へんな人たち 2
なんで俺が謝られるんだ。
俺これ、重ねて謝るべきなのかそれともシラを切り通したほうがいいのかどっちなんだ。
オッサンは呆れたように笑いながら、続けて
「邪魔しちまって。どうせこいつが誘ったんだろ」
と言って、エリカさんの黒い髪を軽く撫でた。
「……、あの、」
……違います。
と、言うべきか言わざるべきか。
確かに邪魔は邪魔だが俺が言える立場じゃなさそうだしな、この状況。
俺が中腰で固まっていると、ちらりとこっちを見たエリカさんが、軽く笑ってこっそりとウインクをした。
「え、と……?」
それはどういう意味のウインクなんだシラを切る方向で合ってんのか。
「じゃあね、お兄さん。また会えたらいいね」
そうしてエリカさんはにっこりと笑い、ひらひらと俺に手を振って、酒の入ったレジ袋をオッサンに渡してから踵を返した。
オッサンまでがじゃあな、と軽く挨拶をしてくれるもんだから、俺も中腰のまま軽く頭を下げた。
二人がコンビニの敷地内から出ていくのを黙って見送ってから、やっとのことでまた尻を降ろす。
なんなんだ、今日。
呆気に取られたような気分で置き去りにしていた足元のペットボトルを見る。
まだわりと残ってる。
ぐびぐびと一息に全部飲み干してから、最後に大きく息を吐いて、もう一度腰を浮かした。
するとさっきの行為が原因の尻の違和感が戻ってくる。
尻の下辺りの筋肉がぷるぷる震えている気がする。
「うおお……やっべぇこれ」
そのままよたよた歩き、ゴミは分別。
「……しゃあねえ、帰るか」
慎二、居ませんように。
とろとろ歩いてボロアパートまで着くと、2階の自分ちにはまだ電気がついていた。
あーもう、どんな顔すればいいんだ。
そう思いながら極力音を立てないようにしてこっそりと玄関ドアを開けると、そこにあるはずの慎二の靴はなくなっていた。
帰ったか。
電気つけっぱなしかよ。
消してけっつーの、お前には節電の意識はないのか。
腹のなかで悪態を吐いても、まず一番にはほっとした。
きっちり施錠したのを確認してから、適当に靴を脱いで、ふらふらと部屋に入ると畳に敷きっぱなしの布団に飛び込む。
あーもう。
疲れた。
今日は一日が濃すぎた。
寝よう。もう寝よう。
この布団で寝るのちょっと嫌だけどもう仕方ない。
明日の朝起きれっかなあ。
開けたままの窓の外からは、薄いカーテンを揺らす緩い風と一緒に女の喘ぎ声がうっすら聞こえてくる。
時々こうして聞こえるんだ。
いつもならありがたく聞き耳立てるんだけど、流石に今日はもういいや。
明日寝坊しませんように。
おやすみ。
「あ、社長? ごめん俺今起きた。ごめん。10時には行くわ。うんごめん。じゃ」
くっそ寝坊したじゃねえかよ。
あれもこれも全部慎二のせいだ。
液晶画面にでかでかと主張する時計。
「9時じゃん」
やべえ。
ま、今日は確かまだ確定した仕事は入ってなかったはずだし、いいか。
社長も別に怒ってなかったしな。
朝飯コンビニで買ってこ。
ワンルームの部屋の中はいつも通りだ。
窓から風が入ってきてカーテンを揺らしている。
壁際の小さめのテレビはつける気にならない。
取り敢えず会社の作業着に着替えて、顔洗って歯みがきして、眩しすぎる朝日に向かって玄関ドアを開けた。
ボロいドアノブに鍵を閉めていると、ガチャリと右隣の部屋のドアが開いた。
そういや会ったことねえんだよな。
生活時間帯が違うんだろうけど、こんな時間からお出掛けとはどんな生活してんだか。
自分のことを棚上げにしてそう思いながら好奇心半分に隣のドアに目をやると、中から出てきたのは昨夜の厳ついオッサンだった。
髪は整えてるけど無精髭はそのまんま。
Tシャツにジーパンで、なんっつー楽そうな格好。
「戸締まりしとけよ」
オッサンが中に向かって声をかける。
「取るもんないわよー。あー、あとあたし今夜店に顔出しに……あれ?」
続けて出てきたのは、いかにも寝起きといわんばかりの装いの、昨夜のお姉さん、もといエリカさんだった。
昨日の服そのまんま。
「昨日のお兄さんじゃん」
まじか。
隣の部屋だったんか。
「おはようございます。隣だったんですね」
取り敢えず朝の挨拶。
おはよう、奇遇だね、と返したエリカさんの声は、昨夜聞いたよりももう少しだけ掠れていた。
「おう青年。おはよう。今から仕事か」
見た目にそぐわず笑顔の爽やかなオッサンだな。
何歳だろこの人。
結構年上に見える。
30代後半、40代かもしれない。
「ああ、はい、寝坊しちまって。そちらはお出掛けですかっていうか、なんかすいませんでした、昨日」
取り敢えずやっぱキスしたことは謝るべきかと思って軽く頭を下げると、二人はえ、なにが? とでも言いたそうにぽかんとした。
え、なにもう覚えてないわけ? この人ら。
「あ、もしかしてちゅーのこと? 全然気にしてないよ、ねえ陽平」
エリカさんが笑うとオッサンも軽くああ、と返す。
「あ、そっすか」
もうちょっと気にしてくれよ、と思わないでもなかったがまあいいか。
へんな人たちだ。
「っていうかね、ちょっと待って」
エリカさんは途端になにか考え込むようにして額に指をつけた。
昨日も思ったけど今明るいところで改めて見てつくづく思う。
すっげえ美人だな、この人。
っつーか俺仕事行きたいんだけどな。
「昨日の……お隣さん……」
ぶつぶつと呟くエリカさんに、オッサンもとい陽平さんは「あ!」とデカイ声を上げてエリカさんを見た。
次にはエリカさんまでが同じように「あああ!」とデカイ声を出して、それから2人同時に俺を見て指を指した。
「「昨日のケツ掘られてたほうだ!」」
「…………………………はい?」
今なんつったこの人ら。
顔の筋肉が愛想笑いを保ったままみるみる硬直していくのが自分でも分かる。
血の気が引く音が聞こえる気もする。
いや合ってる。
間違いないそれ俺。
なんで知ってんの。
ぎぎぎ、と頬がひきつる。
2人はとてもいい笑顔になった。
「お前ケツ大丈夫かよ」
「結構響いてたからねえ。だめよここボロアパートなんだから、窓閉めとかなくちゃ」
「色気も糞もねえ声だったけどなあ」
「聞いてるぶんには面白かったんだけどねえ」
固まってる俺を余所に二人はそこまで捲し立てて、とうとう先に陽平さんが声に出して笑いだした。
釣られてエリカさんも思い出したかのように吹き出す。
陽平さんなんか笑いすぎて噎せている。
俺は取り敢えず、なにも考えず尻のポケットに入れていたスマホを取り出してもう一度社長に電話をかけた。
「あ、社長? ごめん俺……今日もうだめだ……仕事いけねえ……」
図らずも涙声になりそうだったのでそれだけ言って電話を切った。
電話の向こうで社長ののんびりした声が、どうしたおーいとか言ってたけどシカトした。
ドアノブにもう一度鍵を差し込んで玄関を開ける。
指の感覚がない。
逃げ出したい。
なに? 窓?
窓開いてた?
……開いてたな。
誰が開けたんだっけ、慎二じゃねえかよ!
クソ慎二ぃぃぃ!
まじかよ響いてたって、どんだけ響いてたんだよ俺もう生きていけねえよ。
腹立たしいやら恥ずかしいやらでもうどうすればいいのか分からない。
取り敢えず次会ったとき慎二殴る。
っていうかこの人らもどんだけデリカシーないんだよ。
「あー笑った笑った。わりぃ俺ぼちぼち行くわ。じゃあな青年」
ひとしきり笑った陽平さんは涙で滲んだ目尻を雑に拭いながら、まだ肩を震わせつつ俺の背中を軽く叩いた。
それからカンカンと軽い音を立てて鉄骨の外階段を降り、そのまま歩いてどこかへ消えていった。
意図せずそれを呆けて眺めていると、背中側からエリカさんが俺に声をかけた。
「笑っちゃってごめんね。お兄さんお仕事サボリなの? じゃあちょっとあたしに付き合ってよ、あたし夜まで暇なんだ」
ばつが悪くてちらっとだけ後ろを振り返ると、お詫びに缶ビール奢ってあげるよ、と言って、エリカさんはまたウインクをした。
「最初ね、喧嘩してるのかと思ったの。凄い剣幕だったし、片方なんかすごく謝ってたし。でも聞いてたらなんだか様子が違ってきてたから、そのまま聞き耳立ててたら、ねえ」
エリカさんはまた苦笑して、敷きっぱなしの俺の布団の上でゆったりとその細い脚を伸ばしながら缶ビールを煽った。
俺も少し距離を取って、作業着のまま畳の上に座り込んで、いたたまれなさから同じように貰った缶に口をつける。
昼間から缶ビール開けるなんて初めてだ。
味も冷たさも、いつもよりもなんだか特別な感じがする。
動揺で気分がぐらぐら浮わついているからだろうか。
「なんで俺が、その、そっち、だと思ったんですか。逆かもしんねえじゃないですか」
「いやあないない」
完全否定。
エリカさんはさも愉快そうに手を顔の前で振った。
「声聞いてたら分かるって。それにあきらくんだっけ、昨日あたしに予想外の事態がとか言いたくないとか言ったじゃん。そりゃあ言いたくないわ」
ふは、とまた笑いを漏らしたエリカさんに、俺は堪らずそれはそれは大きな何度目かの溜め息を吐いた。
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