叙の六 闇の住人に血の洗礼を ③


     ☆



 海とつながる厚岸湖――それを左手に見ながら大橋を渡ると、緑地公園やキャンプ場のある海岸線に出る。北斗大学水産研究所の厚岸庁舎は、そんな自然豊かな場所に立っていた。


 汽水湖である厚岸湖は、古くからカキの養殖が盛んな場所であったが、先の震災で大ダメージを負ってからは、ほぼ壊滅状態にあった。海産資源の枯渇は、それを生業としてきた小さな市町村では即、死活問題に繋がる。


 池神静は、海水に生息する魚介類を陸上で養殖を行う、『閉鎖循環式養殖システム』という方法を活用し、この地を再び活気のある町に復興させるため、二年ほど前からここに赴任していた。



 ’三六年〇四月一九日(約束の日まで、あと二〇六日)



 北都大学水産研究所の居住施設は、研究棟に隣接する管理棟の二階にあった。私服に着替えた織子は、研究棟に繋がる長い渡り廊下を通って階段を下りていく――彼女はその足で、池神静のいる研究室へと向かった。


「静ちゃん、シャワー借りるね?」


「ん……勝手に使いな」


「はーい」


 再び階段で二階の居住スペースに戻ると、寝室のとなりにあるシャワー室へと入って行った。


 織子は冷水を全身に浴びた……そうすることで、多少は気分がスッキリとする。けれど、今日はなかなか憂鬱さが晴れそうにない。排水溝の血だまりが、充分にそれを物語っていた。


「さすがに疲れたニャ……」


 暇さえあれば、織子はああして市内中を監視している。しかし、それもそろそろ限界に近い――正直いって、彼女の身体は満身創痍であった。インド人から受けた蛇攻撃の影響で、傷痕もかなり痛む。


 堕巫女は元々治癒力が高い。そうはいっても、モノには限界があるらしい……首や腕の傷口はすでに塞がってはいたが、痛みがすべて引いたわけではなかった。



 織子がシャワーを浴びている頃、静は研究室から二階のリビングに戻って来ていた。二十畳ほどの広さで、一人で使うにはかなり広い。


 仮住まいだからだろうか……室内は必要最低限の生活用品だけが置かれ、壁一面の本棚には専門書がびっしりと収まっている。殺風景で、生活感の微塵も感じられない部屋であった。


 静は脱いだ白衣を椅子に掛けると、朝食を作り始める。メニューは厚切りのトーストにベーコンエッグ、ポテトサラダ。暫くしてコーヒーの香ばしい香りが部屋に漂い始めると、織子がシャワー室から出てきた。


「静ちゃん、サンキューね」


「ん……もう、大丈夫なの?」


 静の問いに、軽く手を振って微笑む織子。


「うん、問題なしの絶好調!」


 キッチンではコーヒーメーカーがポコポコと音を立て、ダイニングテーブルには出来立ての朝食が並べられていく。


「おいしそう! 織子も食べていいの?」


「勿論、どうぞ召し上がれ……って、どうしたのよ、変に畏まって?」


「静ちゃんって、何気に女子力だけは高いよね?」


 言いながら、織子は食器を並べていく。


「それって、褒めてるの? それとも馬鹿にしてる?」


「んー……どっちも?」


 あー、そういえば……と、静は織子から一枚の紙きれを渡される。


「なに?」


「なんか、学校から……進路相談の日程? 三者面談ってやつかな」


 片手で眼鏡を外した静は、裸眼でその用紙を広げて眺める。


「でもあんた、進学とかしないでしょ?」


「うん……卒業したら、直ぐに『パパさん』を探しに行くつもり」


「そうよね? だったら、必要ないわよね? 三者面談なんて」


 そんな報告をするために、織子がわざわざ私の所へ来るはずがない。なにかしら、別の魂胆があるのだろう……と、静はそう悟った。


「それで? あんたがここに来た、本来の目的はなんなの?」


「あぁ、やっぱりバレてた? まあ、野暮用というか……」


 チンッ! という音と共に、古めのトースターから焼きあがった食パンが“ポン”と跳ね上がる。それを合図に、静は織子の台詞を遮った。


「まあ、それは後でおいおいね……まずは、食事が先よ」


「オリコも腹減った!」


 確信犯のくせに……静は思ったが、作った料理を誰かが食べてくれると、それなりに嬉しいものだ。そこにあったのは、ただの仮初め――そんなこと、重々承知した上でのを楽しむ二人の姿だった。


「「はい、いっただきまーす!」」


 二人はテーブルに着くなり、ものすごい勢いで朝食にがっついていく。



「ところで、『パパさん』のその後の足取りは……なんか連絡はあった?」


「それがここに来た目的? あの日以来、兄貴からの連絡はないわよ。ここはもう少し辛抱して、向こうからのリアクションを待ち続けるしかないわね」


「そうか……そうだよねぇ」


「心配なのはわかるけど……あんたは少し、落ち着きなさいよ。とりあえず今は、その怪我を治すことに専念した方がいいわ」


「うん、わかった。ありがとう、静ちゃん」


 本来、肌が見える場所へ無造作に巻かれた包帯が、静にはとても痛々しく見えた


「それじゃあ、下にいるから何かあったら声掛けなさい?」


 話があるのなら、後でちゃんと聞いてあげるから……そう言うと、朝食を終えて白衣を羽織った静は、再び研究室へと戻っていく。上機嫌な雰囲気が、リズミカルな足音からも伝わってきた。


「りょっス!」


 静ちゃんも、素直になれない性格だからニャ……ひと息つくと、織子はテーブルの食器を片付け始める。その時、下の階から窓ガラスの割れる音と、静の悲鳴にも似た怒鳴り声が聞こえてきた。



 のどかな漁港町は、池神静の叫び声をきっかけに、一瞬にして地獄絵図へと変わっていく。いつの間にか、おびただしい数の異形のモノたちが、その研究所周辺を取り囲んでいたのだった。


「なんなの! こいつら……」


 その奇怪ないで立ちは、獣とも人とも思えない姿でぴょんぴょんと飛び跳ねて施設へと向かって来る。


「奴ら、チュパカブラだ!」


 池神織子は、二階の窓から一目見るなりそう口走った。


「ヴァグザの連中、あんなものまで駆り出して……」


 パンを咥えたままの織子は、階段を駆け下りると急いで静の傍に向かった。獣の姿に変化すると、そのスピードも三倍に増していく。


「静ちゃん、直ぐにここを出よう! オリコが時間稼ぐから、とっとと身支度して!」


「どういうことなのよ! また、あんたのせいなの⁉」


 織子はなぜか、“グッ”とサムズアップすると舌を出して静に応える。チッと舌打ちした静は、二階に駆け上がってキャリーバッグを抱えて戻って来た。震災を経験した者は、いざという時のための準備は整っている。今回はそれが幸いした形だった。


 それを確認すると、織子は窓ガラスを突き破って外に出る。軽い身のこなしで鴨居や窓枠を伝い、屋根に上ると辺りを見渡す――敵勢の一番薄い箇所を確認していた。


「けっこういるニャ……ざっと見積もって五、六十匹くらいかニャ? まあ、オリコの相手にしては、ちょっと舐められたもんだけど……」


 軽口を叩く織子だったが、生身の静を連れての脱出を考えると、状況としては五分五分以下だった。奴らは前の海から崖を登って上陸して来ている。背面は湖……大橋を渡らないと、結界のある神威方面には抜けられない。


「けど……かなり、やばい状況かニャ?」


 その時、一台の真白な大型SUVハマーH3が、チュパカブラたちを蹴散らしながら猛スピードで駆けてくる。それを見つけると、織子は壊した窓から屋内に侵入しようとする化け物の背後に忍び寄り、その首を鋭い爪で搔き切った。血飛沫を浴びながら、一体また一体とその首を刈っていく織子。


「静ちゃん、準備はOK? 行くよ!」


「織子、これはあんたが持って行って」


 そう言って、静はマッチ箱のような小さな木箱を織子に渡す。


「兄貴からの大事な預かり物だから、絶対になくしたら駄目! わかった?」


 それを受け取ると、織子は無言でコクリと頷いた。



 チュパカブラ軍団の三分の一を蹴散らしたハマーは、研究所の出入り口に横付けすると、窓を開けて織子たちを誘導する。


「乗って! 早く!」


 それは、迷彩服に身を包んだ水縞みしま楓華ふうかであった。彼女はベレッタM93Rを手にすると、ストックを右肩にあてて窓越しに一体ずつ、今度は確実に倒していった。


 隙を見て車に滑り込む二人――乗った! の声に反応した楓華は、アクセルを一気に踏み込んでいく。



「今までずっと避けてきたようですが……今回ばかりは、すべてをはっきりとさせて頂きますよ、池神教授」


 神威市へと向かう車内で、池神静は水縞楓華に念を押された。


「あなた、『カミヤ観光』の……、か……そういうことね」


 すべてを理解した静は、織子の頭を“パシッ”と叩く――行き場のない、“もやっ”としたものが彼女をそうさせるのだった。

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