25. 明日は我が身だよね

 その日は何かに導かれるように目覚め、すっきりとした気分で家を出た。

 いつもより早くに着いた教室はまだ数人しかおらず、窓から校庭を眺めていると、明るい声が現実に戻した。


「ごきげんよう」


 振り返ると、百合子が教室に入ってくるところだった。彼女のもとに足を向けると、驚いたような顔をされた。


「まあ、絃乃さんがこんなに早くにいらっしゃるなんて。明日は雪かしら」

「ひどいわ。私だって、たまには早く起きることだってあるわよ」

「だって、遅刻こそしていないけれど、絃乃さんの登校時間はもっと遅いでしょう? これで驚くなというほうが無理があるわ」


 反論できないことが悲しい。

 ううむ、と内心うなっていると、沈んだ声が後ろで聞こえた。


「……皆さん、ごきげんよう……」


 ため息が聞こえてきそうな暗い挨拶の声の主を見れば、菊と紅葉がちりばめられた着物に袴姿の雛菊がいた。彼女は後ろの自分の席につくと、ふう、と息をこぼす。

 百合子と目を合わせ、そっと雛菊の席に近づいた。


「雛菊、どうしたの? 今日はどことなく暗い顔よ」

「ええ……まあ、いろいろあってね。ちょっと中庭で話してもいい?」


 中庭はひっそりと静まりかえっていて、遊びに来た小鳥が木の枝にちょこんと座って羽を伸ばしていた。

 朝日に照らされた花々は小さく寄り添うように咲き、ここだけ空間を切り取られたみたいに、廊下の向こうで話す生徒の声が遠のいている。

 始業の鐘が鳴るまではまだ時間がある。

 それまで沈黙を守っていた雛菊は、二人の視線に耐えかねたように重い口を開いた。


「実は急遽、婚約者との話が進んで……。女学校に通える最後の日になったの」


 それは予想していた答えの一つだったが、にわかには信じられなかった。

 信じたくない気持ちが強くて、呆然と見つめることしかできない中、先に我に返ったのは百合子だった。


「嘘でしょう? そんな、急すぎるじゃないの」

「え、えっと。つまり……雛菊は女学校を辞めるってこと?」

「そうなるみたいね」


 他人事のように肯定され、絃乃は面食らう。

 確かに、乙女ゲームでも級友の一人が結婚を機に退学するイベントがあった。

 けれども、記憶が正しければ、それは雛菊ではなかった。クラスメイトのモブキャラの一人だったはずだ。


(イベントの内容が変わってる……? それとも隠しキャラルートでは雛菊が退学する流れだったとか……?)


 しかし、それを確認する方法はない。

 わかることと言えば、自分の知らないところで何かの力が働いているということだ。もしかしたら、エンディングにも影響があるかもしれない。


「そんなに悲しい顔をしないでよ。ここを辞めても、友達であることは変わらないし。手紙だって書くし、また会えるでしょう?」


 明るい言葉とは裏腹に、雛菊の顔は沈んでいた。明らかに無理をしている。

 それを百合子も感じ取ったのだろう。雛菊に詰め寄り、両手首をそっと握りしめた。


「だけど雛菊……あなたは、ちゃんと納得しているの? 結婚するのはあなたなのよ」

「大丈夫。心の準備ならとっくにできているから。少し驚きはしたけれど、彼に嫁ぐのは前から決まっていたのだし。でもそうね、あなたたちに会えなくなるのは寂しいかも」


 すらすらとよどみなく言われ、百合子も力なく手を離す。

 拘束がなくなった雛菊はくるりと背を向き、つぶやくように言った。 


「自由恋愛なんて、まだ小説の世界の言葉だけど。絃乃や百合子は幸せをつかんでね」

「雛菊……」


 かける言葉に困っていると、ふと雛菊が振り返る。

 人差し指を口元にあて、悪戯っぽく笑う。


「質問攻めに遭うのも面倒だから、このことは伏せておきたいの。申し訳ないのだけど、協力してくださる?」

「……わかったわ」


 退学する以上、明日には教師から事実が伝えられるだろう。

 だが、本人が触れてほしくないというのなら、その意志を尊重したい。


「今日は一緒に帰れる?」


 絃乃が尋ねると、雛菊はゆっくりと首を横に振った。


「ごめんなさい。今日は急いで帰らないといけないの」

「そう……。なら仕方ないわね」


 落ち込んでいると、横で労るように見つめていた百合子が口を開く。


「落ち着いたら、ちゃんと手紙を送ってちょうだいよ? 待っているから」

「もちろん」

「雛菊、私も手紙を待ってるから」

「ええ。約束するわ。……先に教室に戻るね」


 力なく答える雛菊の背を見送り、百合子が横に向き直る。


「絃乃さんも縁談の話は来ているの?」

「……いいえ、今のところは何も。お父様がまだお嫁に行くなんて早いって言っているから、仮に先方から申し込まれても、難癖つけて断るんじゃないかしら」

「それは……ちょっと特殊な例だと思うけど。まあ、在学中に結婚するのが普通だものね。無事に卒業できるのは、よっぽど容姿に問題があるか、卒業と同時を嫁ぐことが決まっている人が大半だもの」


 婚約期間があり、事前に心構えができるうちは、まだいいほうだろう。

 雛菊の場合、意図せず結婚が早まったものの、心の準備はできていたはずだ。彼女自身が納得しているなら、これ以上の口出しは野暮というものだろう。

 けれど、当人だけの意志でままならない結婚は、自由にはほど遠い。


「明日は我が身だよね」


 どちらともなく、自然とため息がこぼれた。


     ◆◇◆


「ああ、ちょうどよかった。少し話がある。ついてきなさい」


 父の曉久あひきさに呼び止められ、絃乃は振り返る。

 彼はすでに背を向けており、奥座敷に向かっていた。娘が反抗するとは露にも思っていないのだろう。

 致し方なく、しずしずと父親の後を追う。襖を閉め切ると、上座にいた父親が目線で座るように促す。一体何の話だろうと思いながら、居住まいを正して正座になる。


「早いもので、お前も十六だ。もう、いつお嫁に行ってもおかしくない歳になった」

「はい」


 婚約者の話だろうか。だがそれは、まだ早いという結論に至ったのでは。

 もしくは何かの心境の変化でもあったのか。縁談の話なら、できれば聞きたくないのだが、白椿家の未来を思えば、子供のように突っぱねることもできない。

 さて、ここはどう対応するのが最良か。

 父親は遠い目をして、袖口の中に手を入れる。絃乃にはその行動が、自分の心を守るための防衛反応に思えてならなかった。


「……葵が行方不明になったのは、六年前の今日だったな」


 ぽつりと、こぼれた声に心の中で同意する。

 憂い顔だったのは、昔のことを思って感傷的になっていたせいかもしれない。


(でも、葵が生きていたことは、まだ話せない……)


 息子が息災だったと知れば、きっとどれだけ喜ぶか、想像に難くない。しかし、今はまだ駄目だ。彼をこの家に取り戻すには、やるべきことがある。

 本当はすべてを話して安心させてあげたい。だけど、弟を守るためには今は口を噤まなければならない。葛藤にもだえていると、曉久の視線が畳の上をすべる。


「……これは墓まで持っていこうと思っていたのだが、今朝、葵の夢を見て気が変わった」

「夢を見られたのですか?」

「ああ。葵も大きく成長して、家族皆で笑う夢だった」

「……いい夢だったんですね」


 曉久はそうだなと相づちを打ち、思案に暮れた顔で両腕を組む。


「……私の罪を聞いてくれるか」

「罪、ですか? それは、どのような?」


 小首を傾げると、覚悟を決めたような瞳がスッと細められる。


「六年前の夜、息子が行方をくらましたのは私のせいなのだ」


 言っている意味がわからなかった。脳内でリピートするが、理解が追いつかない。


(失踪事件の原因が、お父様……?)


 荒唐無稽な話を聞いているようで、瞬きを繰り返す。

 そんな娘の反応は予想の範疇だったのか、曉久は唇を引き結んでいる。絃乃が落ち着くのを待っているような間が続き、堪えきれずに口を開ける。


「どういうことですか? お父様のせいとは?」

「我が白椿家には、お上から下賜された家宝がある。売れば、そこそこの高値がつく掛け軸だ。代々、次期当主が十歳になったときに、それを誰にも見つけられない場所へ隠し、守り抜くことを言いつけられるのだ」


 まるで子供遊びだ。しかし、渋面の父親の顔を見る限り、それが真実なのだと理解せざるを得なかった。

 絃乃は畳に視線を落とし、言葉を絞り出すようにして言う。


「……まさか、そのために?」

「あの夜は、掛け軸の話をした日だった。あの子を信じ、掛け軸を託した。そして、朝になったとき、息子の姿はどこにもなかった。……あの掛け軸も一緒にな」

「では、なくなったのは葵だけではないと?」

「そうだ。家宝の掛け軸も姿を消した」


 新たな事実に、絃乃はしばし呆然とする。


(なくなったのは葵だけじゃなかった……掛け軸も同時に消えていたなんて)


 父親はそれを誰にも言えず、今まで自分の胸にだけ留めていたのだろう。秘密をずっと抱えていた心中はどれほど複雑だっただろう。


「……後悔していらっしゃるのですか?」

「後悔……そうだな。後悔している」

「…………」

「葵は頭の回る子だ。何かよからぬ事件に巻き込まれたのだと思う。あるいは、今もどこかで息をひそめて暮らしているのやもしれん……」


 希望的観測の言葉だ。だが、現に葵は生きている。絃乃はその言葉を否定できない。


「このことをお母様はご存じなのですか?」

「いや……余計な気苦労をかけたくなくて、話したことはない」

「ならば。どうして、私にお話してくれたのですか?」

「なぜだろうな。お前には話しておかねばならない気持ちに駆られたのだ」

「そう……ですか」


 それから二言三言話して、自室へ戻った。あまりの動揺でどう言葉を返したか、わからない。混乱したまま、畳の上に正座になる。

 動悸がする胸を落ち着けようと、呼吸を止めて息を全部吐き出す。それから息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。


(これで話はつながったわ……)


 葵は掛け軸を守るために、家に帰ってこられないのだ。

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