18. それはこっちの台詞です
「ここに入るのは何年ぶりかしら……」
表座敷を抜けて廊下を進んだ西側が、家族に割り当てられた居住空間だ。絃乃の部屋の二つ隣の和室が葵の部屋だった。
主人のいない部屋は、定期的に掃除がされているようで、埃っぽい様子はない。文机の上には弟が読んでいた古い書物が置かれ、行方不明になった当時のまま保管されている。
(この部屋は、まだ気持ちの整理がついていないことの表れなのでしょうね)
心のどこかで、いつか帰ってくると信じていたいのだ。
(葵は……生きていた。でも、まだここには帰ってこられない)
あの晩は、それぞれ自分の部屋で就寝していた。もし隣で寝ていれば、異常事態に早く気づけただろうか。たった一人の弟に、つらい思いをさせることもなかっただろうか。
もしも、と願ってしまうのは、何もできなかった自分が許せないかもしれない。再会した弟は雰囲気がだいぶ違っていた。だから気づくのが遅れた。姉として情けなく思う。
(謎解きルートを攻略しなければ、いずれ、私もここにはいられなくなる。そうしたら、両親はまた子どもを失うことになる)
家族を失ったと知ったときの悲しみは、計り知れない。今思い出しても、苦い気持ちが心にあふれてくる。あんな思いは一度で充分だ。
できることなら、今すぐ葵に詰め寄って問いただしたい。
聞きたいことはたくさんある。夜中に消えたのは自分の意志だったのか、それとも誰かにさらわれたからなのか。せめて狙われている理由がわかれば、対策だって一緒に考えられたのに。
(答えてよ。葵――)
しんと静まった部屋に返る声はなく、襖も閉まったままだ。何年も部屋の主人を失ったままの和室は時が止まったみたいに沈黙していた。
◆◇◆
葵の居場所はわかったけれど、きっと今の彼に詰め寄ったところで、何も話してくれないだろう。まだそのときではないから。
だったら機が熟するのを待つまでだ。
(今後のイベントから考えても、そんなに待つことはないと思うし……)
楽観的な考え方かもしれないが、時には待つのも戦略のひとつだ。ここで絃乃が下手に動くと、葵の身に危険が襲う可能性もある。彼が何から逃げているかもわからない以上、余計な行動は慎むべきだろう。
とはいえ、姉として弟が無茶しないか、心配するぐらいは大目に見てほしい。
佐々波呉服屋の店先が辛うじて見える位置から様子を探る。しかし、活発な従業員が呼びかけしている姿しか確認できない。
(もしかして、まだ学校の方なのかしら)
偶然会えたとしても、彼はきっと理由を話してくれないだろう。それどころか、邪険にされる気がしてならない。
その可能性に行き当たり、つい唸り声を上げる。
「……何を唸っているんだ?」
「頑固な書生の口を割らせる妙案に行き詰まっておりまして……」
「なるほど、お嬢さんの待ち人は書生か。しかも堅物な野郎とは。難儀なもんだな」
「ええ、まあ……。って、篝さんっ? いつからそこに?」
前の様子が気になっていたせいで、無意識に答えてしまったではないか。
背後にいた篝を恨みがましく見つめると、降参とばかりに両手を軽く挙げる。しかし、その顔に強ばりはなく、けろりとしている。
「誰かと思えば、絃乃お嬢さんだったか」
「それはこっちの台詞です」
「……それはそれとして、隠れているつもりだったんだろうが、見るからに怪しかったぞ。こんなところで何をしていたんだ?」
素朴な疑問という風に投げかけられ、うっと詰まる。言葉に窮していると、見かねた篝が助け船を出す。
「まあ、聞かれて困ることは、簡単には口には出したくないよな」
「……そういう篝さんこそ、何をしていたんです?」
責めるように言うと、篝はやれやれと肩をすくめた。
唇に人差し指を立てて、小声で教えてくれる。
「尾行だよ。気になる人物に狙いを定めて、行動を見張っていたわけだ。ただまあ、標的はもう逃げてしまったがな」
「標的?」
つられて通りの向こうを見るが、警官が数人話し合っているだけで、他に人影はいない。
「見張らなくていいんですか?」
「俺は深追いはしない主義だ。先方には感づかれたみたいだからな。引き時だ」
「そういうものですか」
「まあな」
篝は頷くと、思い出したようにズボンのポケットを漁る。鎖で繋がれた懐中時計の蓋を開け、焦ったように早口で告げる。
「おっと。これから取材があるんだった。秋で日の入りも早くなったんだから、お嬢さんも早く帰れよ」
「わかってますっ」
「じゃあ、またな」
くるりと背中を向けて、早足で去っていく。用事があるのは本当のようだ。
東の空はまだ薄青の色で、夕日が沈むまでには猶予がある。けれど、日が傾き始めたら暗くなるのはすぐだ。
ここは助言に従うべきだろう。
絃乃はすごすごと回れ右をし、帰宅の道をたどる。その姿を遠目に確認した若い男はほっと息をつき、佐々波呉服屋の裏手にある戸を引いた。
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