夏バテ

影宮さつき

第1話


学部四年生。3年までにどうにかこうにかして単位を取りきり、

世間はまだ夏休みに入ってすらいないのに、こう呑気に家にいるわけである。因みにこうやって研究室に向かわない学生の事を専門用語で「見ん見んゼミ」と言うらしいが、私には知ったことではない。

「だっる…」

冷房「強」の部屋にいるにも関わらず、自分の身体にはなんとも言えぬ微睡みが、脱力感がまとわりついていて、何をする気にもさせてこない。

「喰わなきゃなそろそろ…」

帰り際に買ったうな重は帰宅直後…もう2、30分前になるだろう…その時に既に開けた。だがしかしそこから手が、口が、体が動かない。自分の腹が「それは食べ切れない」と言わんばかりに満腹を脳に伝えてくる。今日起きてからスナック菓子1袋しか平らげた覚えはないのだが、どうやら意識よりも先に内蔵にバテが来ているらしい。困ったものである。

何気なくテレビをつける。ちまたではテレビから国民を守る党だかなんだかが暴れているらしいが、私はあいにく参政権を放棄している身なのであまり関心がない。人権擁護だの概念的なものを打ち立ててくれるくらいならこの気温と蒸し暑さをどうにかしてくれる政策に真剣になってほしいものだ…とそう思う中、いきなり画面が切り替わり現れた一本の緊急ニュースが、全ての考えをエポケーさせた。


「うなぎ、絶滅」


なんだかだんだん水気を失っているそれが突然神々しいものに思えてきた。何故ならこれは人類が最後に食べるうな重の権利が自分に渡ってきたということに他ならないからである。そんなことに運を使いたくなかった。どうせなら避暑地に永住する権利とかそういうものの方がよっぽど欲しかった。この奇跡誰か交換してくれねえかな。

いやだが実際どうなのだ。多分官房長官あたりは発表前から情報を掴んでいるわけで、そうなると混乱の前に超高級料亭とかのそれを事前に予約しているのではないか。いくら昼食をカツカレー、夕飯を居酒屋で済ませている庶民派の首相がいる国と言えども、こういった日の晩餐まで庶民派だとは思いたくない。だいたい街中が荒れに荒れているだろう今、下手に高級料亭に向かうこと以外の行動をとることの方が危険だと思われるが…

そういえば帰り道にレジ袋から透けて見える形でうな重を持って帰っていたあのOLは無事に帰宅できたのだろうか。途中で暴徒に襲われていないことを願うばかりである。ちなみに私はたまたまマイバッグ持参だったので命拾いしたのかもしれない。どちらにせよ匂いを隠せていないのであと1時間向かうのが遅ければ命は無かったと思われる、いやその場合無くなっていたのは自分の命ではなくうな重では…?

そんなこんなを考えながら、食べた。テレビでは今回の発表に至る経緯と、段階的に行なったところで捕獲制限を守ろうとはしないといった諦念が語られていた。


美味い。それだけ。

感動とかそう言った類のものはない。ただ、これを次に味わうことは永遠にないのだなあという「情報」が味に乗っかってくる。だからといってなんの旨味にもならないが。じっくり食べるとか、味わって食べるとか、そういうこともエネルギー使いそうなのでやめた。


食べきった。そこに残ったものは微妙に使い切れなかった山椒だけだった。

テレビから流れてくるニュースでは、残されたうなぎを求めて暴徒と化しつつある人々の姿がひたすらに映されていた。


そこから数週間。

確かに時は流れたはずだが、太陽と私にはなんの変化もなかった。一般的には秋と呼ばれる暦に入ってもまるで日の勢いは収まることなく連日記録的猛暑が続き、そして私も家を出ることなく、論文は一向に進まない。図書館で本を借りることすら億劫である。だいたい全文書データのデジタル化など、society3.0くらいで済ませておいて欲しかったものだが…

しかし、この星の生態系にはどうやら大変動が起きているらしい。うなぎの絶滅をもろに受けていたのは官僚や企業のトップだった。企業では突然有給休暇の日数が増加したり、会議がスピード化したり、書類が簡略化されたりしだした。ロストジェネレーションの企業戦士が数十年かけてすら全く動かなかったような慣習が、たかだか一生物の絶滅で何もかも変化していった。そもそも、ブラック企業に耐えられるサイボーグのような人間がなぜ存在していたのか、そしてそう言った人間はなぜ上位層にしか存在しないのか。従来はそのような人間がのし上がるだけである、という考え方が定説だった。しかし今回の絶滅ではっきりしたのは、上位層のタフネスは単にうなぎに維持されていたに過ぎない、という身も蓋もない結論であった。要するに重役はうなぎが無くなり自分たちが耐えられなくなったので、耐えられるレベルまで仕事側を楽にした、ということである。

日本政府はうなぎに代わる代替食品に関する知見を全世界から募集すると発表。そして有効な知見が得られない場合の対応措置の為に、再軍備を進めていくと宣言した。再軍備と聞くと何やら不穏なムードが漂うが、どうやらこの熱気の外ではうなぎ切れで暴徒と化した自称ヴィーガンや市民による大量殺人事件などの影響でもはや軍備以外の道はないと「何条の会」だったかが言ってるくらいらしい。化けの皮、メンツより実を取らないとこの先生きのこれないという判断のようだ。


そこから数週間。

あの時から、たったひとつの島国の、単一民族の手によって何十種の生物が絶滅という結末を迎えただろうか。Pangasius sanitwongsei、Trimeresurus flavoviridis、これらの名を持つ生物はもはや、恐竜やドードーと同じ、歴史上だけの存在になってしまった。世界中からさまざまなうなぎの代案は確かに寄せられた。しかしその何一つとして彼らの心を満たすものはなかった。暴徒と化した日本人は、うなぎの代替を求め世界中のありとあらゆる生物を手当たり次第捕食、候補が見つかり次第安定供給の為に侵略戦争に乗り出すなどもはやなりふり構わない状態になっていた。殆どの生物はその侵略の過程、主に環境破壊で絶滅を迎えているのだが、うなぎを失って暴徒と化している高級官僚や自衛隊、そして国民にその声が届くことは無いだろう。実際絶滅に至るまでの間の候補の食品消費量の伸びにも凄まじいものがあったのは事実であるのだから。海外ではこの現象に対して「レッドリストの赤は日の丸の赤だ」などと揶揄されているらしい。この深刻な状況に対して国連も「平和の為の結集」決議が採択。食用の捕鯨についても当分許可すると発表したものの、日本人に対する効果は限定的にとどまりむしろ欧米諸国の乱獲によりほぼ全ての種が絶滅した。さらに米国では「うな次郎」開発者の亡命受け入れを機に、マッカーサーが平和憲法を制定した背景にはうなぎの存在が念頭に置かれており、うなぎが枯渇した場合は憲法が破綻しかねない状況になりかねない事に懸念を抱いていたことを公表。核攻撃については各国「それでうなぎが復活するわけでない以上、意味が無い」という共通認識で使用を断念。中東各国も、「我々は気づかぬうちに、石油よりも世界のバランス維持に貢献していたものを蔑ろにし枯渇させてしまった」との声明を発表。列強各国との融和路線を急速に進めていくことを示唆するなど、あくまで敵国ではなく、人類共通の越えるべき災厄と、そう言った扱いを受けているようである。


またさらに数週間後。

本来なら秋晴れとかそういった形容すらもう昔ぐらいになる暦だが、未だに酷暑は収まる気配はない。しかもどうやら日本だけ。私は相変わらず外に出ない。通販の荷物もだんだん届かないことの方が多くなってきた。どうやら配達員が志願兵やら熱中症やらでどんどん減っているらしく、もはや年収1000万円でも雇用が足りていない状況らしい。しかし、いくら金があったところでもううなぎには変えられない。米国ではうな次郎チーム指揮の元、国を挙げてよりうなぎに近い代用品の開発に望んでいるようだが、やはり原材料に一滴でもうなぎエキスを配合していないことが味のネックになっているらしく、米国議会は連日その解決策について議論が紛糾していた。

しかし、ここ最近の日本は国際社会のそういった懸念や畏怖とは裏腹に、目立った侵略や絶滅活動を行なっている様子はなかった。

軍隊というのは基本的に国民の期待があって初めて動き出すものである。つまり国民側の大多数の問題が解決したと思われた時、たとえ彼ら自身にある程度の不満が残っていても動かないのだ。


そして、多くの国民の問題…つまりはうなぎ不足に対してのウルトラC…どうやらそれはこんなご時世の中、学部生が冷房ガンガンの部屋で呑気に書き上げた卒業狙いの紀要論文のようだったが…


「夏バテ防止にはショタを食べるといい」

その夏バテしたけど締め切りだけには間に合うように無理矢理作ったであろう論文の表題に、私は一瞬いや割と長時間目を疑った。

しかし社会はこれを間に受けて、そしてこの論文の通りの現象が発生している。

「世界ごと夏バテしてない?」

相変わらず何も考える気は起きないが、そんな疑念が頭によぎった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る