坂の先の月(さかつき)

久月 ろめ

第0話 プロローグ

帰宅ラッシュが過ぎて、座れるほどになった夜の電車。

車窓のビルの合間合間から隙間を縫うようにキツネ色の月が見える。

今日は殊更に月が大きく見える、ような気がする。


月は不思議だ。どれだけ電車が走ってもほとんど同じ場所に見え続ける。

「人間の世界なんてちっぽけなもんだぜ」

そう冷やかしているようにも見える。


ほんの小さな天体なのに、地球の大海原を操作する。

そんな強い存在かと思えば、時に満ち、時に欠ける、はかない存在でもある。


ある国では「ウサギが餅をついている」という。またある国では「ハサミを振りかざすカニ」だという。

同じものを見ているはずなのに見る場所によってあまりに見え方が変わる。

そして地球から見えない裏側半分はずっと地球から見えない。


隣にありながら、しかし隣にあるがゆえに不思議が多い存在。

大抵の夜は放っておいても見える存在。たまに見えないと恋しくなる存在。



普段使わない駅で電車を降りる。なぜここに足が向いているのか、自分でもわからない。

普段乗らない電車に乗り換える。いつぶりに乗るのだろう。

前にこの場所に来た日の記憶がよみがえると同時に、あの日を最後にしておけばよかったかな、とほんの少し後悔する。


なにか思い出したいことがあるのかもしれない。

あるいは、なにか忘れたいことがあるのかもしれない。


久しぶりに砂浜に立ってみる。

夜から深夜に変わろうとする時間帯の砂浜は静かにキツネ色の月を浮かべた海からの波を受け止めている。

満月のように見えて、ほんの少しだけかじられている月。

完全なように見えて不完全な丸さ。

昼間の水色のような透明のような透き通った海は、この時間帯は全てを飲み込んでしまうように青黒い。

自分の足音だけが静かに響く。

こんな時間に、こんなところにいる。いるべき場所にいない不思議な罪悪感もするけれど、今日という日にはここに来ていたかった。

ここで自分の人生は始まったようなようなものだから。

ここが、すべてが始まる場所だった。あの日、あの時、ここから、歯車は回りだしたから。


今日の月は綺麗だったから、とスマホのカメラを向ける。しかしそこに写るのはただの白い点みたいなもので、生で見る月のインパクトは全くない。


少し遠出しすぎたかな。


おもいでの詰まった場所に帰ること。それだけで、そこにいた日々、そこで過ごした時間が蘇る。

毎日昇って、毎日沈んでいっているはずの太陽でも、ふと意識して日の出や日の入りを見ると感動する。

月も姿を変えながら、雨の日も風の日も空に浮かんでいる。見えていても、見えていなくても。待っている人がいても、いなくても。毎日かわるがわる空から生活や人生の物語を見守っている。


あの月は、あの日のことも見ていて、憶えているのかな。ふと思う。


『一瞬の輝きが、その時だけの物語が一番美しい』

よみがえる記憶をなぞりながら思う。

あの時には考えもしなかった今がある。でも、想像できる未来だったら、それは単純すぎるのかもしれない。

運命は、未来は、決して平坦ではない。裏切られることばかりだ。悪い意味でも、いい意味でも。


変わったね。


心の中の自分にそっと話しかける。

流れた時間の長さを感じる。あの頃はこうなるなんて思いもしなかった、のかもしれない。


終電を知らせるアナウンスが鳴り響く中、やっと自宅へ向かう電車に戻る。

ほとんど乗客のいない上りの最終電車。


しあわせとは何なんだろう。


考えてしまう。ほしいものはほとんど全部手にしたはずなのに。


思い描いた理想が叶うことなのかな。

ただただうれしいことに満ち溢れた毎日なのかな。

大切な人が笑顔でいられることかな。


自宅の玄関の前で、ふと振り返る。

さっきまであんなに魅力的なキツネ色でずっと大きかった月が、寝静まった住宅街に浮かぶ、普段通りの何の変哲もない白い小さな月になっていた。


ただいま。遅くなったね。

坂の先の月に、そっとつぶやく。

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坂の先の月(さかつき) 久月 ろめ @247C05

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