青い航路

王子

青い航路

 なんだっていいから書いちゃえばいい。

 そうやって書き出した小説がいくつもある。数えればキリがないから数えたくない。面倒だ。面倒事は何よりも嫌いでいつだって楽な方へ楽な方へと流されている。これが海だったら沖に行けば行くほど危険なはずなのに、いったんたいの波にさらわれてしまえば浮力に身を任せてどこまでもたゆたっていたくなる。怠惰の行き着く先がごくらく浄土じょうどであればいいのにと思う。

 なんだっていいからと書き始めた小説はもちろん取り留めがなくて面白くない。少なくとも自分では分かっている。それなのに周りのフォロワーはれいを並べてめちぎってくれる。嬉しくないとは言わない。彼らがおを述べているとも嘘をついているとも思っていない。ただ自分の良心と折り合いがつかないという話だ。更新ひんを保つためにとりあえずアップした小説が一字一句目を通されてここがいいあそこがいいとコメントを浴びるのを見ると、崩していた足を正したくなる。

 小説は足だ。北の大地を食べ歩いてとうし、南の島で白いに風を呼ぶのもいいし、近所をうろつくことも、うなばらを航海するのも、大空をビュンビュン飛び回るのも思いのままだ。ひとたびペンを握れば、誰だってどこへだって行くことができる。「あ」の交差点をわたって、「し」のカーブを曲がって体は運ばれていく。

 遠くに行くのが怖い。車だろうと電車だろうと、家から遠ざかるにつれて不安が増してくる。今、全速力で僕の体を運んでいるこの乗り物は、きちんと目的の場所まで送り届けてくれるだろうか。無事にたどり着いたとして、僕の代わりに帰り道を覚えていて帰宅まで面倒をみてくれるのだろうか。途中でげんを損ねたりなんかして、そっぽを向いてを決め込むなんてことはないだろうか。見知らぬ北の大地のど真ん中や、見渡す限り水平線に囲まれた大海原のどこかに放り出されて「地球はまあるくつながっているから大丈夫」なんて言われたら。だから海外旅行はおろか泊りがけの旅行ですら自分から行こうと思ったことが無い。親友のK君に誘われても断ってきた。

 K君は身軽だった。体型のことじゃない。それを言うならK君はずんぐりむっくりな体だし、僕の二倍くらいの体重……三桁付近を推移しているらしい。それなのにどこへだって一人で行ってしまう。アニメの聖地巡礼だと言って青森まで車を走らせ、朝食に海鮮丼が食べたいというだけで四時間近くかけて茨城へおもむく。行きたい場所があれば、ローンを組んで買ったトヨタのC―HRを転がす。道に迷うこともないのだろう。カーナビが優秀なだけではない。K君は僕と違って方向音痴おんちではないからだ。僕の方向音痴ときたら、車に乗りたての頃なんて市役所に行くのにも道に迷い、恥を忍んで家族に電話で助けを求めるほどだった。東西南北も国道の名前も分からない。

 ご飯行く? と連絡を入れるのはいつもK君からだった。K君はしょうな僕をよく分かっている。僕が部屋のすみっこでフジツボみたいに壁に張り付いていて、放っておけばいつかそのまま壁の一部になってしまうと思っているのかもしれない。一ヶ月に一度、少なくとも二ヶ月に一度は「ご飯どう?」と連絡をくれる。あの日もそうだった。

 K君は必ずサラダを注文する。サラダとライスと三百グラムのハンバーグをはやばやと平らげ、まだ三分の二以上あるハンバーグをつつく僕にスマートフォンの画面を向けた。その写真が空港で撮られたものだと分かったのは行ったことがあるからではない。建物の入口らしき場所で白い屋根に那覇空港の文字プレートが写っていたからだ。

 高校の修学旅行先は沖縄だった。僕は行かなかったからみんなが何空港に降り立ったのかは知らない。沖縄で那覇空港以外に旅客機が着陸できる場所があるのかどうかさえ知らない。市内でも迷子になる僕が、沖縄の、それも空の玄関のことなんて手に余る。修学旅行をしたのは遠くに行くのが怖かったからだ。おまけに面倒だった。沖縄よりも北海道の方がよかったし、もっと言うと沖縄には魅力を感じなかったし、それなのに決められた旅程で三泊四日も連れ回されて縛られる。たかだか二年半の付き合いの人間達と共有するイベントにしては重すぎる。高校は分かれてしまったとはいえ小学生からの僕を知っているK君とならまだしも。いや、それでも行かなかったかもしれない。

 K君は、仕事で行っただけで別に面白くはなかったと言っていた。下調べしていったソーキそばの人気店は行列だったから別の店に入ったらおいしくなかったとか、近場で見るものも無かったから仕事が終わったらまっすぐホテルに帰るだけだったとか。

 そんな話を聞きながら、僕は頭の隅で別のことを考えていた。

「沖縄って、天気予報で地図出るときに別枠になってるじゃん。鹿児島からどれくらい離れてるんだろう」

 僕の疑問が口をついて出ると、K君は「沖縄本島だったら結構離れてるよ」とすぐにグーグルマップを見せてくれた。拡大された鹿児島県からスタートして、K君の指で画面が左下へとスクロールされていく。たねしましまも越え、あまおおしまとくしま沖永おきのえじまろんじまと耳にしたことのある島が現れ、これら全部は沖縄本島よりも遠い島だと思っていたから、みんな鹿児島の一部であることにも、それを知らなかった自分にも驚いた。そうやって幾つもの島を飛び越え海を渡りようやく沖縄本島にたどり着く。

「福岡から韓国に飛ぶ方が近いじゃない」

「そりゃそうだよ。でも沖縄本島だって茨城空港から三時間くらいで着くよ」

 あの島々には人が住んでいて島と島の間には広大な海がへだたっているのに、飛行機というものはそれを眼下にビュンビュンと通過する。人間を一瞬で遠くへ運んでしまう。

 K君の開いたグーグルマップに自分の指でも触れてみた。島の住人たちをつぶしてしまわないよう、海を示す水色におそるおそる指を置いて。広がる水色を見ていると怖くなる。地図を縮小すると陸地の緑が小さくなって水色が増してもっと不安になる。僕達は大地に足をつけていないと生きていけないのに、僕の指先で海が地球の主役になっている。地球に占める海と陸の割合は七対三だと言われる。人間は海から相手にされないくらいちっぽけな存在で、たまたま生き延びているだけなのかもしれない。

「そういえば、飛行機の下に見えた海はきれいだったよ」

 K君は独り言のように言ったけれど、それが一番言いたかったことなんじゃないかと思った。

「やっぱり茨城の海とは違うの?」

「違う。全然違う」

 K君の記憶に焼き付いた美しい海は深いしゅこうで確かな形をとる。

 僕はK君の見た海を想像する。しばらく飛行機の下はみたいな色をした海が延々と続くだけだ。ふいに現れた海を真っ二つに割る境界線から景色は一変する。息を呑むような青。沖縄だけが特別に許された青。僕の知らない青。小さな世界から抜け出して遠い世界へと足を伸ばした者に与えられる祝福の青。K君の見た海だ。

 新しい世界を見て回ろうなんて考えたことは無かったし、誰かが強引に手を引いて連れ回してくれたことも無かったから、僕の世界は小さい。本当に小さい。でも今から世界を広げようとか新しいものをたくさん取り入れようとか、そういう気にはならない。いつの間にか未知に対しておくびょうになっていた。K君を見ているとうらやましく思うし怖くもある。僕が生きてきた二十数年とK君が生きてきたその年月とはどちらも未完成なのに密度も濃度も全く違っていて、原色の布をぎしてきた僕に比べて、K君の一枚布は移ろう青のグラデーションで染められた綺麗な未完成なのだと思う。

 二人して小さな画面をのぞき込み空路をなぞった時間が僕にとっては大旅行で、だからそれを小説にしようと思う。僕は面倒事が嫌いで怠惰ゆえに遠くへは行けないけれど、少なくとも今は行けないということなのだけれど、いつか僕から「ご飯行く?」と誘い出して、サラダとライスとハンバーグを食べながら世界地図に空路やら海路やらを描くこともあるだろう。新しい大陸を発見して黄金色の新時代の先頭に立つかもしれない。

 だからK君、それまでは。小さな白い紙の上に足跡を付けてはしゃいでいる幼い僕のことを許してやってくれたらと思う。

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