ビビとゾーイ
「こんにちは、いいお天気ですね」
この街の案内所でコンシェルジュを務めるちょっぴりぽよんとした体のサビ猫、ビビが声をかけた途端、街の広場の真ん中にある噴水の縁に腰かけていた女の人―チョコレート色の大きな犬―は顔を上げました。
シトリン色の瞳が、その女の人のとび色の瞳とぴったり合った瞬間、彼女はちょっぴり驚きました。
その長い、こげ茶の髪の毛は汚らしく縺れて束になり、余り近づくと臭ってきそうです。
若草物語あたりに出てきそうな古いコットンのドレスを着ているのですがそれも所々かぎざきができて、そこから糸が垂れ下がっています。美しかったであろう手は小さなかすり傷だらけでかすかに血が滲み、剥げちょろけた革のハンドバッグをしっかりと握っています。まさに尾羽打ち枯らした様子でした。
そんな惨めな状態なのに、その女の人の目は、奇妙な、と言っていいほど明るく、善良さに輝いていました。
「あら、こんにちは、つやつやのきれいな猫さん」
汚れっぷりに似合わない優雅さで答えると彼女はにこ、と微笑みました。
ビビは人の世界にあっても、そしてこの街へ来た後も、毛色のせいかきれいだと言われたことがなく、この犬の言葉をとてもこそばゆく思いました。でも悪い気はしません。彼女はちょっと咳払いしてグレーの制服の襟に手をやった後、自分の職務に忠実であるべくこの犬に訊ねました。
「この街は初めてでしょ? 案内しようか?」
彼女はふふ、と笑いました。
「ご親切なお申し出はうれしいのですけど、ごめんなさい。私、少し疲れてしまってここでほんのちょっと休みたいのです」
「よかったら私のボスのところでお茶でもいかが? ここよりずっとゆっくり休めるよ」
「私は犬なのですけど、猫さんは私が怖くありませんの? ご迷惑でしょうに」
ビビはこの、世相に逆らうような出で立ちで放浪中の犬に、行く当てなどどこにもないことを見抜いていました。
「大丈夫。どんな動物も関係なく、私たちはあなたを歓迎するよ」
そうしてやってきたのは、この街の役所です。
ビビが働くこの街の案内所は、役所の生活環境部が設置しているのです。
お茶、とはいえ役場の応接室で粗茶を出す程度のことで茶菓子など何もなく、ビビはお腹を空かせているらしいこの犬に期待させてしまったことを少々心苦しく思いました。しかし、この街にやってくるものみんなに公金で菓子を振舞うわけにはいかないのです。彼女は気の毒に思いましたがどうしようもありません。
その犬はゾーイ、と名乗り、丁寧に礼を言って温かいカップに口をつけました。
もともとは目も明かぬうちに捨てられた子犬だったのですが、たまたま裕福な老婦人に拾われで何不自由ない生活をしてきたこと、数か月前飼い主を亡くし、その親族に「こんな大きな犬うちでは飼えない」と引き取りを拒まれ、住み慣れた家も売却されてしまったこと、これからの身の振り方に悩んではいないが困ってはいることを彼女は穏やかに語りました。
生活環境部長である三毛猫、キャリコはハシバミ色の目を細めて考え込む風でした。
「あのね、ゾーイちゃん」
ずいぶんと馴れ馴れしい口調です。この街に古くからいて役所で万年課長をやっているキャリコにとっては、この街にいるものもやって来るのものも家族みたいなものなのです。
「ゾーイ、とお呼びくださいな。ちゃん付けされるほどの年齢でもありませんもの」
ゾーイはやつれた頬に微笑を浮かべました。
「ふふ、私から見るとずいぶん若いわ。でもあなたがそうして欲しいならそうしましょうね」
「ありがとうございます」
「……この街の外れに、もう20年ほどだれも住んでいない小さな家があるんだけど、そこに住むというのはどうかしら」
「あら、賃借料はいかほどですの?」
「その家は誰のものでもないのよ」
ゾーイはきょとんとしました。
「では、普通はこの街が接収するものではございませんの?」
この犬は小難しいことを言い出しました。飼い主はこの犬をさまざまな法的交渉の場にも連れて行っていたようです。
キャリコはにこにこしました。
「ゾーイ、ここはね、私たちの街なの。細かい決まりごとは忘れてもいいのよ」
空のカップに目を落とし、犬はその言葉を
「では、私は何のお支払いもなしにその家に住んでよろしいのでしょうか?」
「もし持ち主がいるなら家賃を払わなければいけないけれど、そこなら無料よ。ただ、あの家は建物自体はしっかりしてるけれど
「自然たっぷりのお家ということですわね」
ゾーイは少なからず興味を持ったようです。
「傷んではいるけれど家具もそのままだし、次にあなたが本当に住みたい家を見つけるまでの仮住まいと考えてもいいんじゃないかと思うんだけれど」
「素敵。ぜひ拝見したいですわ」
「じゃあ、ビビに案内させましょう」
その家は頑丈な作りでしたが、古い上ひどい荒れようでした。
それでもゾーイはそこがとても気に入りました。
彼女が
その宝石の一つ一つが大変高価なものです。
大事な思い出があるものだけを残して、ゾーイは涙ぐみながら、キラキラするものが大好きなカラスの宝石商に売りました。
そのお金で、彼女は大工、屋根の葺き替え職人を呼びました。さらに掃除道具や補修道具、ファブリックなどなどを買い込んで、出来るところは自分で塗り、貼り換えました。
犬として人間の世界にいた頃、使用人たちのしていることや出入りの工務店の人々の仕事を注意深く眺めていたことがこんなに役に立つとは。
人生、何も無駄になることってありませんわね、と大きな雑種犬は呟きました。
よれよれのドレスを着た女の人がそうやって作業していると、さすがに人目も引きます。
「変なかっこの汚い犬だ……」
「あの屋根にぺんぺん草生えた家に住むらしいぞ」
「喋り方も変だぞ」
そういう声が聞こえても、ゾーイは気にしませんでした。
新参者である自分がどんな風体でどんな行動をとっても、訝しく見えるだろうと思ったのです。
修繕や掃除で立った埃を追い出すために大きく開け放ったドアや窓から物見高い猫や鳥たちが覗いているのと目が合うと、ゾーイはにこやかに挨拶しました。
「ちょっと変ってはいるがいいひと」という評判へ落ち着くのに、そう時間はかかりませんでした。
ゾーイはほこりまみれのカーテンを洗って繕い、ソファカバーや椅子の座面を
キッチンは他の部屋より1ヤードほど下がった造りで、
ゾーイは煙突の
庭もなかなか素敵なのです。
たくさん
すみれや野菊を見つけると注意深く根元から掘り取って、荒れ放題の小さな花壇や大きな鉢に植え替えました。
夜は夜で、布の雑貨を縫い綴ります。何不自由ない暮らしで縫い物なんかしなくてもよいのに、田舎暮らしを懐かしみつつ眼鏡をかけて針を持っていた女主人を思い出しながら。
そうして一か月も経つと、近くの子どもが「お化けが出そう」と寄りつかなかった古い家は、昔の農家を
その変わりようには、久しぶりに街角でゾーイを見かけたビビが面食らって声をひっくり返したほどです。
「ゾーイさん?!」
「あらビビさんごきげんよう」
ゾーイは立ち止まって足元に大きな蓋付きバスケットを置きました。
ビビは呆気にとられた顔で彼女を見ています。
「どうかなさいまして?」
「……ずいぶん、きれいになっちゃって」
「お上手ですわね、ビビさん」
そのとび色の瞳だけは以前と変わらず明るく輝いています。
チョコレート色の尾がゆっくりと揺れています。気性のいい犬なので、とても喜んでいるのです。
「これもみなさんのおかげですわ。ちゃんとお食事ができて、お風呂に入れて、ベッドで眠れることに毎日感謝しておりますの」
「私たちはごく当たり前のことをしたまでだよ」
ゾーイはほほほ、と笑いました。
「『当たり前のこと』に誰も感謝しない社会なんて、私は寂しいですわ」
この街のコンシェルジュは、ふわりと心が温かくなりました。
「公僕にはありがたい言葉だよ……ところで、その籠、重そうだね。買い物帰り?」
ゾーイの尾がより高く揺れ始めました。
「最近、ポピさんのお店に私が作ったジャムや小物を委託販売で置いていただけることになりましたの! 今日はその納品ですのよ」
蓋を開けて見せたバスケットの中には、小さな繻子のポーチが5つと、くるみボタンや髪留めがたくさん、それに手書きのラベルが貼られたジャムやマーマレードの小瓶がいくつも詰められていました。
「たくさん木苺を取ってきて作りましたの。鼻が利くので、森へ行けば何かしらいいものが見つかりますわ。この間はキノコ狩りの穴場も見つけたんですのよ」
少々鼻を上向けながら、ゾーイは得意げです。
この、自分で編んだと見えるクロッシェレースの手袋をはめたゾーイの手は、台所や庭仕事に荒れ、森では木イチゴの茂みでつけた小さな傷だらけなのでしょう。
「これも森で採れたの?」
セロハンが貼られて中身が見える浅い箱に様々な色のすみれやマロウの花、ミントの葉などが霜のように大きな粒の砂糖を纏って並んでいるのを見つけ、ビビは訊ねました。
「これは森と、あとはうちの庭で採れたものですわ。砂糖漬けですの、可愛らしいでしょう?」
すみれの砂糖漬けと言えば、味自体は砂糖の甘みともともと素材の持つ香りだけですが、クリームの柔らかな鳥の子色やチョコのシックな茶色に紫のすみれの砂糖漬けを飾ると、この上なく気品のあるお菓子ができるのです。
「レオニさんのお店に持っていきますの。この間もほんの少しですけど持っていきましたら、お断りしましたのにお代を下さって、注文までいただきましたのよ」
ああ、このひとは大丈夫だ、とビビは思いました。
この犬はおっとりしているようで、自活能力はしっかりあるようです。
「あの家、この間前を通ったんだけどすっかり見違えたよ。仮住まいじゃなくて、ずっとあそこに住むんだよね?」
「ええ、あんなに頑張ったんですもの。近くにご用のときはぜひお寄りになって? パイやビスケットには自信がありますのよ」
「じゃあ、来月チャリティバザーを役所前のロータリーでやるから、そのときにお店を出したらどう? 今出店者募集中なんだ」
「まあ! 面白そうですわね」
頭の中でバザーの算段を始めたらしい楽しげなゾーイに、ビビはさらに幸せな気分になりたくてもう一つだけ訊ねました。
「この街は、気に入った?」
「ええ、もちろん!」
――ビビとゾーイの章、おしまい
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