9. やることって?
校庭の隅にある芝生の広場で、お弁当を広げる。
梅雨明けしたものの、夏の太陽は容赦なく大地を照りつける。木陰があるとはいえ、風がないと快適とは言いがたい。
夏の暑さからくる気だるさを、息とともに吐き出す。
正直、食べる気力もないが、食べなければ倒れてしまう。しぶしぶ煮物を口に詰め込んでいると、雛菊の呆れたような声が届く。
「百合子ってば、嬉しそうね」
「あら。ふふ。わかる?」
「さては、婚約者と何かあったでしょ」
腕で小突かれると、百合子は恥じらいながらも頷く。
「手紙の返事が来たの。たった一文だったけれど」
その一言で絃乃はすべてを理解できたが、雛菊は首を傾げていた。
「え? どういうこと?」
「彼は文字を書くことが苦手らしいの。私、まったくその可能性を考えていなくて。一週間以上も返事が来ないから、てっきり嫌われたのだと思っていたのだけど。違ったみたい」
両手を合わせて、手紙を受け取ったことを思い出しているのだろう。
頬がゆるむ様子を見て、雛菊が茶々を入れる。
「あ、わかった。愛がしたためられていたのね?」
「いいえ、でも不器用な彼なりの言葉が添えられていたわ。手紙を手渡しで持って来てくれてね。今度の週末、蛍を見に行く約束をしたの」
「蛍……」
つい言葉をこぼしてしまった絃乃に、百合子が言葉を返す。
「ええ。この近くの蛍は見ごろを終えたけれど、穴場があるのですって」
「すてき。ロマンチックだわ」
雛菊がうっとりとしたようにつぶやき、目をつぶる。彼女の目の裏には、暗闇の中に光がちらちらと浮かぶ幻想的な光景が広がっているのだろう。
(……とりあえず、これでイベントは回収できたようね)
うまくいくかは賭けだったが、ひとまず成功といっていいだろう。
「そういえば、百合子は夏休みはどうするの?」
「例年どおり、別荘で過ごすことになると思うわ。藤永様も途中で合流するって言ってくださったし。雛菊さんは?」
「わたくしは家族で温泉に行こうって話になっているの。お土産を買ってくるわね」
自然と二人の視線が、絃乃に集まる。
華族とはいえ、公家出身なので、資産家令嬢のように羽振りがいいわけではない。昔からの日本家屋と伝統だけが残った家があるのみである。
「……よかったら、絃乃さんも別荘に来る? うちはいつでも歓迎よ」
「気持ちだけもらっておくね。今年はちょっとやることがあるから、家に残るわ」
百合子からの申し出を丁重にお断りすると、雛菊の瞳がキラリと光る。
「やることって?」
「……内緒よ」
「ええ、気になるじゃない。夏休みが明けたら、教えてちょうだいよ」
「うーん。約束はできないけれど」
言葉を濁していると、雛菊がふくれっ面になったので、その柔らかいほっぺたをつついておく。
(早いところ、あの書生を探さないと……)
謎解きイベントでキーになるのは隠しキャラクターだ。しかし、パッケージに描かれた書生とはまだ会えていない。
そして、八尋ルートの今、ヒロインである百合子はそのキャラを攻略できない。
(でも待って。もしかしたら……私が気づいていないだけで、すでに百合子は会っているというパターンもありうるんじゃ……? 直接話していないだけで、どこかですれ違っているとか……可能性としては充分考えられるわ)
けれど、情報が少ない現状では、いずれも決め手に欠ける。
彼と接触できなければ、謎解きイベントは始まらない。失踪したゲームの絃乃は、物語の終了まで行方不明のままだった。生死も不明である。
無残な最期は想像したくないが、万が一という可能性もある。
最終手段として、自力で脱出という方法もなくはないが、保険はかけておきたい。
(タイムリミットから逆算して、この夏休み中に接触しておかないと、その後のイベントに支障が出るはず……)
もはや悠長に構えている場合ではない。
鳥の鳴き声にふっと顔を上げる。快晴と思っていた空には、筆で横線を引いたような雲が浮かんでいた。
◆◇◆
夏休みが始まって、日差しはさらに熱を帯び、容赦なく地面に照りつけていた。紫の縦縞に桔梗柄の単衣を着た絃乃は、風呂敷を腕に抱え直す。
お茶のお稽古を終えて、市電のある通りを歩く。
(今回の練り切りは見た目も可愛らしかったけど、味も上品な甘さで……これがあるからやめられないのよね)
作法を学びたいという欲求よりも、美味しいものを食べたい欲求のほうが勝っている。
次のお茶菓子は何かしら、と期待を膨らませていると、無愛想な男が横を通り過ぎていく。目深まで被った帽子で目元を隠し、くたびれた丸首のシャツに木綿の袴、下駄を履いている。
(……もしかして、彼が隠しキャラの……?)
声をかけるべきか悩んでいると、その男は足早に歩いていく。
そして、前を歩いていた老婆とすれ違いざま、どんっと肩がぶつかる。
反動で老婆がよろめく。慌てて絃乃が目の前の背中を支えると、彼女の指にあった巾着をスッと抜き取った男が逃げる。
あっと気づいたときには、泥棒は人混みの中に走っていくところだった。
「だれかっ! その男をつかまえて!」
逃がすものかと急いで駆け出す。だが、驚いた人は左右に避けるばかりで、犯人との距離は縮まらない。息も絶え絶えになっていると、ふと前方に身なりのよい紳士が見えた。
「お願い! その泥棒をつかまえてください!」
紳士は前を通り過ぎようとしていた男に足払いをかけ、犯人が無様にも倒れ込む。横に落ちていた女物の巾着を取り、ぱんぱんと土埃を払い落とす。
地面に這いつくばっていた男は起き上がると、そのまま走り去っていく。逃げ足だけは無駄に速い。
背広を片手に抱いた紳士は、やっと追いついた絃乃を見て、手にしたものを差し出す。
「お探しものはこれですか。レディ?」
「……あ、これは、おばあさんの荷物なの」
「そうですか。では一緒に返しに行きましょうか」
優雅にエスコートされ、腰を抜かしたままの老婆の元まで戻る。
絃乃は彼女の前に腰を下ろし、両手で巾着を差し出す。
「この方が取り戻してくれたのよ。立てますか?」
「ああ、平気さ。二人とも、ありがとうね」
二人の手を借りて老婆が起き上がり、目尻に皺いっぱいの笑みを浮かべた。そのまま別れを告げるが、去り際に何度も頭を下げる。そのたびに絃乃も手を小さく振り返す。
(冷静に考えて、あれが隠しキャラなわけないよね。ただの盗人だったし……)
彼女の姿が遠くなった頃、律儀にも一緒に見送っていた紳士に絃乃も礼を述べた。
「雪之丞様。お助けいただき、ありがとうございます」
「ふむ? どこかでお目にかかりましたか」
不思議そうに見つめられ、気安く名前を呼んでしまったことに気づく。
前世でよく見知った間柄とはいえ、今世では会話をしたことすらない。とっさに言い訳を考え、絃乃は冷や汗をかきながら澄ました口調で答える。
「百合子と同じ女学校に通っておりますの。以前、お二人が話している場面を拝見したものですから……」
「ああ、あのときですか。それは恥ずかしいところを見られてしまったな」
記憶を思い出しているのか、雪之丞は顎に手を当てる。目が合うと、茶目っ気に笑ってみせた。
彼本来の性格を目の当たりにし、絃乃もこわばっていた体から無駄な力みが抜けた。
「……あの。部外者の私が言うのもなんですが、百合子のことは本当に諦めたのですか?」
雪之丞は少し目を見開き、そうですね、と視線を落とす。
「正直、まだ慕っている気持ちはあります。ですが、彼女が決めたことですので、私はそれを応援するつもりでいますよ。それにあの男なら、彼女を任せられます」
「……それを聞いて安心しましたわ」
「もちろん、彼女を泣かせるようなことがあれば、黙ってはいませんが」
悪戯っぽく片目をつぶり、絃乃はくすくすと笑いをこぼす。
「きっと、心配なさるようなことはないと思いますわ。でも、そこまで思いを寄せられて、百合子が少しうらやましく感じました」
素直な気持ちを吐露すると、雪之丞は困ったように笑う。その笑みはゲームでは見なかったもので、どこか恥じらいが感じられた。
「こう見えて一途なんですよ」
「それはそれは、これからの恋の相手が大変そうですね」
「どうでしょう。まあ、相手次第かもしれませんね」
恋に破れた雪之丞はすがすがしい顔をしていて、どこか吹っ切れたようにも見える。まぶしいほどの晴天を背景にした美男子は笑みを深めた。
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