3. まだ死んでいないのですが
女学校の多くは海老茶色の袴だが、小紫女学校の指定は藤紫の袴だ。矢羽根を並べた模様の
今日は季節に合わせて撫子が描かれた桃色の着物を選び、藤紫の袴と編み上げブーツを履いた女学生スタイルだ。
(そういえば、乙女ゲームの攻略はどこまで進んでいるのかしら)
絃乃は教師の声を聞き流しながら、最前列に座るお下げ姿の級友を見やる。
左右に編み込まれた髪は腰につくほどの長さで、薄紅色のリボンで結われている。紅白の矢絣に袴姿は、パッケージに描かれた姿と同じだ。
(好感度上げが順調なら、専用ルートに入っていてもおかしくないわよね……)
もうすぐ梅雨入りだ。ゲームは春から開始だったから、攻略対象との出会いは一通り終わっているはずだ。
当然、ゲーム案内役の彼とも出会っているに違いない。
(うう。時を巻き戻せるなら、あのときに戻りたい……)
河川敷での出会いを思い出し、渋面になる。
服装は少し違っていたが、ゲーム画面と同じ人物、同じ声だった。
だがしかし、びっくり仰天したからといっても、あの言葉選びは致命的なミスだった。幽霊呼ばわりした小娘の第一印象は絶対によろしくない。
乙女ゲームで脳内シミュレーションは鍛えていたはずだったのに、恋愛の初手を誤った。
記憶が戻る前だったとはいえ、せめて、もう少しまともな出会いをしたかった。けれど今、己の失態を恥じても時計の針は逆回転などしない。
(ここはポジティブに考えよう。あれだけ印象づけたのだから、記憶には残っているはず。つまり、これから印象を塗り替えていけばいいのよ……!)
拳を握って気合いを入れていると、遠くで終業の鐘が鳴り響いた。
教科書を風呂敷に手早く包み、お下げ姿の彼女の前に立つ。記憶が正しければ、今週はお互い掃除当番ではなかったはずだ。
「絃乃さん。どうしたの?」
百合子は桜色の風呂敷を広げているところだった。くりくりとした大きな瞳が絃乃に向けられ、彼女の興味を引きそうな話題を持ち出す。
「甘味処で夏季限定のお品書きが出たんですって。ぜひ寄っていきませんこと?」
「……ごめんなさい。今日はお花のお稽古があるの。だから寄り道はちょっと……よければ別の日に誘ってくださる?」
心底申し訳ないように言われ、慌てて手を横に振る。
「い、いいのよ。気にしないで。また誘うから」
意気込み充分だっただけに肩すかしをくらった気分だが、先約があるなら仕方ない。すごすごと引き下がると、横からおっとりとした声がかかる。
「なあに、甘味処に行くの?」
すみれ色の風呂敷を持った雛菊が小首を傾げる。
小柄でのんびりとした口調の彼女もヒロインの友人だ。資産家の娘で、桔梗が描かれた上等な着物に藤紫の袴姿を合わせている。
「雛菊……そうだ、あなたは? この後、時間はあるかしら」
「わたくしも、今日は……家の用事があって。明日か明後日なら大丈夫なのだけど」
「そう……。皆さん、忙しいのね」
草木がしおれるように落ち込んでいると、百合子と雛菊が声を合わせて言う。
「明日! ぜひ行きましょう」
「……本当?」
百合子は大きく頷き、雛菊は胸に手を当てて断言する。
「約束しますわ。ぜひ三人で食べましょうね」
「よろしいんですの? 用事があるなら、そちらを優先していただいても……」
気を遣わせてしまったのかもしれない。そう思って予防線を張っていると、百合子が唇を尖らす。
「親友との約束のほうが大事ですわ。そうよね、雛菊さん?」
「ええ、もちろん。これはもう決定事項ですので、簡単には覆りません。だから楽しみにしていてくださいまし」
親友二人の笑顔の圧力に、絃乃はしぶしぶ頷いた。
◆◇◆
甘味処の誘惑を振り切り、川のほうに足を向ける。
(転生したのはいいけど、現実問題として、どうやって彼を口説けばいいのかしら。……というか、そもそもどこに住んでいるかも分からないのよね)
先日は偶然会えたものの、今日も会える保証はない。
ゲームの案内役ということを踏まえるならば、ヒロインである百合子の近くにいれば、会える確率も増えるだろうか。
悶々と考えながら河川敷を歩く。すると、ぽんと背中を優しく叩かれて、びくりと身体を震わす。おそるおそる振り返った先にいた顔を確認し、絃乃は奇声を発した。
「うひゃあ!」
「……すみません。怖がらせるつもりはなかったのですが、驚かせてしまいましたか」
目の前には、困ったように後頭部に手を添えた青年がいた。
これは、願望が形となった幻か。そう思って目をこするが、幻影は消えなかった。
思わず開きかけた口を閉じ、絃乃はしばし悩む。
ゲームでは、彼は自分のことを「案内役」と称していたため、下の名前はおろか、苗字も知らない。
「えっと……この前の幽霊さん……?」
「まだ死んでいないのですが」
すかさず訂正が入り、慌てて頭を下げて謝罪する。
「そ、そうでした。ごめんなさい。……ええと……」
目線をさまよわせていると、青年は何かに気づいたように目元を和らげた。
「申し遅れました。僕は
「ご丁寧にありがとうございます。私の名は、しら……」
かつて、白椿家は名門華族として名を馳せていた。しかし時代の流れとともに、権力や財力も昔ほどの勢いはない。残っているものといえば誇りぐらいだ。
家名を口に乗せるのを躊躇していると、意図を汲んだように詠介が語を引き継いだ。
「小紫女学校といえば、お嬢様が通うところでしたね。……下の名前を聞いても?」
「い、絃乃です。糸編に玄人の玄で、絃と書きます」
「なるほど。綺麗な響きですね」
お世辞だと分かるのに、きゅんと心が高鳴った。
ゲームではテンプレの文章のみのやり取りだったが、今は違う。言葉のキャッチボールができることの喜びで胸が踊る。
「ところで、前を見て歩かないと、着物が水に浸かってしまいますよ」
「……え……わわっ!」
考え事に集中していたせいで、足が川縁にそれていたらしい。
何歩か後退し、ホッと息をつく。
「危うく水に足を取られるところでした。お助けいただき、ありがとうございます」
「礼には及びません。ちょうどスケッチをしていて、あなたの姿が目に入ったものですから」
ゲームの画面越しに見た微笑みを見て、鼓動が早くなる。
(くっ、生で見ると破壊力が違う……!)
ゲーム画面越しに見ていたあの笑顔が、目の前にある。
キラキラのエフェクトが脳内補完されて、もはや直視できない。
「何か悩み事ですか?」
「え? ああ……ええと、そんな感じです……」
しどろもどろになりながら答えると、詠介は労るように見つめる。
だが悩みの内容に言及をすることはなく、くるりと背を向け、何かを取って戻ってくる。その手元には見覚えのある帳面があった。
「気晴らしになるかは分かりませんが、よければご覧になりますか?」
「……ぜひ!」
「どうぞ」
帳面を開くと、横からの突風でぱらぱらとページがめくる音がする。とっさに手を添えて耐えていると、ほどなくして風は勢いをなくして、静かに過ぎ去っていった。
ページを前に戻して目線を下げる。表紙はこの前と同じものだったが、どうやら中身は違うらしい。
前回よりも緻密に描き込まれていたのは季節折々の草木だった。色は白黒で描かれているのに、記憶の底から明るい色彩を思い出させる。
これに赤と朱色の筆で色をつければ、赤く色づいた紅葉の完成だろう。
「風景画がお好きなんですか?」
質問すると、詠介はばつが悪いように頬をかいた。
「実は、人物画は苦手でして……。もっぱら、花や木々を描くことが多いですね」
「……なるほど。でも、どの絵も優しい雰囲気で、私は好きです」
「そう言われると、ちょっと照れますね」
詠介は流れゆく川に視線を移したかと思えば、まだ明るい露草色の空を見上げた。
「日が暮れるまで時間がありますが、やがて日も沈むでしょう。帰りが遅いと、心配されるのでは?」
「あ……そうですね」
近づく別れの気配に、絃乃は帳面をおずおずと差し出した。それを受け取り、詠介は柔らかく微笑む。
(やっと会えたのに、彼を引き留める言葉が思いつかない。どうしよう……)
離れたくない。もっと話していたい。
けれど、それには理由や関係性が必要だ。それは知り合って間もない絃乃と詠介には、ない。
その場で動かない絃乃を心配したのか、詠介が少しかがんで顔色を窺ってくる。
「どうかしましたか? 具合でも悪いですか」
「……あの。また会えますか?」
勇気を振り絞って言うと、詠介は驚いたように目を丸くした。
「僕に、ですか?」
「は……はい……」
婚約者でもないのに、会いたいだなんて、はしたないと思われたかもしれない。
しかし、この機会を逃すと、またいつ会えるかも分からない。
ヒロインなら接点もあるだろうが、サブキャラクターの自分に次のチャンスが来るかは不確定だ。彼がゲームのサポートに回ることを考慮すると、会えない確率のほうが高い。
(ああでも、会いたいってストレートに言うんじゃなくて、またスケッチが見たいとかって言ったほうがよかったかも……)
焦って言葉の選択を間違えたと後悔していると、考えこむように顎に手を当てていた詠介がそっと腕を下ろした。
「僕でよろしければ、喜んで」
「……っ……」
はにかんだような笑顔に、本気で呼吸困難になるかと思った。
(心臓の音が……バクバクしてる……)
激しくなる鼓動を鎮めようと両手を胸に当てる。深呼吸を二回繰り返したところで、詠介が首を傾げた。
「絃乃さん? どうしました?」
「……い、いえ。今後とも、何とぞ、よろしくお願いいたします……」
深々と頭を下げると、詠介も同じようにお辞儀をする。
「はい。こちらこそ」
柔らかそうな波打った髪を見つめながら、絃乃は切なくなる恋心を持て余す。
(せっかく生まれ変わったのだもの。私は――彼を落としてみせる)
目の前には、前世で絶対に恋仲になれなかった相手。一番恋い焦がれた彼を前にして、諦めるという選択肢はなかった。
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