした。H先輩と面識はありませんでしたが、私が一方的に見知っている人物であったことで、私は少し安心し、安心ゆえに、H先輩の姿が、フェンスの向う側にあると気がつくのが遅れたのだと思います。

気がつかない私は、思わず「なんだ、H先輩だったんですか」と声に出して言いました。

言いながら、こちらが一方的に知っているだけで、H先輩とは初対面だということを思い出しました。馴れ馴れしく話しかけてしまったことに慌て、その後になってようやく、H先輩の上靴の半分先が屋上から出ているのが目に入りました。

状況を理解した瞬間、サッと血の気が引く音が聞こえました。

それからの私がどうしたかと言うと、私の口は混乱した私を置いてきぼりにして、最近の稽古について勝手に話し出していました。混乱していたのだと思います。その口ぶりは先輩に対するものではなく、同級生、それも特に近しい者に対するそれでした。台本に書かれた台詞を読み上げているような気分に近かったのだと思います。頭の中にある台詞を、そのまま舌に乗せていくことしかできません。

話を途切れさせたら終わりだと思っていたのです。H先輩は黙って俯いていました。視線は眼下の闇に注がれています。やめて。こっちを向いて。H先輩は私を目に入れてはくれなかったけれど、私の声だけは拾ってくれている気配がありました。H先輩がどういう気持ちで私の話を聞いていたのかわかりません。とにかく、先輩に不思議がられても不審がられても、私には話続ける義務があったのです。

H先輩はしばらく無言でしたが、話が舞台や演技から離れて、演目作品自体の話になったとき、初めて視線が合いました。

私はここぞとばかりに尋ねました。この作品で一番好きな台詞は何ですか。

私はたしかにH先輩に尋ねたはずです。でも、暗闇の中で返ってきたのは、H先輩の声ではありませんでした。


 

「あの男の目に触れられるのさえ、あんなに厭わしく呪ったあとで、どうしてそこまで、この男を求めることができるのか。お前を詰るこの男は、あの男の欲望を侮蔑したお前と、いったいどこが違っただろうか。

お前は知っていたはずだ、欲望の目で蹂躙される汚らわしさを。檻の中の非力な女の苦しみを。

それを今度はこの男に与えるというのか。さすれば、お前はもう、お前自身を憐れみ、そして嘆くことは許されない。これからお前はあの男に、いや、それよりも醜悪な者になろうというのだから」


――さあ、その唇に口づけをしよう。




それは、狂おしい歓喜の渦であり、恋と傲慢と処女であり、呪わしい血の滴りでもありました。言葉と言葉の間の空白は、声なき声、私はその一瞬、美しい女の悦びと呪詛を聞いたのです。間違いなくH先輩の唇から紡がれた、それは叫びでした。

H先輩がどんな顔をしているかわかりません。演劇科に入ったばかりの私は、H先輩の舞台を見たことがありませんでした。人間の存在が迫ってくる、果たしてそれは演技と呼べるものだったでしょうか。

H先輩の謎を見つけた、そう思いました。みんなが解きたいと、答えをしりたいと願ってやまない、その人の本当の姿を私は見つけたのだと。

しかし、それは見回りの警備員が屋上の扉を開けた瞬間、霧のように消えていってしまったのです。

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