第10話 お宅訪問③

「帰ったぞ」


 話が盛り上がっているとき、玄関のドアが開いた音がして、声が聞こえた。


「宏明さんだ。ルイくん、さくらさん、ちょっと待っていてね」


 美咲は急いで立ち上がって玄関へと向かった。類とあおいにあやされて、ふたごちゃんはごきげん。美咲の後追いはしなかった。


「……ダンナさん?」


 類は不審そうにさくらに聞いた。口論がはじまったからだ。


「うん。だんなさん、美咲さんに仕事を辞めてもらって、家庭に入ってほしいんだって。美咲さんの会社も私たちのことも、気に入らないみたい」

「まあ、子どもが小さいし、しかもふたごだし。ダンナさんの気持ちも分かるよ。そろそろ、おいとましよっか。帰ろ」

「そうだね。あんまり長くなると」


「あおい、帰るよ。お片づけして。おうちで、ぱぱとままとごはんを食べようね」


 類が来てくれて助かった。あおいは類の言うことならば素直によく聞く。


「……ん!」


 遊び足りないらしく、ちょっと不満そうだったが、あおいは頷いた。


「今度はあおいのおうちに来てもらおうね」

「あい!」


 散らかっているおもちゃを拾い、もとあった場所に片づけはじめた。働くあおいの背中を見て、ふたごちゃんも続く。


「あおいは、いいお姉さんになりそうで、楽しみ。今夜もがんばろうね♡」

「……そ、そうだね。がんばろうか」

「楽しみすぎるよ! 先に、キスだけ今」

「ここ、人の家だって」


 柴崎夫婦は安定のらぶらぶだが、玄関先では美咲夫婦がまだなにかを揉めている。聞きたくないけれど、聞こえてしまう。


「まだいるのか、図々しいな。早く帰ってもらえ!」

「そろそろ終わります。さくらさんには、お迎えもいらしたし」


「男ものの靴が増えている」

「さくらさんのだんなさまは、社長の息子さん。『北澤ルイ』さんなの」

「『北澤ルイ』? タレントかなんかの?」

「そう。春で芸能活動は引退したんだけど、シバサキの息子さんなの。次期社長」


「は! 次期社長夫婦に媚へつらってまで、お前は今の仕事を続けたいのか?」

「違います、そんなんじゃありません」


 美咲は必死に宏明に反論しているが、夫は聞いてくれない。



「……ひどいね」

「うん。美咲さん、かわいそう」


「ぼく、ちょっと行ってくる」

「えっ、夫婦ケンカには口出ししないほうが」

「ぼくを誰だと思ってんの。『みんなのルイくん』だよ」


 さっと立ち上がると、類は行ってしまった。

 今でも、類は『柴崎類』と『北澤ルイ』を使い分けている。うまいなあ、と感心するけれど、心が痛むときもある。


 子どもたちの様子を見ながら、さくらは玄関の会話にそっと耳を傾ける。

 類は自己紹介を、たぶん満面の笑顔で済ませ、そろそろ帰る旨を美咲の夫に伝えている。

 押しの強い類の態度に、美咲の夫はうろたえている様子。ごもごもと、ことばにならないような声しか聞こえない。こういう類の毅然としたところは、年下でも尊敬できる。


「ほら、さくらも荷物をまとめて」


 ものの一分で美咲の夫を言い負かし、リビングへ戻ってきた。類の後ろに美咲夫婦が続いている。


「あ……お、おじゃましました! 楽しかったです。次は、ぜひうちで」

「ありがとう、さくらさん」


 美咲は戸惑った顔をしていたけれど、笑顔を作って答えてくれた。

 やっぱり、ダンナさんは、シバサキの人間と付き合うのは反対なんだろう。


 類があおいを呼ぶ。だっこされて、先に玄関へ。

 さくらはもう一度、美咲の夫に頭を下げた。


「ありがとうございました。失礼します」


 返事はなかった。さくらのほうを見ようともしない、完全無視。残念だが、世の中にはいろんな人がいる。さくらは類とあおいを追いかけた。


「……ごめんね、さくらさん。いやな思いをさせてしまって」


 再び玄関まで出てきた美咲が、さくらに謝罪した。


「いいえ。私、おうちにいるの、ちょっと長かったですね。せっかくのお休みでしたし、ダンナさんも家族だけで過ごしたかったですよね」

「さくらさん……」

「そろそろ行こう、さくら。これ以上いたら、このあと、美咲さんがあの堅物夫に叱られる。美咲さん、おじゃましました。次は、うちに来てね」


 促されて、さくらは美咲に手を振った。笑顔で。


***


 いろんな夫婦の形がある。

 さくらと類のように、終始べったりでらぶらぶな関係もあれば、涼一と聡子のように、人生中盤からはじまる夫婦もいる。


 夫婦とはいえ、生まれも育ちも違う人間。すれ違って当然。

 美咲と宏明も、心の根底ではつながっている。つながりたいと思い、信じているはずだ。


 笹塚駅を過ぎた京王線は、終点の新宿駅に向かって長いトンネルの中に入った。さくらの浮かない顔が、暗い窓ガラスに映っている。


 車内では、類を見かけた乗客に『あれ、北澤ルイじゃない?』『だっこしているの、お子さん?』と指摘され、噂がじわじわと広がっている。新宿駅到着まであと二分。早く、家に帰りたい。



 その夜。

 あおいは、ぱぱの類が言うこと……『早く寝るとふたごちゃんが来る』を鵜呑みにして、さっさとひとりで寝てしまった。

 ひとりで寝るなんて、はじめてのことだったので、さくらも類も驚いた。素直で、ほんとうにかわいい。


 でも、さくらには、甘くて長ーい夜が待っていた。

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