2019/08/21(水)
日本を出てから、忙しくてものを書く時間も本を読む時間もない。村上春樹の『海辺のカフカ』は一応持って来たのだが、一ページも読み進んでいない。この小説を前回読んだときには、上巻の終わりから下巻にかけて、ぐいぐい読まされるドライブ感みたいなものを強く感じたのだが、今ちょうどそこで止まっている。早く続きを読みたい気持ちはあるが、旅先ではなくもっと落ち着いた状態で読みたい気持ちもある。
今日は小説や人間の「中身がある」というのはどういうことか考えてみたい。まずそれが情報量が多いということでないのは確かであって、いくら文字数が多くても、いくら知識が豊富でも、中身のない小説や人というのはたくさん存在する。結局のところ、中身の有無というのはその小説の一文やその人の発する一言に対して、われわれがどれだけ深くものを考えさせられるかによるのではないだろうか。われわれはみな人間として物質的にはあまり変わらない成分と構造を持っているし、本も大体において紙とインクの集合であることには変わりがないから、人と人、小説と小説のあいだで違いがあるとすれば、それはその物質的性質によるのではなくて、それを観測する人の判断によるところが大きいだろう、ということだ。しかし一文とか一言とか書いたが、そうした部分だけで全体の中身の有無を判断できるかどうかは微妙な気もする。いくら中身のある人でも自分の不得意な分野ではバカみたいな発言をすることがあるし、そうでなくてもおやじギャグの一つや二つ言うこともあるだろう。小説にしても、そこだけ切り取ると間抜けな感じになってしまう一文というのは大体どの小説にもあるような気がする。しかしとにかく、今書いたことが正しければ、ある小説や人の中身があることを確かめるには、確かめる人の方にある程度の判断力が必要となる。この判断力というのもわれわれの中身の一部分であるような気がして、そうすると中身のない人を前にしてはいくら中身のあるなしの話をしても意味がないことになる。もちろん中身があることは正義ではないし、マジョリティでもないかもしれない。しかし多少なりとも中身を持っている人は、自分よりも中身のある人に尊敬の念を抱くのが自然だろう。長くなったので今日はここで書くのをやめる。
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