一夜のキリトリセン~リトル・チャレンジャー~

猫柳蝉丸

本編

「ねえ、お兄ちゃん、今日もいい?」

 お気に入りの桃色の枕を抱えてのりえがまた僕の部屋にやって来た。

 今日で三日連続だ。

 流石に続き過ぎだと思わなくもないけれど、僕は苦笑してのりえを招き入れる。

 何だかんだとのりえは大切な妹なんだ。

 七歳で、髪が長くて、華奢で、臆病でよく泣いているのりえ。

 今だって目尻に涙を浮かべて小動物みたいに震えてる。

 本当に、本当に弱々しい僕の妹。

「いいよ、おいで、のりえ」

「ありがとう、お兄ちゃん……」

 言い様、あっという間も無くのりえが僕の布団の中に滑り込む。

 そろそろ暑くなる時期だから少し寝苦しいけれど、大切な妹の為だ。僕は軽く嘆息してからのりえに続いて自分の布団に寝転がった。そのまま電灯を手元のリモコンで消そうとすると、涙目ののりえが僕の手首を掴んだ。

「まだ、怖いのかい?」

「うん、こわい……、こわいに決まってるよ、夜なんて……」

「大丈夫、怖がる必要なんてないんだよ、夜は単に夜だ。目に見えないものを不安に思ってしまうだけなんだ。目に見えるものの方がずっと怖いし脅威にもなる。それくらいのりえだって分かってるだろう?」

「分かってるよ……、分かってるけど……」

 のりえの震えは止まらない。声も掠れているみたいだった。

 僕の手首を掴んでいるのりえの腕に視線を下ろしてみる。

 湿布、包帯、青痣、切り傷、見るからに痛ましい姿に僕の胸まで痛んでくる。

 本当は抱き締めて慰めてのりえを安心させてやりたい。そんな気持ちは当然ある。

 けれど、そういうわけにもいかないのだった。

 手助けこそしてあげられるけれど、この問題の根本はのりえ自身が解決しなければならない事なのだから。僕の感傷でのりえを余計に迷わせてしまっては、これから先に取り返しのつかない事態を招いてしまうだけだ。

 僕はのりえの頭に手のひらを置いて軽く撫でてみせる。

 のりえの子供の体温が温かかった。

「のりえ、僕はおまえを尊敬してるよ」

「そんけいって、お兄ちゃん……?」

「のりえはずっとこの小さな身体で頑張ってる。こんなに傷だらけになっても、辛くて苦しい事があっても頑張ってるじゃないか。それはとても凄い事なんだよ、のりえ。本当の気持ちを言うと、僕がのりえの辛さを肩代わりしてやれたらっていつも思ってるんだ」

「でも、お兄ちゃん、それは……」

「ああ、そうだな、そんな事出来ないのは僕も分かってる。のりえだって分かってる。だから、頑張るしかないんだ、のりえが。のりえ自身の力で乗り越えなきゃいけない事なんだよ。それは今まで何度も話してきた事だよね?」

「うん……」

「夜の闇を恐れる必要なんてないんだ。闇は人の心を不安にさせるだけで何もしやしないんだから。それよりも目に見えるものの方がずっと恐ろしい。闇を無意味に恐れているよりは、目に見えるものの対処法を考えた方がいい」

「で、でも、どうしたらいいの? のりえ、どうしたらいいか分からないよ……」

 また腕の傷を作ってしまった時の事を思い出しているのだろう。のりえが布団全体を揺らすほどに震え始めた。怯えているのりえ、弱々しいのりえ、その姿に僕の決心は揺らいでしまいそうになる。だけど、それは駄目なんだ。僕は深呼吸してからのりえの頭をもう一度軽く撫でてやった。

「僕の目を見るんだ、のりえ」

「えっ……?」

「いいから、見るんだ」

「う、うん……、これでいいの?」

 僕とのりえの視線が交錯する。

 その直後、僕がのりえにデコピンしようとすると、のりえの両手に遮られた。

 良い反応だった。

「な、何するの、お兄ちゃん……?」

「それだよ、のりえ」

「それ、って……?」

「逆に訊くよ、のりえ。おまえは今どうして僕のデコピンに反応出来たんだ?」

「それはお兄ちゃんがいじわるな顔してたから……」

「そうだな、意地悪な顔をしてた。それは僕の目を見てたから分かった事だろう?」

「あっ……」

「怖いのは分かる。怯えてしまうのだって分かる。でもな、のりえ、それじゃ駄目なんだ。怖さと向き合って、怯えを自覚して、それでもしっかり自分の目で見届ける必要があるんだ。思えば今まで心構えばかりおまえに説いてた気がするな。ごめん、のりえ。もっと単純な事からおまえに教えてあげるべきだった」

「お兄ちゃん……」

「僕の方こそ怖かったのかもしれないな。僕も心の問題から目を逸らしてたんだ」

「でも、それはお兄ちゃんのせいじゃなくて……」

「のりえのせいでもない。これは誰のせいでもないんだ。だから、二人で乗り越えて行こう、のりえ。二人きりの兄妹なんだもんな、この問題から目を逸らさずに向き合おう」

「いいの……?」

「嫌だと言っても付いていくよ、のりえ。あの時の姿を僕に見られたくないのは僕も分かってる。だから、僕も気後れしておまえの姿を見届けられなかった。でも、そんな言い訳で逃げてちゃ駄目だって、おまえの傷付いた腕を見て思わされたよ。僕じゃそんなに役に立てないかもしれないけど、見届けさせてほしい」

「お兄ちゃん……!」

 のりえが僕の胸の中に飛び込んで来る。

 柔らかくて温かなのりえ。失ってはいけない、失ってなるものか、と強く思う。

 僕の胸の中で囁く様にのりえが言った。

「いいの、お兄ちゃん……? あの時ののりえ、変だよ?」

「構わない」

「のりえのこと、きらいになっちゃわない?」

「ならない。僕の方こそ、見届ける事しか出来そうにないけど、ごめんな」

「ううん、うれしい……、すっごく勇気がわいてくるよ、お兄ちゃん……!」

「よかった。これまで技術しか教えられなかったものな。今度は心を教える。いや、二人で心の強さを学んでいこう。そうすればきっと乗り越えて行けるよ、のりえ」

「うんっ!」

 強く頷くのりえ。

 けれど、数瞬後には妙に痙攣し始めた。

 震えとはまた違う痙攣……、これは、もじもじしているのか?

「ねえ、お兄ちゃん……?」

「どうしたんだのりえ、お腹でも痛いのか?」

「ち、ちがうよ。あのね、明日からはふたりでがんばるんだよね?」

「ああ、僕も勇気を持って見届けるよ」

「だ、だったら……」

「何だ?」

「のりえ、もうちょっとだけ、勇気がほしいな」

「勇気……?」

「うん、勇気……」

 言うと、のりえは僕の胸の中で瞳を閉じて唇を尖らせた。

 こんな事をしていいものなのかは分からない。

 けれどこれがのりえの勇気に繋がるのなら、僕だってやぶさかじゃない。

 僕は鼓動が強まるのを感じながら、のりえの尖らせた唇に自分のそれを重ねた。



     ●



 のりえの通う小学校の裏山。人気の無いちょっとした洞窟の入口付近。

 僕とのりえは正装である袴に着替えて奴等を待ち構えていた。

 もうすぐ逢魔が時。昼と夜の狭間、奴等の活動が活発になる時間になる。

「来たよ、お兄ちゃん」

 昨夜の弱々しい様子が嘘の様に逞しい表情となったのりえが呟く。

 いや、これこそがのりえのもう一つにして真の姿、退魔師新堂のりえの勇姿だった。

 のりえの言葉通り、遥か昔何者かに封印されたらしい怪異が洞窟に像を結んだ。

 どうやら近所の子供達が洞窟の中で遊んでいる内、不意に結界を壊してしまったらしい。

 臓物を散りばめ、手足だけで十本を下らない数を生やしているそのグロテスクな姿の怪異。残念ながら母の退魔師の血を濃く継がなかった僕だけれど、怪異の姿くらいは視認する事が出来る。何度見てもグロテスクな怪異の様相に吐き気まで込み上げて来そうだ。

 しかし、吐いたり逃げたりするわけにもいかなかった。

 のりえは怪異のグロテスクな姿を目の前にしても一切動じていない。この洞窟から怪異を解き放ってしまったら一般人にどれほどの被害が出るか分かったものではない。だから、のりえは逃げない。僕達の母の退魔師の血を色濃く引き継いだのりえだからこそ、自らの遂行すべき使命を強く理解しているのだ。

「急急如律令!」

 のりえの右手に握られた木刀に退魔の力が込められていく。

 これまでは怪異を痛め付ける事しか出来なかった未熟な力。

 双方痛み分けで長く着けられなかった決着。

 しかし、僕と共に勇気を持って進む事を決心したのりえならば、必ず……!

「今だ、のりえ!」

 僕の叫びに軽く頷いたかと思うと、一瞬後にのりえは怪異に飛び掛かっていた。

「勅! 勅! 勅!」

 呼吸、歩法、姿勢、どれも今は亡き母から教えられたものと寸分の違いも無い。

 奔流する膨大な退魔の力。

 輝き。

 震動。

 轟音。

 気が付いた時には怪異は完全消滅していた。

「『霧鳥閃』……。見事だ、のりえ」

 新藤流退魔術奥義、霧鳥閃。

 霧を晴らす鳥の羽ばたきの如きその一閃で、のりえは怪異を清め祓ったのだ。

「やった……!」

 木刀をその場に落としたのりえが涙ながらの歓声を挙げる。

 まったく、本当に泣き虫で臆病な妹だ。

 でも、まあ、いいよな。

 僕だってのりえの活躍が嬉しくて涙を流してしまっているんだから。

「やったよ、お兄ちゃん……!」

 大泣きしながら僕の胸の中に飛び込んで来るのりえ。

 もう我慢する事も無い。僕も大きく腕を開いて胸の中にのりえを迎え入れた。

「やった……! やったよ……! やれたよおっ……!」

「ああ……! やったな、のりえ……!」

 僕の中で泣きじゃくるのりえを力一杯抱き締める。

 これから先、怪異との戦いはまだまだ続くだろう。

 それでものりえと二人一緒なら、きっと乗り越えて行けるはずだ。

 見ててくれ、父さん、母さん。僕達、絶対怪異になんか負けないから……!

 そう思いながら僕はのりえの涙を拭い、深く深く決心するのだった。






 僕達の戦いはこれからだ!

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