2019/08/07(水)

 昨日小説ドリルで公開した「河野」は、最後の一文で投げてしまった。大学三年のある日から見た「昨日」のことを書き進めていって、いきなり卒業後に時間が飛ぶのは無理がある。「今日」とか「昨日」とかいう語を地の文で使ってしまうと、その後の「今」を未来に飛ばすのが難しくなるのだ。「昨日」という書き出しにこだわったのでこういうことになってしまった。今思いついたのだが、卒業後に時間を飛ばす前に、大学三年時の「今日」、一日中昨日と同じベンチに座って河野の姿を探したが見つからなかった、などと書いたらもう少し繋がりが自然になるだろう。

 それから、昨日と一昨日の「雑感」では、異なる二つの問題をごちゃ混ぜにして書いてしまった感じがあるので、もう一度整理しておく。二つの問題というのは、次のような命題それぞれの真偽を問うことである。


①すべての事象は、必ずある原因によって起こり、原因は結果より時間的に必ず先行する。

②文章に出来事の記述があるとき、出来事の起こる順番は文章に示されている通りである。


 ①は因果律と呼ばれる。少なくともわれわれの日常生活においては、これは間違いなく成り立つようである。昨日の「雑感」で学者の研究のあり方はひらめきが先行していて因果に対して厳密ではないと書いたが、ひらめき自体にもやはり原因があるはずで、それがまたその後の研究の原因になっていると考えると、別に因果律が破れているわけではないことがわかる。

 問題は②の方だ。ここで「文章に示されている通り」の順番とは、文字通りの順番ではなくて、文章が示す時系列に沿って並び替えた上での順番である。つまり、回想に入ったらその部分は過去だ、とかそういうことである。「プラネット・テレックス」では最後に書かれた部分で起きたことは実は無意識のうちにそれより前に起きていた、というようなことを一昨日の「雑感」で書いたけれど、これが②の反例になるかというと怪しい気もする。そもそも人は無意識を自覚することができないから、少なくとも一人称の小説や日記には無意識で考えたことを書くことができない。そういうことについては、結局読み手が行間を埋めるしかないのではないか。

 こうして、おそらく①も②も正しい、という、つまらない結論に達したわけだが、何か違和感がある。小説の中でこれらが破れているのを、私は目の当たりにしたことがあるような気がするのだが、うまく思い出せない。

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