5. その手を離してもらいましょうか
「ひと雨来そうな天気ですこと」
怪訝な顔でつぶやく百合子を見て、絃乃も空を見上げる。
「向こう側は真っ暗ね。雨が降る前に帰らなくちゃ」
真上は明るい青空だが、奥から灰色と黒の雲が忍び寄っている。まもなく梅雨だ。あまり長話もしていられない。
車寄せでは、お嬢様を待つ
百合子は俥での送迎だが、絃乃は家が近いため、徒歩で通学している。ちなみに雛菊は掃除当番のため、教室で別れの挨拶を済ませている。
会話を終えようと声をかけようとしたところで、百合子が驚いたように声を弾ませる。
「あら、自動車だわ。どこの家の車かしら?」
「……まあ、本当ね」
他人事のように感想をつぶやいていると、駐車していた自動車のドアが開く。
長い足が出てきたかと思えば、すらりとした長身の男が立ち上がる。薄い灰色の三つ揃えのスーツ、
肩につくほどの茶色がかった長髪は、リボンで結われている。
突然現れた紳士は女学生の視線を集めていることに気がついたのか、にこりと笑みを浮かべた。途端、前方から黄色い悲鳴が上がった。
その反応に慣れているのか、紳士は驚いた様子はなく、きょろきょろと辺りを見渡す。
ほどなくして生徒の輪の奥にいた百合子を見つけると、獲物を狙うように切れ長の双眸を細めた。
「百合子さん、お待ちしておりました」
ざわついていた生徒が左右によけ、百合子は足を踏みだす。絃乃もその後ろについていった。
「……
「愚問ですね。ぜひ一緒に晩餐を楽しみたいと思いまして」
流れるような仕草で優雅に腰を折る姿は舞台俳優のようだ。
対して、百合子は当惑した表情を浮かべている。
「そんな、困ります。あなたとの縁談は断ったはずです」
「そこがわからないのですよ。この婚姻は両家のためになると思うのですが。考え直してみてはいただけませんか?」
「何度言われても、答えは同じです」
毅然とした態度で返答する百合子に、雪之丞は片眉をぴくりと震わせた。
睫毛が長く、神がかった美しさの顔は、まるで絵画に出てくる天使のようでもある。
(ああ、苛立つ姿さえも美しいなんて、スチルとまったく同じだわ)
乙女ゲームを思い出し、絃乃は胸が詰まる。
(ゲームでは部下に裏切られて、冤罪で投獄されて。それをヒロインが無実の証拠をかき集めて救う、というストーリーだったけれど)
百合子は冷たい目で雪之丞を見据えており、残念ながら、二人の間に愛が芽生える気配はない。
つれない態度に業を煮やしたのか、雪之丞は百合子の腕を取る。
「さあ、参りましょう。本日のディナーはすでに予約してあります。味もご満足いただけると思いますよ」
「――その手を離してもらいましょうか」
雪之丞から百合子の腕を解放したのは、颯爽と現れた短髪の将校だった。濃い緑の軍帽と軍服、首元まで覆う詰め襟、そしてピカピカに磨かれた黒革靴。
けれど、威圧感のある軍人とは違い、彼は優しい面差しをしていた。低く、色気のある声音は記憶と同じもので。
「彼女が困っています。紳士ならば、引き際は弁えるべきでは?」
「ふ、藤永様……!」
驚く百合子の言葉に、ゲームの説明書にあった彼のプロフィールを思い出す。
(攻略対象が同時に現れるなんて。ゲームでも萌えたけれど、これは見どころのシーンだわ……!)
番狂わせの登場に、雪之丞がひねり上げられた腕をさすりながら目で威圧する。
一方の百合子は感嘆したように声をもらす。
「どうして、こちらに?」
「あなたにつきまとっている男がいると聞いたものですから。女性に無理強いをするのは紳士のすべき行いではありません。百合子さんが困っているなら、お助けしたいと思い、馳せ参じた次第です」
すらすらと答える八尋に、百合子は戸惑うように見つめた。
「ですが、私はまだ、あなたにお返事をしていないのに……」
「どのような答えでも、俺は受け止めるつもりでいます。たとえ縁がなかったとしても、あなたには幸せになってもらいたい。……これは俺の自己満足なので、あなたが気に病む必要はないのですよ」
優しい言葉に、百合子の瞳が揺らぐ。
横で聞いているだけの絃乃でさえ、うっかり彼を好きになってしまいそうになる。
けれど、百合子は両手を胸の前で合わせ、何かに耐えるようにうつむく。
(なるほど。八尋ルートだけど、まだ自分の気持ちとどう折り合いをつければいいのか、悩んでいる時期なのね。となると……ゆくゆくは、生き別れた恋人を乗りこえるエピソードが出てくるわけね)
八尋には幼なじみの女の子がいた。将来を誓い合った仲だったが、病弱だった幼なじみは十四歳という若さで儚く散る。彼女以外と結婚するつもりはなかったが、上司の家でヒロインと出会い、恋に落ちるのだ。
思いを通じ合わせた後も、胸の奥には昔の思い出が強く残っていて。果たせなかった約束と葛藤しながら、ヒロインと距離を置く。夢の中で成長した幼なじみと邂逅し、言葉を交わして自分の気持ちを見つめ直す。
そして、ヒロインの元に花束とともに現れて求婚し、二人はハッピーエンドを迎える。
「そういうわけなので。お引き取り願えますか」
百合子を後ろにかばい、八尋がやんわりと牽制をする。雪之丞は忌々しげに八尋をにらんでいたが、ふと合点がいったように口元をゆるめた。
「……たった今、思い出したよ。へえ、君が藤永の息子というわけか。悪いけれど、百合子さんを見初めたのは私が先だ。無粋な真似はよしてくれるかな」
「この状況を見て、よくそんなことが言えますね。どう見ても、彼女はあなたを慕っていませんよ。そもそも、恋に時間なんて関係ないでしょう。もっとも、女性の気持ちを尊重できないあなたとは話が合いそうにありませんが」
軽蔑するような視線を向けられ、雪之丞が憎々しげに歯がみする。苛立ちを拳に変えて振りかぶろうとする矢先、女性の非難する声が耳に飛び込む。
「これは何の騒ぎですか!」
遠くから、女性教師が鬼の形相で近づいてくる。生徒指導で厳しいと噂の教師だ。
八尋はそっとため息をつき、一時停戦を提案した。
「これ以上、こちらでご迷惑をかけるわけにはいきません。彼女の俥も待たせてあるようですし、一度引きましょう」
「……致し方あるまい。百合子さん、またお誘いしますので。では、失礼」
雪之丞が自動車に乗り込むと、すぐにエンジン音がして煙を噴きながら発進する。遠くなる自動車を見送り、呆然としている百合子に八尋が一礼した。
「俺もここで失礼します」
「あ、あのっ……ありがとうございました。お助けいただいて」
「いえ、俺は何も。それでは」
早足で来る教師から逃れるように、八尋も踵を返す。彼の姿が小さくなったころ、息を荒くした教師が百合子を見て咎める。
「桐生院さん、これは一体何の騒ぎなの?」
「……お騒がせして申し訳ありませんでした。以後気をつけます」
弁明するでもなく潔く謝った百合子を見て、教師も溜飲を下げたのか、細い銀縁の眼鏡を指で押し上げて咳払いをする。
「ま、まあ。身を弁えているのなら結構ですけども。面倒事を学校に持ち込まないでくださいね。ここは淑女が集まる神聖な場所なのですから」
「はい。ご心配をおかけしました」
粛々と謝る態度に勢いをくじかれたのか、教師はパンパンと両手を叩き、野次馬で集まった女学生たちに解散を促した。
散り散りになっていく生徒たちを見て、教師も校舎へと戻っていった。
残ったのは夏特有の湿った風と沈黙だけだった。
「……絃乃さんもごめんなさいね」
「い、いいのよ。私は見ていただけだったし。……それより、さっきの方たちは?」
本当は知っているが、何も聞かないのも不自然だ。
苦し紛れに質問すると、百合子は一度視線を地面に落とし、それから瞳を合わせる。
「この前話していたお見合い相手なの。雪之丞様はお断りしたのだけど、まだ諦めてくださらなくて……」
言葉を濁す百合子に、絃乃は話の矛先を変えた。
「藤永様はいい方のようね」
「え、ええ。私にはもったいないような方なの。礼儀正しくて、何より優しくて」
「誠実な方なのね」
「そう、そうなの。正直、私よりも似合う方はたくさんいると思うの。だから……」
悩める乙女の言葉の続きは想像に難くない。
落ち込む親友に、絃乃はできるだけ優しく問いかけた。
「だから、お話を受けるのが怖いのね?」
「……っ……」
「いいのではなくて? 無理に話を進めなくても。焦って結論を出す必要はなくってよ。将来のことだもの。ちゃんと納得できるまで考えたらいいと思うわ。……藤永様だって、きっと待ってくださるでしょうし」
答えを保留にしているのは、それだけ相手のことを真剣に考えているからだ。
「絃乃さん……」
「だから、しっかり考えてあげて。二人のためにも」
「ええ……わかったわ」
泣きそうな百合子の背を撫で、絃乃は柔らかく微笑む。つられて彼女もぎこちなく笑い返した。
ぽつり、と一滴が手の甲に触れる。雨の匂いが立ちこめ、百合子と慌てて別れる。
帰り道を早足で歩きながら、絃乃は内心ため息をつく。
(攻略対象者の三人が出揃った今、残りは隠しキャラだけだけど……)
一番怪しいのは、パッケージに小さく描かれていた書生だろう。横顔で顔は判別できなかったものの、何かのキーとなるキャラクターであることは間違いない。
主な攻略相手である三人のルートで登場しなかったことを踏まえると、彼が隠しキャラである可能性が高い。
(私の未来がかかっているのだもの。何としてでも彼を見つけなくちゃ……!)
どうにか接触して未来を回避しなければ。そのうえで、前世の恋を成就させるのだ。
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