第95話 おじさん、すべてを消し去る
あの日。
僕達ストラヴェック
大切な日ではあったけれど、朝の景色はいつもと変わらなかった。
いつもどおりの朝食、いつもどおりの会話。
「――ねぇ、アル君。今日も遅くなりそう?」
「多分。例の実験の日だから、ごめん」
「ううん、大丈夫。……あのね。帰ってきたら、ちょっと話したいな」
僕は頷いて、それからチトセにキスをする。
出かける前の、いつもの儀式。
「おとしゃん! カレンも! カレンもちゅーするー!」
「はいはい、分かったよ」
飛びついてくるカレンを抱きしめ、額にキス。
「ねえおとしゃん、ル・シエラは? いつかえってくる?」
「そろそろ妖精達の“舞踏会”は終わる時期だ。帰ってきたら、いっぱい遊んでもらうんだよ」
「うん! あのね、すべりだい、するー!」
僕は立ち上がると、扉を開けた。
「いってらっしゃい、アル君」
「ああ。いってきます」
屋敷を出たら、すぐ隣が研究所だった。
王都では出来ないような種類の実験を行うために建てられた分室。
資料や資材の豊富さでは王都に劣るけれど、施設は新しいし敷地も広い。
四歳のカレンを育てながら仕事をするには、最適な環境だった。
「おはよーございますっ、アル先輩っ★ 今日もステキな寝癖ですねっ」
「おはようユーリィ、睡眠時間は充分みたいだね」
「おはようございますアルさん、今日の実験の結界構成で少し気になるところが」
「ああ、そこだね。意見を聞かせて、ヴァネッサ」
研究チームには優秀な人材が揃っていた。
最年少の天才ユーリィをはじめ、慎重派のヴァネッサ、ベテランのブラック、手先が器用なウィリー、朝が弱いアントニオ、子供好きのリサ……
「魔法陣の設置が終わりましたよぉ、マスター・ストラヴェック」
「ウィリー、ありがとう。ブラックさん、一緒に最終チェックお願いします」
「慎重だねェ、ボスは。オイ、アントニオ、残りの
「そういうのパワハラってんですよ、ブラックの旦那! ったく……ああもう、笑ってないで何か言ってやってくださいよアルの兄貴!」
準備は順調だった。
何度も検証を繰り返し、何重にも安全装置を含ませた魔法陣。
周囲の
万が一の場合に備えた各種の防御魔法。
再構築の対象は、魔法陣の中心に置かれた一輪の花。
白い百合を、赤い薔薇に創り変える。
「ロマンチックだよねぇ、アルさんってば。奥さんにあげたりするのかなあ」
「そんな訳ないでしょう、リサ。貴重なサンプルよ?」
「ユーリィがちゃーんと厳重に保管しますからねっ! ヴァネッサさんもリサさんも邪魔しないでくださいねっ」
花を選んだことに、深い意味はなかった。
原理上、実験の対象は
「それじゃ、始めようか。記録班、保安班、準備はいいね。……発動班、始めてくれ!」
大地に描き出された魔法陣を見下ろし、そのすべてを脳裏に描く。
空間に満ちる
発動班――ウィリーとリサによる、ごく当たり前のプロセスを経て。
魔法が発動すると、花は一瞬で光へと変わり。
次の瞬間、実験場に舞っていた蝶が消滅した。
「――――!!」
僕達は、すぐに魔法陣を中心に【
既に構成を取り込んだ
でも、もう遅かった。
魔法の効果は一瞬にして伝播していった。
周囲に生息していたあらゆる植物が消え、潜んでいた生き物が消えていき――
【
急いで市街に戻った僕達が見たのは。
誰もいない街だった。
いつもならば道端で話していた主婦も、市場にひしめいていた商人達も、見回りの衛兵も、ボールを追いかけていた子供達も、酔っ払って騒ぐ冒険者も、貴族も犯罪者も娼婦も貧民も男も女も老いも若きも。
影も形もなかった。
風以外には、物音一つしなかった。
僕は、自分の家に向かった。
「――チトセっ! カレンっ!!」
居間に飛び込むと。
カレンは、チトセの腕の中で気を失っていた。
僕は、その時思った。
よかった。
二人は助かったんだ、って。
抱きしめようと伸ばした手が、触れた瞬間。
チトセは――光になって消えた。
多分、チトセの身体はほとんど
でも、体内に残っていた僅かな
己の命に代えて。
以降の記憶は断片的だった。
被害範囲の調査とか、王立騎士団の事情聴取とか研究チームの解散とか、葬儀とか裁判とか辺境への移送とか、色々なことがあったはずなのに。
僕は何も感じなかった。
ただ全ての出来事が遠くにあるような気がしていた。
自分じゃない誰かに起きた出来事のような。
……事故の後。
しばらく経って目を覚ましたカレンは、記憶の一部が欠落していた。
魔法の影響なのか心理的なショックのせいなのかは、分からないけれど。
特にチトセについての記憶は、あやふやだった。
憶えていることも憶えていないこともあり、整合性がある部分も矛盾する部分もあった。
きっと自分自身を守るために、カレンの心がそういう形になってしまったのだろう。
辛かった。けれど。
あの感触を――手の中でチトセが消えていく感触を、カレンが憶えていないのは救いだと。
僕はそう思った。
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