くだらないこと、いらないもの

八重土竜

石の油を飲んだ人鳥

僕はいるよ。ここに。

君は知らないかもしれないけれど、君が生まれる前からずっとここに。いつか君は僕を見つけるよ。

僕はそれまで君を待ってる。この暗い場所で待ってる。




 動物園に足を踏み入れたのなんか、本当に久しぶりだった。数年前、写真を撮るために友人と来て以来だったろうか。この間までは私ともう一人いたけれど、その子は水に流してきてしまった。下水の金魚と踊りを踊っているに違いない。

 地面に薄く虹色に光る水たまりができている。私の周りにいるのは、ピンクと水色の服を着た人たちだけだ。

 家の戸棚を開けて、私は探し物をしていたのに、いつしかこの動物園につっ立っていた。子供と動物園に来たいと願っていたからかもしれない。

 いつか遠くの未来に、私はかわいい子供の手を引いて動物園に来るのだ。

 だが、今ではない。

 自分の服はピンク色でも水色でもなく、ただただ目が覚めるような真っ赤な色だった。幸いだ。好きな色で助かった。ピンクなんか着せられていたら、発狂するか子供みたいに泣き叫ぶかしていたに違いない。子供みたいな膝丈のワンピースを私は恥ずかしげもなく着ている。

 空を見上げると、絵の具の空色がベッタリと平筆で塗りこまれていた。小学生の時に親に強請って買ってもらった空色の絵の具を思い出す。今ならあれに似た色を難なく作れるのを知っている。どうしてあの時、こんな色を買ってもらったのか、それが思い出せなかった。親も同じような気持ちを抱いただろうか。

 空色の絵の具は結局使い切る前に乾燥させてしまった。

 ポツリポツリと歩き出す。

 私は探し物の途中だ。早く家の戸棚に会って、彼の顔面を割って中身を取り出さなきゃならない。

 ライオン、ゴリラ、フラミンゴ、馬にオウムにモルモット……動物をしりとりの順に並べたらどこかで捕食が始まるに決まっている。檻に書かれた名前を呼んで笑っている自分がいた。

 ところで、隣を水色の服の人が通り過ぎていった。

 生臭い。

 魚を腐らせたのの匂いに似ていた。海辺にしばらく住んでいるので、テトラポットに運悪く引っかかってしまった魚が腐ってひどい臭いをさせていたのを見たことがあるのだ。飼い犬の口臭にも似ていた。

 だから、その匂いを生臭いと言える。

 動物園にペンギンがいるのを皆はどう考えるだろうか。ペンギンも動物だから変ではないと言うのか、ペンギンは水棲生物だから、水族館がお似合いだと言うのか、それともペンギンなんて食ってしまえというアザラシだっているかもしれない。アザラシは絶対に水族館側だ。

 私が頷いた。足元には七色に光る水たまりがあった。

ペンギンのコーナーだ。

私はペンギンが動物園にいようと動物園にいようとどうでもよい。

どこの動物園とは言わないが、ペンギンの展示が二箇所もある動物園に行ったことがあるからだ。

ペンギンは北極にも南極にもいなくて、おそらくは動物園に行けば見られるものだから、とても気軽だ。

 とにかく、ペンギンは生臭い。

 狭いプールは掃除されていないらしい。ペンギンのとろけた残骸とか、嘴、羽根、ヒレ、魚、鱗、骨、それから、小さいペンギン。

 周りにいる人たちも臭そうにしていた。でも、熱心に見ていた。

 プールの端々も七色に輝いている。気味が悪かった。

ペンギンは島に上がってぐったりしている。緑色になっているのもいれば、羽が禿げて、肌から血が出ているのもいた。肉が溶けてピカピカの骨が見えたままひょこひょこと歩いていた。

 いつの間にか、ペンギンが一人、私の隣に立っていた。

 目を合わせるとしゃべりだす。キィキィ声かしらと思ったら、ゆっくりとした声だった。


「こんにちは」


「……こんにちは」


「もしよければ、僕を連れて行って欲しいんだ」


「連れて行くって、どこまで? 私はタクシーじゃなくってよ」


「おぶって連れて行って、なんてそんなことは言わないよ。それに僕は君のカバンに入る大きさじゃないでしょう? 君についていきたいだけなんだ」


「どうして?」


「僕は石鹸だからだよ」


 一人のペンギンは私にそう言っていた。

 ペンギンは生臭くない。白く濁った目をしていた。プールにいるペンギンは黒くピカピカした目をしている。となりの檻のオランウータンがこちら側に一生懸命手を伸ばしていた。気味が悪かった。まだ、オランウータンが喋ったほうが現実味がある。それほど、彼は喋りそうな形をしていた。

 ペンギンの足元は七色の水でべしゃべしゃだった。気がつけば私の足元もだ。ガソリンスタンドに似た匂いがした。

 ペンギンと二人で足元の水をバシャバシャして遊ぶ。子供みたいで楽しかった。ワンピースの裾は、固く黒く汚れた。


「私があなたを連れて行けば、ここのペンギンはみんな助かるの?」


「いいえ」


 かわいそうなペンギンたちだった。


「助かりません。でも、僕はあなたと行けば必ず助かります。それに、絶対に楽しい」


「私といて楽しいの?」


「はい、楽しい。あなたと一緒に居たい」


「それはかっこいい人に言われたいセリフだわ」


 私は思わず笑った。

 私の笑い声を聞いてプールの中のペンギンたちも、隣にいるペンギンも笑った。ギィギィという変な声だった。

 ペンギンがまたしゃべりだす。同情して欲しいのではなく、心配して欲しいという気持ちもなく、きっと私に今を知って欲しくてその話をするのだろう。ペンギンの語り口は、自分がなんたるかを知っているようだった。


「僕たちペンギンは病気でいるのです。水に溶け消えてしまう病気なのです。私の妻もついこの間この病気のせいで死にました。お腹がすいたから海の中の魚を取りに行ったのです。人間は泳ぐようにできていないから知らないかもしれませんが、僕たちの海は小さく、そして一定の方向に流れがあります。僕たちはそれを海流と呼んでいますが、その海流に沿って死んだ魚が泳いでいます。海には排水口というものがあって、もう二ヶ月もその口は開いていませんでした。妻の病はもうだいぶ進行していて、頭以外はすべてが石鹸でした。水に入ってぐるぐる流された妻は、中からも外からも溶かされてしまって、見るも無残な状態で、水からなんとか引き上げることができたのは彼女の頭の部分だけでした。体が無くなった妻は飢えて死にました。去り際、妻が僕に、『赤い服の人が来たら逃げられる』と言ったのです。その赤い人とは多分あなたのことです。あなたが来たから僕は逃げられる。だから、お願いです。僕を連れて行って、僕にはもう妻も子供もありません。あるのは妻の溶け消えた海とあなただけです」


 私はペンギンの言うことが上手く理解できなかった。でも、確かに言えることは、彼の言うところの海がプールで、そのプールの水がグルグル回っていて、餌の魚は死んでいて、彼以外のペンギンは助からないのだろうということだった。

 それから、私は確かに赤い服を着ている。

 さらに生臭く、血の匂いも混ざり始めていた。私はなるべく口で呼吸することにした。鼻をつまむにはまだ少し早いような思いがあったからだった。

 私が訊く。


「ねぇ、どうしてペンギンは病気になってしまったの?」


「石油を飲んだからです」


「石油はお金になるじゃない」


「いいえ、石油はお金になりません。ただただ僕たちペンギンを病気にしていきます。石油を飲んだ病気です。これは石鹸病といいます」


「石鹸病」


「お願いします。僕を助けてもバチは当たらないはずです。妻は死にました。あんな風に頭だけになって死にたくないです。お願いします」


 ペンギンがとうとう泣き始める。ポロポロと海水のようにしょっぱい涙はペンギンの顔を溶かして落ちていった。最後には七色の水たまりに混ざった。これがきっと彼の言う石油なのだということを私は知った。

 かわいそうに、ペンギンはもうひとりぼっちだ。私も一人ぼっちなのだ。

 一人と一人がペンギンと。

 一緒にいるのではなく、ついてくるだけだ。ペンギンは私の真似をするだけ。

 ついてくるなら、来るといい。


「ねぇ、赤い人、あなたは建物は好きですか?」


 ペンギンがそう言った。何か思いついたような声だった。

 とうの昔にオランウータンの檻の前は通り過ぎていた。彼は悲しい顔をしていたかもしれない。

 相変わらずペンギンは白く濁った冴えない瞳をしている。

 園内はすみずみまで歩き尽くした。ペンギンはまだどこにもいかないし、ペンギンを連れ歩いている人も見なかった。

 べったり塗られた空色の空をペンギンが見ている。何か言いたげだった。私はジュースを飲んでいた。ペンギンの歩いたあとは、虹色の水たまりがベチャベチャと残っていた。


「もう少し行くと古い建物があるんです。好きですか?」


「好きかどうかは……古いってどれくらい古いの?」


「とてもです。とても古い建物があります」


「よく知ってるね」


「はい、僕は昔飛べるペンギンだったので、だから知っているんだと思います」


「今は飛べないの?」


「はい、今は飛べません」


「病気のせい?」


「いいえ、違いますよ。きっと年のせいです」


 ペンギンはそんな悲しいことを言った。

 私が頷くとペンギンも頷く。どうやら彼は私の言いたいことがわかるらしい。もう、私の意見を言うのはやめにした。

 今度はペンギンが私の前を歩いていく。私が想像しているような足音は聞こえない。その時私は始めて、ペンギンは歩いてもペタペタと可愛らしい足音を立てないということを知った。私やその周りの全員が知っているあの音は私たちの妄想なのだ。その途端、周りのすべてのものが白い線を持っているように思えた。ペンギンの石鹸病がリアルに私の手の中に落ち込む。

 彼は自分が思っているよりもずっとこの動物園の動物なのだろう。なんの迷いもなく私をその古い建物の方へ導いていく。それとも本当に彼の言うように彼が昔は飛べるペンギンだったからかもしれない。

 いくつかの檻の前を通り過ぎていって、そのうちに古い石造りの建物に辿りついた。白っぽい石を積み重ねて作られている。どこかにある美術館に似ていると私は思った。

 ペンギンが嬉しそうにしゃべりだす。


「ここが古い建物です。どうですか? 好きですか?」


 アーチのような形をしている入口に立ったペンギンが濁った瞳で私を見上げていた。私はなんとも返すことができない。好きでも嫌いでもなかった。

 アーチの先はそのままずっと薄青い照明が続いている。何かの遺跡なのかもしれない。遠くから何度見直しても、光源のようなものは見当たらなかった。

 私が答えられないでいてもペンギンは話を進める。


「どうやらここは昔、母親だったようなのです。あなたは母親を知っていますか?」


「母親ってあの母親? 定義はできないと思うけど、知っているわよ」


「なら、良かった。母親といっても色々ありますからね。それはあなたが思い浮かべるそれでいいのですが、とにかく、ここは母親です」


「なら、この入口は産道かしら?」


 私が言うとペンギンが笑う。この間のようなギィギィという笑い声ではなく、子供のようなはしゃいだ声だった。


「それは子宮じゃないですか。子宮は子供が来るところで、母親ではありませんよ。子供の宮と書くじゃないですか」


 子供の宮、ああ確かに、と思って私は頷いた。子供の暮らすところであり、子供の都だ。羊の水と、血の壁と、赤い薄明かりに包まれた拍動の都。

 私が言った。


「羊水の中、ペンギンは泳げるの?」


「まさか、僕は石鹸病ですから、水はどんな水でもダメですよ。ましてや羊水なんて……私は子供じゃありませんから」


 彼は首を思い切り横に振って、それから嘴も何度も開閉した。壊れたおもちゃのような動きだったので、私はますます笑ってしまった。

 少し屈んでペンギンの片手をとる。ちょうど後ろから見れば親子に見えたかもしれなかった。

 ペンギンの腕は冷たく、ツルツルしていた。辛うじて羽のような感触もあるが、どちらかというと長い間放置していた石鹸のような触り心地だ。彼の手を握ってまた歩く。

 ふたりの足元に、また虹色の水たまりができているのを私は見ていた。

 ペンギンと手をつないだまま建物の中に入る。中は青い照明に似合わず、少し暖かい。アーチがいくつも組み合わさったような形になっていて、それがずっと先まで続いていた。埃っぽくもなんともなく、ただただ薄青い道が続いているだけだった。

 明かりがどこから来ているのかと思えば、アーチの天井の隙間から漏れ落ちている。はじめはもっと明るい青だったのかもしれないが、今私の目の中に入り込むのは暗っぽい薄青だ。

 コツコツと足音をさせながら歩き続ける。

 色と雰囲気は私の大好きな水族館にそっくりだ。時に、ペンギンが一緒にいるからかもしれなかった。

 でも、どうして私は動物園なんかに来ているのか。水族館なら、海豚も、鮫も、海牛だっているというのにどうしてこんなに病気にかかったペンギンなんかと私は建物の中を歩いているのか、私は本当に疑問になった。

 ペンギンにどうしてかと聞こうとしたその時、ペンギンの手を握っているのと反対側の手を、子供の小さな手がギュッと握った。手の主からしたら痛いくらいの力を込めて握ったのかもしれないが、私はちっとも痛くない。小さな小さな子供の手だった。

 そちらの方には本当に子供がいる。まだ小さい、大きな目をした男の子だった。黒目がちな瞳と私の目が合うと、彼がにこりと笑う。きっと将来はイケメンというやつになるに違いない。でも、彼は生きていないような気がしてならなかった。

 彼に呆気にとられていると、今度はペンギンとつないでいたはずの方の手にぬくもりが這い上がってくる。

 柔らかく、暖かい、小さな手が私の手を握った。

 驚いてしまって、そちらの方を見ることはできない。だが、本能的でわかった。今私の手を握っているのは小さな女の子だ。絶対そうに違いない。

 踊りだす心を押さえつけると、ふと疑問が生まれた。

 ペンギンはどこに行ったのか。

 私の左右には男の子と女の子がいて、ならば、ペンギンはどこに行ってしまったのだろう。急いで振り返るが、虹色の足あとはもう私の一人分しか残っていなかった。

 代わりに足あとは三つ分だ。べしゃべしゃという足音を立てていたペンギンのものより数倍も可愛いペタペタという足音が私に合わせてついてきていた。

 女の子の方をドキドキしながら見る。心臓がひとりでにロデオをしていた。牛もいないのに。

 男の子の物に似た瞳がニコリと私に笑いかけた。


「あ、あなたたちはどうしてここにいるの?」


「私たちはずっとここにいるのよ。それで、これから先もここにいるの」


「そ、そうなのね」


「そうなのよ」


 女の子の可愛らしい声に私は驚いてしまって、足元を見ることしかできなかった。

 かわいそうに。この子もこんなに可愛いのに死んでしまっているなんて、どんなに酷い世界のことか。彼女のことを殺したのは誰なのか、と私は憤ることしかできなかった。

 ペンギンの姿はいつの間にか消え、ペンギンの事実すらも、私の中から消えていた。初めから私とともにいてくれたのはこの二人であるのだというどうしようもない思いがあった。

 私がふたりの手を軽く握り返す。二人が笑った。

 男の子のほうが不意にしゃべりだした。


「どうして赤い人はここにいるの?」


「……わからないわ。どうしてかしら? もしかして、迷子なのかも知れない。それなら、私はとても困るわね。だって、行き先も目的も、自分が何をすべきかもわからないんだもの。もしかしたら、ここに誰かと一緒に来たのかも知れないけれど、私、あなたたちとずっと一緒にいたかしら?」


「これからはずっと一緒でしょ? 赤い人と僕らはずっと一緒のはずだ。そうでしょ?」


「それは嫌だわ。あなたたち若いもの。若い人は私より先に死なないようになっているから、だから私とずっと一緒だなんてことありえない。それに私、死にたくないわ」


 私がそう答えると、二人ともとても悲しそうな顔をした。多分、私がひどいことを言ったのだろう。そんな気がした。

 三人で手をつないで、しばらく歩く。建物の中はゆるいカーブを描いていく。少し先に赤い光が見えていた。防火の赤のようだった。

 私が尋ねる。


「ねぇ、あの赤い光は何?」


 男の子が青い光の先、目を細めるようにして見てから答えてくれた。


「あれは神様の光だよ。僕たちにとってはとても強い光だ。僕たちはあれを見ることは適わなかったから、とても羨ましいと思うし、恐ろしいとも思うんだ」


「どうしてふたりはあの光を見ることができなかったの?」


「いろいろな理由だ。それがたくさん重なったせいなのかも知れないし、あるいはそれのどれか一つ、例えば時期が早すぎたっていう理由だけだったのかもしれないけど、それはきっと赤い人のせいではないと思うよ」


 それに、女の子が続けた。

「とにかく、私たちには事情があって、この世界と折り合いをつけたの。確かにあの赤い光は何なのかとか、私はどうしてしまったのかとか、気になることもたくさんあるけれど、今はこうであって良かったってちゃんと思ってるよ。それに、あなたとこうやって手をつなぐことだって出来たし」


「そう」


 ふたりの話は余りにも長く、私は穏やかな睡魔に身を攫われつつあった。

 今度は二人に手を引かれるようにして歩いていく。赤い光にだんだんと近づいてきた。青い光と赤い光が混じり合っても、紫の光にはならないんだな、と思った。そういえば、動脈血と静脈血が混ざり合っても赤いままであるし、どちらにせよ血が赤いのを思い出す。

 私がふたりの背を見ながら聞いた。


「二人は双子なの?」


「いいえ、違うわ」


「でも、一人の人から出来上がったんだ」


「そうなの……ねぇ、出来上がるときはどうだった? 痛かった? 辛かった? 血は沢山出た?」


「赤い人は自分が出来上がったときのこと覚えている?」


「いいえ。もうとっくの昔に忘れたわ」


「なら、僕たちだってとっくの昔に忘れてしまったよ」


「そうなのね」


 私が頷くと二人は笑った。

 赤い光の前に男の子と女の子が歩み出る。

 恐ろしい顔をした女がふたりのことを見下ろしていた。天井から生え出てきた手が、女の子の頬を優しく撫でていく。男の子は頭を撫でられていた。

 女の子が言った。


「どうか、お願いですから、私たちと赤い人のことは放っておいてください。なぜなら、もう責められることも、苦しいことも終わったんです。彼女は若いからこれから、もっと多くの、難しいことにぶつかって、戦って血を流すの。私たちはもう過ぎた戦争だから、あとは彼女の傷の瘡蓋が乾いて傷跡になりますようにと願うだけだから、赤い光で焼き殺すなんて酷いことはしないで欲しいの」


 男の子が頭を撫でる手を振り払う。


「血はもう止まったんです。もう瘡蓋だって治っていいのに、酷いことをしないで欲しいんだ。だって、水は全て乾いているし、知っている人だってたくさんいる。それにいま彼女は独りじゃない。赤い人は生きているから、いつか水の中の石鹸みたいに小さくなって消えてしまうんだ。だから光がどうこうすることもないんだ」


 赤い光に向かって叫ぶように言うふたりを見て、私は漸くあのペンギンのことを思い出した。そうすると、何故だかすぐにでも彼に会わねばならない気がして、大急ぎでふたりの手を取って走り出した。


「走って。行かないと。私たち行く場所があるはずでしょう? どうしてこんなところにいたんだろう? それに会わせたい人がいるの。二人にも一緒に来てもらわないと。きっとみんな喜ぶわ。みんな私が好きで、それで、子供が好きなの。病気のペンギンもいるんだよ。だから、速く走って」


 ふたりの小さな手を引いて走る。

 ふたりがなにか私に話しかけていたが、もう聞いていることはできなかった。

 建物を抜けると、そこは大きなスーパーマーケットにつながっている。

 私は更に、買い物を思い出す。




 人の話し声が思っているよりも大きく聞こえる。皆今日の夕飯を買いに来ているのかもしれない。カゴの中に入った色とりどりの肉が異様に目に入った。


「買い物をしなくちゃ。鶏肉と、もやしと、あとキャベツかな? 二人は何が好きだっけ?」


「えっと……」


「お菓子は好き? 私はこんぺいとうが好きなの。二人ともお菓子を買ってあげるよ。あんまり高いのはダメだけどね」


「何買ってもいいの?」


「いいよ。好きなもの買ってあげる」


 三十代半ばの主婦らしき女性の横を通り過ぎて、陳列棚の間を歩く。手をつないだ三人が、どうか家族に見えますようにと願わずにはいられなかった。

 夕飯の材料と、新しいライターを買うのだ。

 お菓子の棚に来て、三人で商品を見つめる。私もとても懐かしい気持ちになった。子供のような心に、お菓子のギラギラとした袋はとても美味しそうに見える。


「わぁ、何にしようかなぁ……」


「何が好きなの?」


 女の子にそう聞きながらチョコレートの袋を物色する。男の子は食玩を見て回っているようだった。


「アメかなぁ? 色んな色のが入ったやつ」


「いろんな色……この袋に入ったやつ?」


「違うやつだよ。音がする奴」


「ああ、缶に入ってる奴ね」


「缶! そう! 缶に入ってる奴。おいしいの!」


「わかった、わかった。そう、あれ、美味しいよね」


 缶に入った色とりどりのアメなら私も知っている。私も好きだ。女の子にその缶を渡してあげると同時に男の子はひとつだけ食玩を握ってやってきた。可愛らしい犬の食玩だった。


「買ってくれる?」


「もちろん」


「赤い人は何も買わないの? お菓子美味しいよ?」


 男の子がそう言って色とりどりのお菓子の袋を私に差し出す。私という卑しい人間は到底一つを選べるはずがなかったのだ。あの時だって一つを選べなかった私には難しい。

 お菓子の並ぶ棚を少し迷いながら眺めていると、棚の一番高いところに並ぶ瓶が目に付いた。

 抱えるくらいの大きな透明の瓶に一つ一つ種類分けされたいろいろなお菓子が並べられている。目を滑らせていくと、私の大好きな、こんぺいとうの入っている瓶もあった。

 私がそれに惹きつけられているのに気がついたのか二人も上を向いた。

 こんぺいとう、グミ、ガム、ジェリービーンズ、ラムネ、チョコレート、キャンディー。色とりどり、大きいの、小さいの、乾いたの、濡れているの、目を横にどんどん滑らせていくと、瓶の中に入ったペンギンを見つけた。


「……ペンギン」


 瓶の中で彼が何か言っている。


「あなた、石油のペンギンでしょ」


 そう言った途端、並んだ瓶が全て割れて、二人の子供が消え去った。スーパーマーケットのパイプが剥き出しになった天井がバリバリと雷のような音を立てて剥がれていく。水色の空が私の軽い体を吸い上げた。




 空に舞い上がって、波に揉まれるようにしてグルグルと回転すると、脳みそや内蔵までぐるぐるに掻き回された。苦しいとは思わなかったが、なぜかお腹がすいた。

 ミキサーに入れられたようになっていると、空を飛べるようになったペンギンが私に近づいてくる。


「赤い人、ねぇ、赤い人。どうか私の妻を助けてください。彼女が死んでしまう」


「妻は死んだと言っていたじゃない。嘘つきね。あなたが石鹸なのも本当は嘘なの? どうして私についてくるの? あなたはもう助からないんじゃないの?」


「助かります。助かるんです。絶対に」


「だって、あなたはペンギンじゃない。助かるも助からないも、空だって飛ばないし、喋らないし、歌わないし、石油の海に浮かぶことはない。檻の中で生まれたのなら一生檻の中で生きるはずだし、ポテトは食べないで、魚の肉ばかり食べるのに!」


「ペンギンはペンギンであるべきですか?」


「そうよ。みんな言うじゃないか。女の子は女の子であるべきで、スカートをはくべきだって言うし、男の子は、身長が高くてお化粧はしないっていうのに、なのに私からは血が出ていく。私は何なのか、とか七人分の誰かなのか、とか。だって、誰にも言えないことだって、言ってないことだってたくさんあるのに!」


「なら、誰かに言えばいいのに! まだ言えます。死んでない。口が動く!」


 空色がぱかっと二つに割れて、中から出てきたのは日常生活用品だった。お祝いでもらった洗剤や、まだ袋に詰められたままのタオルやら色々だ。

 私は探し物をしていて、私が生まれた時にもらったペンギンの石鹸を探しているのだった。

 痛んでいた下腹部はもう軽い。


「あー、あったあった」


 二つで一つのセットだった石鹸はもう片割れは全て使い切ったあとだ。手のひらに収まる大きさの黄色いものを捕まえて、私は夢から覚めた。


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