とある教室の風景~~~誰が貴方にやったサイン帳の又貸しなどした覚えはねえっ!!

まおおずみ

第1話


 

 ──初夏の青空が広がっている。


 少しざわついた教室で、窓側に並んだ八枚ある窓ガラスから外の景色をカーテンに邪魔される事もなく眺めていると……。


 予鈴が鳴り終わる。


 それをどこか他人事のように、無責任に聞き流す。明るい日差しがちょうど良く射し込んでいる。特に理由はないのだけれど、まんざらでもないという感じがする。休み時間の余韻が残ったまま生徒達が思い思いに、これから授業を迎えようとしているところだった。実際に始まるまではこのまま、まだくつろいでいても良いかなと、ゆるんだ様子が感じられる。


 しばらくした頃。


 教室の前の扉をゆーーーっくりと開いて、何だかもうそれだけでやれやれと呟いている小柄な女性が、ぐぎぎぎぎと悪戦苦闘の末に辛くも勝ちを収め、少しよろけたりなんかしながらどうにか扉を開けて入って来た。


 額の汗をぬぐう仕草を見せて、本当に激しい闘いだったなあと、今は感慨深く一息ついている。ついでに彼女はどんより重い空気を連れてきた。


 季節柄、多少むしむししている室内の空気と連れてきてしまったその重苦しい空気が合わさると、もうそれで、勘弁してくれと言いたくなるような湿気がぐんぐん増してゆき、ここらでもう目一杯だというのに構うもんかよと気だるさを増して、その内、快適さを押し退けた不快感がのし掛かってしまうまでとなった。


 だるい、ちょっとタンマ、降参させてくれ……。


 いつの間にか彼女はうつむいて、力なく肩を落としていた。


 黒髪の間から潜めた眉と陰りを落とす顔立ちを覗かせて、あらゆるものを重苦しくさせている。


 教室のざわめきはいつの間にか静まっていた。生徒達の関心が彼女に集まっていた。無数の眼差しが今は穴が開きそうなほど見つめている。一人の例外もなく、揃いも揃って食い入るように、とにかくもう魅入っている。彼女がようやくそれに気付く。


 生徒達の視線に思わず、ひっと小さく声を漏らしてそれから腰が引けてしまった。なっ、何でこんなに見られているの。


 今の自分の姿がどう見られるかという自覚がない中で、動揺して、弱々しく気後れしてしまった。


 何かしたっけかなあ。考えてみるものの、本人としては特に思い当たるような事はない。はず、なのだけれども、生徒達の視線は変わらず集中している。


 あんまりにも見られているので居心地の悪さから、どうしよう、とにかく逃れたいからもう何でもいいやと、そこで苦し紛れの咳払いを一つかましてやった。


 ギャフンッ!!


 本当に落ち着きの悪さを誤魔化すつもりだったのか、それとも威嚇でもするつもりだったのか、あるいはしくじってしまった表現なのか、少し派手に鳴りすぎてしまった場違いなそれが、静まり返っていたところに轟いて響いた。


 その後に白けた空気がやって来て、シーーーンと漂った。


 学校の教室という異次元空間に今まで以上の気まずい沈黙が広がった。自意識過剰という訳ではない。おかしいなあ、何だかやればやるほど上手くいかないような気がしてくる。彼女は困惑しながら首をかしげた。あれえ……。


 それでもこういう事は良くある事だから。黒板の上にある時計をちらりと確認して、これから授業だと気を取り直して何でもない素振りを振る舞いながら、ぶつぶつ呟いた。何でもない。何でもない。それから仕方なさそうに振り返って、入ってきてそのまま開きっぱなしになっていた扉をのっそり、と閉める事にした。


 彼女は力を溜めている。神秘的なイメージで力を溜めている。初夏を思わせるキラキラしたブラウスと、紺色の地味な膝丈スカートという装いでいる。自分の肌の色に近い色合いのストッキングを選んで、緑色のシングルストラップのサンダルを履いている。


 どんよりとした雰囲気ばかりではなく、足元から立ち上る覇気と漂う謎の雰囲気が存在感を増して様子を伺っている。恐ろしい事に、そろそろ溢れ出してしまうかも知れないなあ思うにこういうやつあ──


 扉を閉める。


 ようやく一仕事終えたという風に、彼女がここで一息ついた。途端に立ち上る安堵の表情。やれやれ面倒が一つ片付いた。初めてほがらかな様子が顔に浮かんだ。


 それから何かを確認するように頷いた、胸の前で神妙に腕を組んだ、ついでに表情を変えた、厳めしい顔をしている、これだけ気合いを入れたんだからもう、覚悟だって決まっちゃったんだぞ、という感じだろうか。


 一生懸命で微笑ましいという印象に定着した。


 本人の思惑とは恐らく関係なく、やればやるほど愛嬌が極まっていく。彼女は力を溜めている。神秘的なイメージで力を溜めている。心なしか表情が和らいだような気もする……。


 それから振り返った。


 何でもない事だぜ!


 ばばん。何でもない事だった。

 得意気な顔をして構える。

 何でもない事だった。

 思わず笑顔が浮かんだ。


 ここで一人の生徒が席を立ち、教卓の置かれている教室の前側の方へ駆け寄りながら、何故か手にしているフリップボードを皆が見えるように掲げた。


 こう書いてあった……。


『──存在感を増した謎の雰囲気が漂う女の子はご満悦な様子で腕を組んでいるこのクラスの担任教師だった。もっとも、ウケを狙った極端な事をわざわざ嫌われるちゃちなもんじゃねえ。存在感を増したこのクラスの担任教師だった様子で漂う女の子は腕を組んでいる謎の雰囲気がご満悦な──』


 頼れる奴なんだぜ!


 ばばん。自信満々という顔で彼女が構える。


 どうだあ、と言わんばかりの大迫力を見せつけられてしまった。驚いた。実はこのクラスの担任教師だった。なるほど。そう言われてみると頼れる奴だった。そう言われてみるとそうだった。


 そうだった、そうだったと、納得する生徒の声が教室の至る所で囁かれた。うんうんとうなずいている。


 それから生徒達の間でだんだんと、調子が上がっていく様子も伝わった。


 それがだんだんと盛り上がる形で伝わっていった。


 やがては、ぐつぐつと煮え立つような衝動に変わっていった。


 そこに手拍子なんかが加わってしまったらもう、大変だっ!


 一人の生徒が勢い良く席を立った。


 打ち鳴らされる手拍子のリズムに合わせて、誰がクラスで頼れるのって調子良く節を付けながら華麗に歌った。


 それは思わず耳を傾けて聞き惚れてしまうほどの美声を誇った。


 そして気付いた時にはもう、その生徒が駆け出していた。そのまま机と青春と今しかない時を爽快に走り抜けていく、これでもう止まらないし止められないぜっ!


 最高だっ!


 上履きのゴム底がリノリウムシートの教室の床をやっつけようとする勢いで、ギュギュっと噛み付いて、どちらからともなく悲鳴のようなかん高い音を鳴らす。それをためらいなく蹴って、蹴って、やっつけながら、阿鼻叫喚が反響する教室を容赦なく蹴り飛ばしてやる。そのまま光の速さで駆け抜けていく~~~☆


 そんな自由を見せ付けられたらもう絶対に、負けていられない。


 我こそはと望む生徒達がそれぞれの席で立ち上がった。


 選ばれしもの達よ。荒ぶる魂よ。さあ今こそワクワクさせやがれ!


 一歩出遅れてしまった腹立たしさや悔しさを、それでまぎらわすように、一喝!


 勢い付いた生徒達がさあ巻き返しだと、立て続けに続け続けと、続いていく──。


 ギュッ。ギュ。


 ギュッ。ギュ。


 走り出す。


 それからは床だろうが何だろうがやっつけて蹴飛ばして吹っ飛んで、反響して微塵に埃を巻き上げて、すっ転んで潔く悲鳴を上げつつ、サッカーボールの痕跡が目立つ天井の片隅に向かって伸ばした自身の手の平を、志なかばにして無念に力なく垂れ下がって、その後々屍を晒した教室というさながら戦場そのものを、躊躇なく踏み越えてその後にまだまだやって来る生徒達が力強く駆け抜けていく様を。


 それが続いて! 続いて! 続いてぇっ!?


 まだまだ続いてえええええーーーっ!?


 怒濤の魂の神憑り的なシャウトが局所的に揃いも揃って揃ってしまった。


 それはもう、かんだかーーーい!!


 足踏みどもが主張し合いながらそれでも連なって、猛り狂う無我夢中で駆け抜けて担任教師の所へ喜び勇んで参じると、やんやと取り囲むように揃ってもう大の生徒共が競い合うように、押しくらまんじゅう、どうぞどうぞと譲り合う激戦が繰り広げられるまでの譲渡と発展、登り詰めた何と言う教室の乱だろう。やあ。やあ。やあ。ここからは開き直って参ろうぞお。それでは改めましてどなたさまも、生徒の皆さまも──


 ──どうぞおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお~~~っ!!


 ──それをきっかけに加速する。


 よっ、待ってましたっ!


 あんたが一番っ!


 ええ~んや。そいや。そいや。そいや、そいやそいやそいやあ~っ!


 あいや。ああっ、すみませんね。すみませんね。


 いやいや、本当にこちらこそ、こ~ちらこそ、どうぞおおおお~~~っ!


 あおあ~っ、あちょ、ちょまっ、待っ


 よっ、待ってましたあああっ。あんたが教師っ!!


 ──こうなるともう誰にも止められない。


 待ってましたあああっ!! 担任教師っ!!


 掛け声も上がるとそれから、流れが掴めない困惑した顔を異様な熱気で包み込む。こうなるともう誰にも止められない。まるで舞台にでも──


 ところで。確か今は授業中だったはず、一体これは何時までやっているのだろうか、そもそもこれは何なのだろうか。ちょいとその辺の訳を伺ってみる事にすると、


『──大事な所だから。後にして──』


 そう書かれたボードを突き出して、蝿でも払うように手で追い払う仕草をする。取り付く島もない生徒だった。


『──ところが! その私情を挟まない仕事ぶりには実は定評があった。畏敬の念を覚えるほどであった。とにかく最高だ。影に日向に立ち回って活躍。大活躍。天晴れ。大大大っ! 大大大活躍っ! ああっ! もうとにかくそんじょそこらのクラスの絶大な信頼は得ているので、凄いのでそこは、そ、こ、は誤解しないでもらいたい。今だって、実はこうして、クラスのアホ共の様子を観察している所だった。やり過ぎたら途中で止めようと、アホ共に注意を払いながら──』


 激しい様子で書かれたボードを突き出している。


 自前の口でべらべら喋ってるんじゃなかろうか。そう思えるほどの剣幕が、やかましく書かれている。しかもそれがつらつらと、やたらしつこく長ったらしい文章で記されていて。


 ……ちなみに書かれている内容を簡単に説明すると、『俺は凄く役に立つ!』そういう感じの事だった。自己顕示欲よ極まれ。


 突き付けている本人は意味深な表情を浮かべていて、それから笑顔でニッコリと。


 良い気分、なのかなあ……?


 気分が良いなあ。良かった。窓から見える空も晴れ晴れとして見ていて気持ちが良いもんなあ。まったく、いちいち大げさで激しくてそしてややこしい奴だよなあ。嗚呼、本当にややこしい。


 ややこしい奴が急に身構えて、何かを察知した様子で彼方へと睨み付けるような視線を送る。そして前触れもなく動き出した。唐突に動いたものだから消えたように、そう見えた。次にはもう油断も隙もない加速でたちまち机の間を縫うようにして、ややこしい奴……。


 フリップが飛んだ──。


 着地すると同時に派手なスライディングをかまし、その際どい姿勢でゴム底を床に滑らせて耳障りなけたたましい音を上げる。そして、未だに盛り上がる生徒達の元へとそのまま、躊躇なく飛び込んでいった。


 それを目撃した生徒が衝突するものだと決めこんで、思わず身構えた。瞬く内。その直前で器用にフリップがくるりんと、宙で綺麗なターンを決めて一回転、ふわりと舞い上がってそれから見事な着地を決めてみせた。


 ついでに持ち換えていたボードを見やすいように掲げた。


『──お静かに。授業中は騒がないよう、ご協力お願いします──』


 ばばん。率直な注意文句だった。


 単刀直入。どっからどう見ても真っ当な言い分のそんな禍々しい物を突き付けられてしまったら、騒いでいた生徒達は露骨に嫌そうな顔をする。


 ついでに拍子抜けまでする。


 ──あーあ。盛り下がった。出てきやがったなあーっ。はいはい。解散。解散。と……。


 投げ遣りに吐き捨てながら、不貞腐れている。


 それでも異様な雰囲気の中にクラスの不文律が働いている模様。礼儀正しくクールダウンする。


 ……もはや学校生活を送り過ぎて、ここに集うのは筋金入りの玄人という顔触れの然とした風貌を晒す生徒衆。溌剌としていた様相をどんよりと変え、鬼気迫る眼差しの刺し貫く方角へと後退を、各々の席へと腐死体の如く緩慢な挙動にて辿り、粛々と着座し始めんとすん。厳粛なる無言を貫くその面には揃いも揃ってまっこと誠に、


 やさぐれた顔。

 不貞腐れる顔。


 やさぐれた顔。不貞腐れる顔。やさぐれた顔。不貞腐れる顔。やさぐれた顔。やさぐれた顔。やさぐれた顔。不貞腐れる顔。ドヨ~ン。ドヨヨ~ン。ドロロロロ。──中には茫然自失という顔も。


 一人の生徒が、虚ろな眼差しで教室の天井の隅の辺りを見つめていて。何か見えるのだろうか。特にめぼしいような、無いはずだが……。


 そんなものは我関せずと参考書を開いて、マイペースに予習を始めている生徒もいる。


 あれだけ派手に盛り上がっていた熱気も、覚めてしまえば人それぞれという過ごし方に落ち着いて、再び日常の風景に溶け込んでしまう様子。中には、衝撃的な光景を目にして青ざめている生徒の姿も。


 ──何時もこんな調子なのだろうか。

 ──何時もこんな調子なのかも知れない。


 それなら仕方ないな。

 それなら仕方ない。

 とはいえ流れを変えてはいけない、飽きたら途端に離れてしまう。

 人の心は変わりやすく、移ろいやすい。

 格言にも確かそうあったな。

 確かにそうあったな。

 よしそれでは、やる気を出そう。

 よしそれでは、やる気が沸いてきた。


 このクラスの担任教師に、突然、神憑り的なやる気が沸いてきた。


 沸いてきたぜ!


 ただ、アイデアは尽きてしまったようなので、この後はどうしようかと彼女は悩んだ。


 悩むんだぜ……。


 それを見かねたややこしい奴。フリップが喜び勇んで駆け寄り、手にしたボードを素早く掲げた。


『──白い雲の間から、お日様がお顔を覗かせている。青い空を飛び回る鳥たちのさえずりが、にぎやかにこだましている。伸び伸びとした様子が、辺りに振りまかれるように感じられる。地面では一面に広がる緑の息吹が感じられる。色鮮やかな花と葉を揺らした風が、そのままふわりと吹き抜けていく。とても良く晴れた日のとても愉快な出来事がこれからきっと起こるはず。そんな予感が感じられる。毛づやの良い薄い茶色と白の虎模様をした子猫が、とある草原にいる。何だか無邪気な様子で、土の地面を見つめていて、やがてその小さな足でざくざくと──』


 その時、彼女は閃いた。


 荒野の酒場なんだぜ!


 ばばん。荒野の酒場? えっ、荒野の酒場!?


 フリップは思わず声を漏らした。それから手にしたボードを放り投げた。それは明後日の方へとくるくる回転しながら飛んでいった。


 どうやら状況を読み間違えてしまったようだ。あってはならない事だった。とはいえ判断を問われる場面ではこういう事が起こってしまう。シーンの移り変わりは残酷だ。


 やった。やった。やりました。微妙に滑ってずっこけた!


 嬉しそうにはやし立てる生徒も現れる始末。


 他人の失敗とあっては黙っちゃいられない! 目に物を見せてやるぜ!


 その生徒は急に飛び上がると、フリップざまあっ! たいそうな絶叫と面構えを見せ付けながら周囲をぐるぐる飛び回り、隙あらば突っ掛かってやろうという構えで伺って、その最中、奇妙に歪めているその顔面をまだ足りないと、両手でニョーンとしっかり引き伸ばして、隙間からわずかに覗いて見える眼差しをぎょろりとさせて、


 ──白い雲の間から、


 フリップを追い詰めていき、お日様だぴょーん! と脚色した声でのたまって、ねちねちと絡んで、ぐるぐる唸りを上げて、じゃぶじゃぶとまとわり付くという、


 ──とっくの昔に見境など無くしてしまったわ。どうだ参ったか!


 とっくの昔に開き直った感じの絶叫を上げて、軟体生物さながらの脈動感でフリップに飛び付いた。情けも容赦も必要無し。


 わめき散らしながら、周囲がドン引きするまでからかい続いた。もはや狂人の様相。その形相は、人ならざる恐ろしさを表すほどだった。


 ──人にどう思われようが俺は俺。一度始まったなら立て続けに二度三度は、何と言われようがやり抜いて見せる。ここ一番での粘り強さが持ち味だ。


 雰囲気のある独白で勝手にまとめようとしているが、当然そんな事で収拾がつくはずがなく、事態はむしろ混迷を極めるまでとなっていった。


 ところで。実はこの軟体生物は先ほどフリップに注意された時に、しぶしぶそれに従ってしまった自分という、思い込みの激しい惨めな気持ちを覚えてしまった。その時のわだかまりから後からふつふつと沸いてきた怒りがそれな……。


 原因は逆恨みだった。


 それが時間差で爆発。


 小さい。あまりにも小さい。俺のこの小さな革命などもはや止まらない!


 不満そうな口でわめき散らすフリップを無惨に放り捨てて、志を新たに、それから誰彼ともなく参加者を募って自らの勢力の拡大を目論んだ。


 ──やーい。引っ込めフリップ! スリップフリップ!


 引っ込めフリップ、スリップフリップ。


 いつの間にか、声高な訴えが教室で繰り返されていた。扇動する者が現れて、途端に巻き起こされるのが反乱だとかで。早くも息の合ったコールが続けざまに起こり、去年の合唱コンクールでも揃わなかったはずだという調和が、クラスを一つにまとめ上げていく。実に展開が早い。


 どの生徒の顔にも真摯な表情が浮かび、決められたコールを高らかに唱えている。


 頑張って! 頑張って! もうすぐだと言って励まし合い、一体感に包まれながら、このまま感動の瞬間に雪崩れ込んで突入してゆく。


 勝利するまで巻き起こす。


 もっと! もっと! シュプレヒ、


 コ~~~~~~~~~~~~~~~ル!!!


 ──このまま畳み込むぞおおおっ!


 おおーっ! 生徒達の歓声が教室に響き渡る。最初の兆候は、さざ波のような小さなきっかけから始まった。それが段々と大きな波紋へ広がって、その内あっさりと革命は成立する。ほっぺたを引っ張られたり、大変な目にあっていたスリップだかフリップだかは、いち早くそれを察した。


 無念を覚える。複雑な思いを胸に秘めた上で、それでも、もはや、押し返す事は叶わないと諦めた様子も漂わせた。


 揉みくちゃにされながら肩をすくめる。それからどうにかして足を踏ん張って、無理な姿勢だろうがお構いなしにフリップだかスリップだかは、何としてでもボードを掲げた。


『──とんだ災難だった。今は引こう、仕方ない。しかしこれは序章に過ぎない。前哨戦。いつか奪い取る勝利の、その前触れでしかなかった。明日は明日の風が吹く。暗黒時代の到来だ。吹き荒れるぞ。そして歴史に刻まれる。ゆくゆくは歴史上の人物だ。利用され、担ぎ上げられ、最後は暗殺。そんな自分が恐ろしい……。てな訳で次回、絶対領域スリップフリップ「威風堂々、再起を図る」こればっかりは絶対に見逃すなよっ! 絶対だぞっ!!!』


 ……絶対に。もはや前振りではないのかと理解に苦しむ所だが、本人が退場する以上は。うん。まあとりあえず置いておこう。


 生徒達は勝利を祝い、勝ち誇った顔で束の間の自由を喜んだ。たちまち教室に都合の良い雰囲気が漂った。誰もが一度は夢見る学級崩壊。


 その中でただ一人、このクラスの担任教師は、過ぎ去りし西部開拓時代の情景に思いを馳せていた。


 ──夢とロマンと再起を図る夏。


 呪文のように大切に呟く。そうするともうこのクラスの担任教師である彼女の中で、たくましい想像がぐんぐん広がっていってしまう。留まるはずの現実の歯止めが少しずつ取り払われてゆく、綻んでしまう、失われつつある。それに反して力を持つ幻想が浮上する、止まらない、夢物語のままでは終われない、すぐそこに生成されてある新しい世界の境界から次々と顔を覗かせて、交代を呼び掛けて、漂う、実際にそれらは形作られ現実味を帯びていく。それは侵食と言えるほどの風景の──。


 暮れなずむ夕暮れ時の、紅く色付いた雲を散らして散りばめた、果てしないと本当にそう思えるほどに広がる夕焼け色の空と、時と共に段々と空を塗り替えていくまだ淡い色彩の穏やかな夜の青、静けさと夏の空気と一日の終わりが溶け込む独特の頃合いに、渡りのシーズンを向かえた鳥達が浮かんで飛ぶ姿、夕陽に染められている体から白い翼を伸ばして揃って一斉に振るう無数の渡り鳥の姿、地平線まで届きそうな絶景の荒野を見下ろしながら飛ぶ、すぐ近くまで砂埃が派手に舞い上がる様子を伺う、大地に緩やかな水の流れを通わせる小河が血脈のように伸びていく様を眺める、枯れ草の覆う広い平原を見つけて、無造作に小石が転がっている土の地面が途中に覗いて見え、途切れること無く藪に挟まれながらそのまま地面を蛇行して、長い長い距離をずーっと、退屈するくらいずーっと轍の跡を刻みながら街道が伸びていく、そこを十頭ほどの牛が連なった三台の幌馬車を牽引しながら、そろそろ日が落ちそうな夕暮れ時の気配が漂う中を、それでもあんまり気にしていない様子でのんびりと行進していく姿を眺める、道沿いにたどり着く先を見渡せば緑の生い茂る草原が広がる、薄い茶色の虎柄の小さな子猫がエノコログサとたわむれる姿を草むらに見つけ、更にその近くで赤いレンガに囲われた円柱形の給水塔がのっそりと大きな姿で、まるで子猫の様子を見下ろしているように佇んでいた、そよぐ風が草原を吹き抜けていく、それを受けた小麦色の干からびた回転草が風にさらわれるように転がっていって、そしてその行く先を辿ると街道の途中にぽつんと建つ時代的な古ぼけた酒場に到着した、馬の繋がれた馬宿が軒先にあって、屋根に風見鶏と部分的にレンガを使った煙突が立っている、下手をすると掘っ立て小屋なのかと勘違いしてしまいそうな木造の建物、心にぽっと浮かんでしまうとそれから、どうしても感情を揺さぶってくるような、どこか懐かしくて、ただそれでもきっともう現実にはちゃんとした形で残って無いだろうという、渡り鳥の飛び去る姿を背景に映して佇む夕焼けに照らされた、荒野の酒場を仰ぎ見る。


 ノスタルジックな幻想はいつしか、彼女を虜にしていた。


 色褪せていく赤銅の色彩が、歴史民俗資料館の壁にでも展示されている額縁の中で、時間に取り残されるまま忘れ去られていく、そんな大陸西部の開拓時代に存在した風景を、留められている時間の停滞から解き放って徐々に蘇らせていく。想像による厚化粧を施した上で、かつての景色を再び取り戻していくようにと、更には色帯びていくようにと、互い違いに絶え間なく行程を巡らせる。繰り返し呆れるほどに色づけて、飽きるほど見慣れた教室の風景を荒野の酒場へと、ある種の祈りを捧げて塗り替える。イメージ通り、この場所が変化していく様を思い巡らせ、繰り返し、繰り返し、繰り返し、それで見事に完成させて清々しながらやれやれとようやく向かっていくのが──私。


 冒険の始まりだぜ!


 日が沈みかけた夕暮れ時の軒先に彼女の威勢の良い声が伝わる。世界はここから広がる。待ち焦がれていた冒険の舞台がいよいよ、幕を上げる。風で転がる干からびた回転草を蹴飛ばしてから、跳び跳ねるようにきびすを返して酒場の入り口に向かった。


 もうすでに夜の虫が羽を震わせて鳴き始めている。急に細長く身長が伸びた自分の影を地面に引き連れて、途中で馬小屋に繋がれた気だるそうな様子の馬を見かけた。建物の奥にも何頭かいる。どれも大人しい性格の馬だったようで、特に騒ぐような様子は見られなかった。繋がれている馬は人に慣れているのか、目が合うと軽く親しみを込めた鳴き声を上げた。彼女は少し驚いた顔をした。それから妙な関心をした。


 そのまま生き物の何気ない息づかいを感じられる自然が豊かな地に、行楽でやって来たのんきな観光客といった緊張のない足取りで、レンガに囲まれた花壇のすぐ側を通り抜けて歩いていく。きょろきょろと落ちつきなく視線をさ迷わせている。ようやく訪れた非日常の世界で彼女の興味はつきない。


 あっちを見てこっちも見て、おっとそれから一段高くなったボードウォークに飛び乗ってしまわなければ。そのままジャンプで着地を決めて。よし。順調。順調。古い板張りの足場に難なく立ってこれくらい何て事ないお遊戯だと、全く問題の見られない自分を盛大に誇る。彼女はそこで急に顔つきを変えた。


 眉を少し寄せてそこはかとなく厳めしいその雰囲気から、どうやら観光客から冒険家にでも気持ちを切り替えた模様。そして正面に見えるのは目的の酒場だった。いよいよ到着して思わず厳しい表情を浮かべて身構えている。色々と思うところがあるのかも知れない。ただし目は笑っていて何となくこれは、いたずらでも思い付いたような。そうかと思えば突然、動き出した。


 色味の深い木製の手すりと、小さな階段を備え付けたもうだいぶ痛みの目立つウッドデッキと、テラスの先に続いた正面玄関口と、仮想空間の何か構成する複雑な要素と、前触れもなく突然走り出した彼女と、有り余るほどの元気で全部いっぺんに、


 三段跳びなんだぜ!


 飛び越えてしまった。とびきりの笑顔でそんな暴挙を働いた。再び見事な着地を決めて、そしてどんなもんだいやりきったという表現を存分に発揮した。これぐらい何て事ないのだとまんざらでもない様子でいる。


 少し息を切らして照り付ける夕陽に目を細めながら、彼女はもう何度目かも分からない、何事もないような平然とした顔で取り繕うと、正面の外壁に掛けられている木彫りの装飾を見上げた。


 建物と共にそこでどれだけの年月を過ごしたのだろう。痛みと汚れがだいぶ目立ってもはや内容を読み取れないが、それは店の名前が書かれていたはずの看板だった。それを呆けたようなぼんやりとした表情で、黙ってじっと見つめている。


 しばらく経ってから、蝶番が錆び付いて軋む音の鳴るスイングドアを少しドキドキしながら押し開く。お邪魔しまーす! と挨拶をして、後は滑り込むように店内に入っていった。


 ──どっひゃ~~~っ!!


 町から離れた荒野の酒場だなんて、きな臭い感じがぷんぷんするぜ!!


 入り口を抜けてさっそく、きな臭い何かを勘の良い自分が嗅いで回るという演出を披露する。それからすぐにしたり顔を浮かべる。何でもお見通しだったし。何でも全部分かってたし。間違いなく分かってるし。得意気な表情。


 ついでに、溢れんばかりのイメージでキャラクター設定を「優秀なガンマン」にクラスチェンジした。ここまで来て担任教師のままだというのも、それは何だか違和感を覚えるので、妥当な所だろう。優秀なガンマン。


 これから起こる全てに対して、対策は万全だった。これでますます頼れる奴になってしまう。おうともよ。恐ろしい事にこれでもう何でも出来るし、どんな危険も平気だし、ゆくゆくは伝説が生まれるはずだし。


 どんとこいだぜ!


 ふんすと鼻息も荒く息巻いた。滞りなく、準備が整ったのを確認した所でいよいよ薄暗い店内の様子を伺うように……。進む、なんていう野暮な真似は彼女の性格に合わなかったので、継ぎ接ぎの目立つ床をギシギシと派手に鳴らしつつ、お手をぶんぶん振りながら、ルンルン歩いていく。足どりに合わせて有頂天で歌声も上げる。


 にゃん。にゃん。にゃん。にゃん。猫のヒゲ。にゃあ~~~ん!!


 そこで思わずはっとして、我に返ってこほんと小さく咳払いをして、少しはしゃぎ過ぎたと反省した。落ち着いて散策を続ける事にした。


 備え付けの灯火からこぼれる淡い光に照らされて、陰影が深まり、家具などから伸ばしている床に浮かんだ影絵が揺れ惑う。注意を凝らすと目まぐるしく変化する店内の様子が伝わった。


 食器や調度品、飾り付けの表面に浮かぶ色艶に至るまで光と影で演出され、見る度に違う表情を覗かせる。興味を持って彼女が見回しているとその内、忙しい様子で立ち回るウェイトレスと、バーテンの立ち姿が伺えるカウンターテーブルに突き当たった。


 更には。こういう状況で無くてはならない存在といえる、敵役の雰囲気を漂わせたアウトローな男達がいる様子も確認した。彼女が思わずにやりとする。


 悪そうな顔してやがるぜ……。


 カードゲームや銃の調整に集中している悪人面の男達に──あくまでも、まだ対戦候補という間柄だが──期待に見合ったご面相という事で、彼女は笑み崩れた少しだらしない顔でしめしめという風に声を漏らした。


 彼女の存在を確認して、カウボーイハットを被った男が顔を上げ、それから値踏みするような眼差しを向けてくる。椅子の背もたれにゆったりともたれ掛かった姿で座り、ならず者という不穏な気配を醸していた。人の数だけ慌ただしさを漂わせているはずの店内に、今は危険な兆しを振り撒いて、それが静けさの要因となっている。灯りの照らす範囲が不十分で、細かな判別をするとなると物足りなく感じてしまう薄暗い状態の中では、肌がじりじりとするような閉塞感を募らせる。


 カウボーイハット、腰にガンベルト、踵の突起で歩く度にうるさそうな感じの牛革のウェスタンブーツ、伸ばしっぱなしの髭面、覆面の者、顔中にペイントを施した者、ふてぶてしい面構えの者など、男達の印象はまちまち。調度良い風貌の荒くれ者達。


 こりゃ一癖も二癖もありそうだぜ……。


 ごくり。彼女も思わず神妙な顔になっていた。それでも、優秀なガンマンになったのだからと勇気を奮って、迷いの無い足取りで男達の元へとずんずん向かっていく。そもそもこういうのは考えるだけ無駄なのだ、シナリオイベントの消化に向けて、邪魔するものは有れども、気後れなど一片たりとも無かったのだ。いざ行かん!


 とびっきりウェスタンなムード!


 ──電光石火!


 店内に漂っているウェスタンな情緒のあるムードを軽々と満喫して、それで思わず驚いてしまった男がうっかりと口から吹き出してしまった毒霧を、流れるように優秀に落ち着いて掻き消し、それでお返しとばかりにそこら辺にあったトレーを掴んで投げ付け、更にはたまたま飛んできたミートパイ風のサンプルを──宙返り、


 は無理だった──床を転がる事で難なく避けて、立ち上がってたまたますぐ目の合った相手にウィンクをお見舞いしてから、スキル構成でアシストされた快速で前人未到のテーブルにどっかり、これっぽっちの危なげのない絶好調で何ともたれ掛かったのだったあああ。


 くぅーっ! これが落ち着くぅーっ。と大きな声で天板に抱き付く形で落ち着く。ぎすぎすした空気をそれでいったんリセットしてしまうという、優秀なガンマンの反則級の回復魔法だった。すぐにそれは効果を発揮して、みるみる内に表情に穏やかな微笑みが浮かぶ。満足して自然とニッコリ。ほっぺたを天板に押し付けてゆるみ切っている。


 だらけ過ぎではないだろうか……。


 どうにかならないのだろうか。ならないのか。そうか。仕方ないか、という感じでそれでも顔を覗かせていたカウボーイが、ここでどうやら向かってくるようだ。ターコイズの付いたハットバンドを巻いた黒いカウボーイハットを被り、首に赤いスカーフ、色褪せたインディゴブルーのウェスタンシャツと黒のレザーベストという装いで、肩に下げた投げ縄をゆっさゆっさ揺らしながら彼女の元へやって来る。


『──全く、派手にやりやがって……。おい。お前、見掛けない顔だなあ──』


 荒野の酒場だもんねー。


 ゆるみ切った思考で彼女がぼんやりと考える。なるほど。酒場ならカウボーイの一人や二人、近付いて来ても何ら不思議な事ではない。


 ……それより出会い頭にとんだご挨拶で一触即発と、そして危機一発と。よし完了、これでコンプリートなんだぜ!


 おっと。手応えを覚えたように、急に優秀なガンマンは達成感に満たされた明るい表情を顔に浮かべた。相変わらずテーブルに抱きついたまま、燐光を立ち上らせてしまいそうなほど喜びをあらわにして、とにかく嬉しそうにはしゃいでいる。


 ところで話が見えないのだが、コンプリートというのはどういう事なのだろう。


 これで無敵なんだぜ!


 なっ、なんと、優秀なガンマンは無敵のガンマンにレベルアップしたようだ。どうやら条件が満たされたようだ。それは幸いな事だ。


『──おい……。聞いてんのか──』


 黙殺されていたカウボーイがここで堪り兼ねた様子で問い質す。


 ものの、残念ながら彼女はまったく聞いていなかった。喜色満面。どうやらレベルアップの興奮が冷めやらぬようで、それどころでは──舞い上がれ私の、


 フライング・エナジーーーッ!


 が炸裂してしまった。特に意味はないけれどインパクトは抜群。いにしえより伝わる秘技。伝説によると、これが飛び出したという事は、その人はよっぽど舞い上がっているのでしょうねえ。


 えへへ。えへへ──


 そして笑み崩れて幸せそうに喜んでいるのでした。


 幸いな事だった。


 ──ところがだ、せっかく盛り上がっていたのに水を差されてしまったと、もう気分が台無しだとこの恨み、晴らさずでおくべきかと、さて一体どうしてくれようかと、わなわなと怒髪天を突く勢いの憤りに震えたと、思わず相手が度肝を抜かすほどに、すんげぇーっ、恐く睨み付けてやろうかーっ!


 ところが急に顔付きを変えて、えらい剣幕でわめき散らして憤りをあらわにする。そんな彼女がさあ睨み付けてやろうかと振り向いた。


 すると。凶悪な顔をした人がそこに立っていた。


 原因は不明だが、全く話の通じない相手に苛立ちを募らせて、腸を煮えたぎらせているかのような凶悪なご面相になっていた。カウボーイハットの下から見上げてくる凶悪な面構えが、もの凄い恐い面構えに。いけない、このままだと、原型を留めなくなってしまう……。


 大変だっ!


 あああ。もっとしっかり話を聞くべきだったと、彼女は今更ながら後悔した。思わず腰が引けてしまい、危うくテーブルから転げ落ちそうになる。あああ。あの怖いカウボーイに逆らってはいけない。たちまち抱き付くのを止めて、むしろテーブルの上に正座した。それから、土下座でもしそうな謙虚な姿勢で耳を傾ける事にした。


『──よう。見掛けない顔だな──』


 カウボーイハットと一緒に不穏な人相をくいっと持ち上げて、先ほどと同じ台詞を口にした。再び繰り返された発言からは、ただの確認では済まされないという禍々しいまでの含みが感じられた。見掛けない顔と言われた彼女はもう、随時と顔を合わせているはずなのに、もしかしたら仕切り直しという事だろうかと、あああ、相手を見つめて考えた。


 それでも心なしかカウボーイは、漂う雰囲気が落ち着いたように感じられるので、前向きに受け取る事にした。


 並々ならぬ忍耐力で憤りを沈めたのだろう、都合良くそう思う事にした。彼女は感心すると同時に、そろそろ失礼な態度を改めようと思った。無敵になったからといって、ついやり過ぎてしまった。このままだと格好がつかない。きっと今の流れだと挨拶をする場面だろう。よし自己紹介だな。得意じゃない。そう思って佇まいを整える素振りを見せた。それから瞬


 無敵のガンマンなんだぜ!


 告げられた。


 無敵のガンマン。


 たっ、たっ、大変だー。とっても早い何かこいつはもう、西部の四つや五つは開拓して平らげてやがるんじゃーねぇのかーっ!?


 誰が言ったか知らないが、そう。この職業をつい先ほど始めてからというもの、時系列を無視してかなりのペースで開拓している。およそ三ヶ月に一つ、調子が良ければ二つ目の西部一帯に手をかけてしまう。たった一人でそんな働きぶりなのだから、だらけているように見えて実はこれでも、彼女は働き者なのだ。ふぅ。


 ところで、この世の中は不可解な出来事というのが希に起こってしまって、何かの巡り合わせで実際に体験してしまうという事がままある。無敵のガンマンも日常の中でそんな、風変わりな出来事に直面した事があるのだという。


 あれは彼女が一日の開拓を終えて、ちょうど一息ついていた時の事だった。


 ──いっやぁーっ。今日は本当に疲れたぁーっ! お疲れさーん! やれやれくたびれたなあ……。


 やりきった顔で額の汗を拭って、うんうんと満足そうにうなずきながら、それで彼女が何気なく辺りを見渡した。


 するとそこには驚くべき光景が。


 ──開拓されている……。


 手を付けたばかりの荒れ地が彼女を中心に、作物が育つほどの出来栄えで、開拓されていたのだとか。他ではちょいと見られないほどの渾身の出来栄えに本人も含め、居合わせた者達の度肝を抜いた。開拓されている……。


 そんな事もあって──今までの苦労は、一体──果たしてそれは厳密に開拓と言えるのかと、専門家から小難しい様子で時折、問いただされる事もあるのだとか。まあそれにしたって、すでに存在が一大事というくらいの偉大なガンマンなので、今更の話であった。多くを語るまでも無いという所。もしも、それが開拓にならないのだとしても、すでに人類の発展には欠かせないほどのガンマンなので、これからもきっと便宜を図られ、末長く大切にされる事だろうと思う。


 そしてたぶん銃の腕前も凄い。


 ──あっ、無敵のーっ。ガンマン!!!


 テーブルの上で怒迫力のサイドチェストがお披露目されていた。切れっ切れな佇まいを見せ付けて、ありふれた酒場のテーブルが今はステージとなって、自己紹介の枠を越える確かなポージングが繰り出されていた。


 横向きの姿勢で上体をひねって、そこで胸の筋肉をアピール。にこやかな表情も浮かべて悦に入った立ち姿よ見たかこれと、愛と平和よ見たかこれと、全ての惑星の民よ見たかこれと、極まった姿勢を伺わせるにますますこれから人類の発展に期待が持てそうな


『──意味が分かんねぇ──』


 カウボーイが呆然と立ち尽くしていた。


 驚いちゃったとか居心地が悪いとか理解できない存在に出くわしたなあ、驚いた、あたかも森で熊にでも出会ったかのように助けを求めようとして、仲間へと。


 ──おい、


『──参ったな、こりゃ。おい。お前ら聞いたか? このお嬢ちゃん、無敵のガンマンだとよ……』


 動揺を隠して伝える。そんな事を急に言ったってなあ、まあそれでもとりあえずはと男達は考え込む……。


 までもなく反応した。


『──無敵のガンマンって……。おい、マジで言ってんのか!?』


 顔を歪めて吹き出した。


 どっ、わっはっはっ!


『おいおい。お嬢ちゃん、じゃなかった、無敵のガンマンか! あんた本当に最高だぜ』

『もう本当に最高だぜ。惚れ惚れするポージングとか言ってなあ!? あっ、すみませんがサインを下さい!』


 それからファンが生まれた。


 出来たら名前も書いて貰って……。


 以外と礼儀正しい人だったようで、なおかつ彼女と同じ志の同士心の友だったようで、低身平頭ですりよった。そりゃあそうさ。


 なんてったって無敵のガンマンときたらもう、


『──無敵のガンマン? そいつあお嬢さんにはちいとばかし、早いんでねえかなあ──』


 ──急に意地の悪い口調で横から前触れもなく飛び込んできたのは、藪から棒だった。


 しかもそんじょそこらの男達が途端に、どっ、わっはっは!


 爆笑した。


 受けた。受けた。アウトローな男達が揃って笑い転げた。発言した本人はそれを見て、髭に囲まれた口元をひきつらせるように、にんまりと笑う。やったった。やったった。しめしめと、小躍りでも始めそうな雰囲気で無邪気に喜んだ。


 妙に手慣れた様子で、狙い済ましたように流れをかっ拐ってしまった。独特のいやらしい笑みを浮かべて、細めた目でちらりと辺りを伺い、憎みきれない愛嬌すら漂わせて懐へするりと入り込んでしまう。


 流されやすい現代人ならきっとなす術もないはずだ。伏兵はそれからもなし崩しで、ぽんぽんと立て続けにスマッシュヒットを狙い打っていく。すると案の定。


 そんじょそこらの男達が雁首揃えて笑い転げるという流れに陥る。嫌味や当て擦りも交えながら“でも何となく面白いかも”という、雰囲気を操作した老獪な演出まで起こし始めると、嗚呼もうこれ以上はお腹一杯。おーい。ご馳走さまー。


 味をしめてタチの悪いちょっかいをかけ続けるもんだから、仲間内でしか分からないような話題で、不毛な探り合いを交わす場となってしまった。ハードルがぐんぐん下がっていった。


 どんなつまらない内容も、しつこくサインをねだるファンの要求も、うんざりするような落馬の話も、誰も気にしないという領域に引きずり込まれていく……。


 結果。もはやタイミングも何もない乗りと勢いとムードで、男達は取り返しのつかない所にまでかっ飛ばしていくのであった。


 ──なあなあなあ聞いてくれよなあ。最近なんか知んねえけどよ俺の馬のケツが何か知んねえけどよおくっせーんだ、どっ、わっはっはっは! 何かようっ! うっ、わっはっはっは!


 どっ、わっはっはっは!


 笑っちまうよなあ。


 どっ、わっはっはっは!


 おめえそれあれ馬のせいにしてるけど本当はあれなんじゃねえのかほらあれあれあれあれだよあれ。


 おうあれってどれだよ。


 いや待てよ今言うからほらあれっていつたらほらあれだよあれええとほいほら、あれ……?


 あれあれつてうるせえ野郎だなあ。


 あれあれえ……? さてはおめえあれあれ詐欺なんじやねえのかあ。


 どっ、わっはっはっは!


 やるかてめえかけやつてこんちくしようがあ!


 せえこのやるやる詐欺タコ海老ついでにヒラメと姫とどめに玉手箱だってこんチクショウ!


 どっ、わっはっはっは!


 おつおま表えおつ出やがれ~”“)─!


 じよとおだあやつとうえいやら


 どっ、わっはっはっは!


 うあ”“”“”“うあうあーい!


 うあ”“”“”“うあうあーい!


 言葉も無い。


 かと思えば、傍観して見ていた男が放った戦慄の走るジョークで、案の定というかそこで、喧嘩を止めてまで笑って、言ったはずの本人までもが笑い転げてしまう。始末におけない様相が繰り広げられた。


 そんな騒がしい状況の中で、一人ポツンとへそ曲がりの性格の男がいた。


 実は仲間達の騒いでいる様子を羨ましそうに眺めていた。先ほどからこの男は頃合いを見計らって踏み込もうとして、ところがいざ乗り出そうとする毎にいちいち出遅れてしまって、そうこうしている内に他の者が発言をしてしまい、この男自身はいっこうに踏み切れない状態でいた。


 それでもう隔たれたような疎外感すら感じた。あいつはわざとやりやがったに違いない。


 性質的なもの。そんな妬み方をしてしまう所も含めて本当に天の邪鬼な男なので、仕方のない事だった。ただやはり、仲間と打ち解けたい、一緒に楽しみたいという気持ちは収まらなかった。なので思いきって天の邪鬼は立ち上がった。乗りと勢いが大切だと念仏でも唱えるようにぶつぶつ呟きながらも、よし我こそはと潔く進み出た。


 最初にそれに気付いた男が、こいつが急に珍しいなあ何事だろうかと、疑問を浮かべながら見守る中で──。


 後になってこの荒くれ者の男達が落ち着いて、振り返ってみた事だけれど、思えばあれは天の邪鬼が勝手に真似した、


『──あっ、無敵のーっ。ガンマン!!!』


 が炸裂した瞬間だった。サイドチェストも忘れていなかった。横向きの姿勢で上体を捻り、胸の筋肉をアピール、ニッコリと笑ってフィニッシュとこれがもうしっかりと決まった。


 ここまでやれるのに疎外感だのなんだの思ってたのっ!?


 とにかく様になっている。どうやら気持ち次第だった模様。思い込みとは恐ろしい。聴衆がちょろいので当然これも、どっ、わっはっは! 受けた。受けた。


 本家と比べるとまだ切れ込みが甘いように感じたが、なかなか悪くない出し物だった。


 満足顔の天の邪鬼もこれで念願叶って、したり顔のニューフェイスとなった。仲間達は後々この時の事を思い浮かべながら、何度も取り上げるくらいに。


 そう言えば話は変わるけれど、実はポツンと取り残されている人物がもう一人いた。


 絶対に許さないんだぜ……。


 無敵のガンマン。その人だった。


 不満そうにぶつぶつ呟いている。


 物真似は嫌だったようで、馬鹿にされているという風に感じて、うなだれてしまった。恥ずかしいやら、さまざまな思いが込み上げて、もう悔しくって、悔しくって。これは八つ当たりでもしないと治まらない。


 彼女は床を踏み鳴らしてどんどこどん。


 地団駄、地団駄、と地獄のような勢いで地団駄を踏んだ。


 その両足が酒場の床を無造作に蹴って、蹴って、また蹴って、感情の発露がもうどうにも留まらない。


 馬鹿にされたあんあんあん!


『──まずい、』


 悔しいいいいいいいいいい!


『このままでは床が、』


 憎い。憎い。くくいぃっ!


『抜けてしまうぞ……』


 傍観する荒くれ者達の前で、激情が荒れ狂う。このままだと悔しさで泣き出してしまうかも知れない。それは流石にあんまりだ。可哀想に思ったものの、一体どうした良いものかと悩むばっかりで男達は途方にくれた。


 そこに天の邪鬼が自信ありげに立ち上がった。思えばあれは、


『──あっ、無敵のーっ。山賊!!!』


 が炸裂した瞬間だった。


 思わず反応してしまう男達がそれに、どっ、わっはっはっは! もはや悲しいまでの習性で笑ってしまう。受けた。受けた。


 天の邪鬼が案の定と言わんばかりの表情で、しめしめと破顔する。それから悪巧みをする顔に変化した。そして、


『──何にでも、笑うん、かーい!?』


 軽快な突っ込みを入れた。


 当然、どっ、わっはっはっは!


 もはやタイミングが合えば受けて、男達はどいつもこいつも何にでも笑ってしまう。


 ちょろい。ちょろい。


 本領を発揮し自信に溢れ今は不適な笑みを浮かべる、どうやらこの男、ただのひねくれ者という訳ではなさそうだった。


 今のこの場の空気と、荒くれ者達の何でも受け入れて何にでも笑えるという性質を、天の邪鬼は完全に手玉にとっている。全く関係の無い“山賊”なんてフレーズを無造作に放り込み、軽めのジャブかと思えば実はそれが掴み。手軽に転がされてしまう男達を揶揄して、指摘する様子まで素材として取り上げてしまうという、そんな軽快な突っ込みが入る。


 この男達に何にでも笑うのかと、そんな事を聞いたら、何にでも笑うに決まっているではないか。


 雰囲気に流されやすい人柄をためらいなく利用する、そのあざとさときたらどうだろう。ベタな油汚れよりも質が悪いのではないか。もしかすると、ベタベタな展開にかけての怪物クラスの才能が目覚めてしまったのかも知れない。ベタベタベタ怪物の奇才天の邪鬼。


 ひいいいいいっ恐ろしやあ~~~。


 どんどんどんどんと、えらい勢いで床を叩いて歓喜に溺れる者まで現れる始末。拳よ砕けろと叩き付けて、笑いも治まらない様子で感情に任せてむせび泣いている。


 いくら堪えられないにしたってまずいですよ、そうやっておかしな姿を見せてると、ベタベタベタ怪物がますます、ベタベタベタと勢い付いてしまいますよお~っ!? どん!!


 そうだ、おかしいと言えば──


『──いい加減にしなさーい! どーも、ありがとうございました──』


 無駄のガンマンの様子が。目尻にたっぷりと涙をためていて、まるで今にも泣き出しそうな状態になっていた。


 ──ぅぇぇぇ……。


 それでも何かを堪えるように我慢していて。ただ残念ながらそれも、どうやら限界を向かえてしまったようで、


 びぇ~~~~~”~””””んんん!!!


 と泣き出してしまった。それからは今までのうっぷんを晴らすように、なりふり構わず不満の声を上げた。荒野の酒場に彼女の泣き声が鳴り響いた。


 思い出してみればそう言えば、自己紹介をするぞと意気込んで、彼女はポージングを決めたのだった。本家本元。あれには感動した。それで惚れ惚れとした。なのに気が付けば天の邪鬼に横入りされ、真似されて、それで男達がいっそう盛り上がったのだった。なるほど。そいつは堪えるかも知れない。相手にもされずにポツンとお預けをくらって、周りは和気あいあいと盛り上がっていて。確かにそういう風になってしまったら思わず、泣き出してしまうのも無理のない話。


 彼女は癇癪を起こした子供のように、腕を振ってイヤイヤをして、天を仰いで泣きわめいている。激情が身体の内側で押し寄せ、ぶつかり合い、留まりきれずに、そのまま暴れているようだった。バタバタと身を振るわせて感情を、精一杯それで表現していた。


 それを見かねて突如、どこからともなく後光が舞い降りてきて、神憑り的な朧気の御歴々という大変な存在感が天井より御光臨された。そうして、こいつは困ったなあと覗かせた御顔をだいぶ弱らせていらっしゃる。


 ──どうにかしてやりたいがなあ……。

 ──山々なのだがなあ……。


 登場は派手だったがなかなか都合が悪いようで、微妙に渋い反応をなさっている。ただ、わざわざこうして親身になって見守っていて下さるので、それだけでもう泣かせる話じゃあないか。今もなお、子や孫を見つめるような眼差しで泣いている彼女を心配している。尊い。


 それに引き換えならず者どもは、やべえー! おっ、俺は知らねえーぞー、とか何とか言っちゃって。無責任に尻尾巻いて逃げるような素振りまでして。もう、ぜんぜん反省していないんだから。本当に始末におけない。他人の振りを決め込んだり、皆似たり寄ったりの反応で知らん降りを決め込んだり。さっきまであれだけ盛り上がっていたのは何だったのか。全く肝心な時にこれなんだから。


 そうだ肝心と言えば。さんざん引っ掻き回してくれた天の邪鬼の奴はといえば、


『……あっ、無敵の』


 ──ところで。


 今の状況は実はあまり心配するほどの事もなかったりする。何故なら、絶妙な役どころの男が出番を控えているのだ。


 そう。まさに今こそ不穏な気配を引き連れて──


『──ほう。ここで俺の出番か──』


 敵役が再び登場するのに絶好の状況と言えるのではないだろうか。


『──ならば、応えてやらなくてはな──』


 ニヒルに構える、カウボーイの復活!


 いちいち様になってしまう不穏を従えた男が、今ちょうど西部劇にやってきた所なのだという伊達男ぶりで再び見参する。凶悪な顔も一新、面目躍如と、周囲一帯へと眼光鋭く睨みを利かせる。


『──よっ、待ってましたっ!』

『──カウボーイ!』

『──おっ、喧嘩か?』

『よーし。やれーっ。いけーっ。全力でーっ! 全力でぶつかるんだぞおーっ!』

『そんじゃあ賭けでもやるかあ……』


 男達が俄然、勢い付いた。調子良く好き放題に言っている。


 ──ほう……。

 ──ほほう……。


 賭け事かそれは良いな。

 賭け事は素晴らしいな。

 是非やろう、そうしよう。

 そうしよう、是非やろう。


 盛り上がる声に乗せて、神憑り的な御賛同も轟いて参った。皆和気あいあいと、のりのりで浮かれ出す。そうそうこういうのなんだよ。賑やかな様子を漂わせたら、泣いていたはずの無敵のガンマンもがばっと顔を上げて、さっそく興味津々の眼差しで食い付くはずなんだよ。そして、


 こういうのなんだぜ!


 ぱあああっと顔を輝かせた。涙を拭ったらもうそこには、初夏の日差しのような明るい表情が見えてしまう。胸が高鳴った。いよいよやってきたのだと、活躍する時が来たのだと、実感したら急に震えがきた。期待と喜びも沸いて泣いていたのなんか嘘みたいに、ガッツポーズをした。そうしたらもう雄叫びだって上げてしまおう。


 レベルアップして良かったーっ!


 その声は周囲一帯に響き渡った。なんだか急に華々しい様子に変わっていった。こうなるとならず者達の騒がしさや、神々しい雰囲気と相まって、どんどんどんどんと床を叩いて喜びを表しているような妙な男がいたとしても……。


 まだやっていたのかこの男はっ!?


 せっかく良い感じになった所なのに。これには流石に天の邪鬼も厳しい顔で、


『──あっ、無敵の』


 ──さて。


 その一方で一人静かに佇む不穏のカウボーイ。目深に被ったハットで隠れているため、表情は読めないが、逆にそれでミステリアスな印象を覚えてしまう。ある種の執着を抱いているのか、はたまた、ある種の感慨に浸っているのか。ただそれもすぐ、ブーツの踵で床を踏み鳴らして、そしてカウボーイ自身がおもむろに動き始める事で掻き消される。気配が後を追い掛う──。


『──謝るなら、今の内だぞ。まあもっともここまで虚仮にされた以上は、それなりに覚悟してもらう事となるがな──』


 冷ややかに告げられる。銃は腰のホルスターに収まったまま。手ぶらの状態でゆっくりと歩いてくる。特に合図もなく、どうやらすでに始まっているのかも知れない。


 カウボーイを見つめたまま彼女が答える。


 無敵のガンマンは謝らないんだぜ!


 迎え撃つ意思を示す。相手をしっかりと見据えて、永遠に続く伝説を再びまた繰り返そうとする。初めて店内に踏み込んだ時の状況と、似たようなシチュエーションになっていた。一触即発の雰囲気。ただしあれから、もうだいぶ時間が過ぎたように感じる。


 ここに来ていよいよ舞台が整った。そう感慨深く振り返りながら、彼女は思いを巡らせる──。


 当時、十九世紀という時代が終幕を迎えた頃に、馬や馬車などの移動手段も廃れていき、以降、鉄道や自動車が主流となる時代へ移行していった。フロンティアの消滅、開拓する地が無くなった事によって西部開拓時代という一つの時代が、過去に終わりを告げた。ただそれでも、今この場所には、夢とロマンと再起を図る夏、スクリーンに写る銀幕の物語ではなく実際に体験する出来事として、今この場所には、息ずいている出会いがあった。


 静かに迫るカウボーイを見つめている。


 不穏な気配を従え、向かってくる。


『──いいだろう。せいぜい、吠え面をかくといい──』


 銃は抜いていない。


 カウボーイが仕掛ける。


 足取りが変わり、崩れるように体が沈む、それが同時に起こる。


 腰を落として突進が開始される。


 腕を後ろに振り瞬く間にスタートを切る。


 速い。


 互いの距離がゼロに縮まるのを見据え、踏み込み、更にそこから速度を伸ばして、轟音を唸らせる予定の拳を彼女にお見舞いするべく。


 鬼気迫る、迫真の振る舞い。


 少し出遅れた無敵のガンマンはそれを、


 のけ反り気味の姿勢で避ける。


 襲い来る必殺としか思えないブローに焦りを覚えて、


 結果として彼女は無理な体勢で避ける事になった。


 出だしからピンチ。


 余裕の無い様子を見せて、


 なおかつ体勢が揺らいでしまい、


 それで足がもつれる。


 うおっとっ……?


 しかしそこは無敵のガンマンという事で、


 見事な反射神経を発動して踏ん張る。


 余裕、


 余裕、


 ──とととと、


 大丈夫というつもりでいたけれども、


 思いの外これは不安定、


 しかも何かの弾みで滑って、


 そのまま床から足が離れると、


 宙に浮いて、


 ほんのわずかな時間をゆっくりと感じていた。


 滞空。


 その間、


 色々な事が頭に浮かんだ。


 昔の事や、


 嗚呼、


 あんな事やこんな事もあったと、


 ゆっくりと流れる時間の中で様々な出来事を、


 思っていた。


 そうこうしている内に、


 だんだん穏やかな気持ちになって、


 そうこうしている内に、


 ぎゃふん!


 床にしたたかに打ち付けられた。


 衝撃にいきなり現実に戻った。彼女は、いまいち状況が把握できない状態で何事かと混乱した。足を滑らせてから、尻もちを付く形で転んだのだと把握をする以前に、混乱しながら、下半身から強い衝撃が突き上げてくるのを感じた。とにかく体育座りの姿勢で固まり、膝に頭を埋めるような形で悶えた。


 カウボーイ役の生徒が、青ざめた顔で、なりふり構わず担任教師に駆け寄った。すでにカウボーイハットも、黒いレザーベストも、踵のうるさいウェスタンブーツも消えて、元々このクラスで見掛ける何時もの姿に戻っていた。


 同時に、彼女の思い描いていた荒野の酒場も霧散して、たちまち消失してしまう。魔法が解けたように幻想の世界が消え、初夏の湿気がこもる、何時もの見慣れた教室の風景に戻っていた。


 役柄から解き放たれた、荒くれ者を演じていた生徒達も集まっていて、うずくまる担任教師の様子を心配そうに伺っている。荒野の風に晒されていた逞しく、勇ましくあった風情が取り払われ、代わりに気遣わし気な生徒達の顔に戻っていた。


 クラスの生徒達が思案気な様子でいた。


 元カウボーイの生徒から掛けられる声や、生徒達の気遣う気配から、心配をかけているようだと感じて、彼女は固まった姿勢のまま、何時までも座り込んでいる訳にはいかないなと思った。自分で足を滑らせて、自分の受け持つ生徒達をこんなにも心配させている。ちょっとこれは格好悪いのではないだろうかと。


 まだ痛みがある。それでも、何とか体勢だけでも変えてみようと考えた。最初は軽く動かしてみよう、それから立ち上がろう、そう思って少しだけ腰を上げてみる。するとその瞬間、すさまじい痛みが体を駆け上った。


 そのまま閃光が脳天を貫いたのかと思うほどの、


『──良く晴れた日の事でした。とある草原で、茶色い虎模様の一匹の子猫が、目を細めた満更でもないという顔で、白いお腹を出して、寝そべっていました。くねくねと機嫌良く、子猫は体を柔らかく動かしています。それから少しして、小さな顔をひょいっと上げました。興味津々な様子です。何があるのでしょうか? 熱心に見ているその子猫の、視線の先をたどると、草むらから緑色のバッタが勢い良く──』


 お尻から突き上げてきた衝撃に、頭が真っ白になった。


 性懲りもなくボードを抱えていたスリップは、荒くれ者を演じていた生徒達に取り囲まれて、それからとても厳しく叱られた。


 お尻が痛む、これはどういう事だろうか、何とかしなくては。以外とましだった頭部を膝にぐりぐり押し当てて、体育座りの姿勢で、彼女はそれからめりめりと考えた。どうしたものかと。押し付けた両膝の間に、その内、顔が埋まってしまうのではないかというほど、ぐりぐりぐりぐりと首を振った。


 どれほどめりめりと経っただろうか……。


 いつの間にか痛みが引いていた。彼女は息をついて、それからようやく平和が訪れたのだと安堵した。


 生徒達もそれで察して安心した表情を浮かべる。


 彼女はとぼとぼと窓際まで歩いて、置いてあった備え付けのパイプ椅子を組み立てた。体を預けるように腰掛けようとする。しかしすぐ立ち上がった。お尻を擦っている、もしかするとまだ痛むのだろうか? 少し気掛かりな様子で難しい顔をしている。


 注意深く、再び椅子に腰かけようと、それから彼女はようやく安心した表情を浮かべる。座る位置を少しずつ整えながら、胸の前で腕を組んだ。するとちょうど良い日差しが、教室に差し込んでいて、窓から見えるお空の眺めもなかなか悪くないなと感じられた。空がこんなに青い、白い雲の立体感がわたあめのオバケみたいに凄い、そういえば夏なんだ。思い出してしみじみ何となくそのまま、同じ姿勢でぼんやりと初夏の青空を眺める。その内、日差しの温もりに誘われるようにして段々ぼんやりと。


 色々とあって疲れた様子で。


 頭に乳白色のモヤが漂ってきて、それが、霞がかったように揺らめいた。そんな不思議な光景を感じながら、とうとう眠気が押し寄せて来たようで、今日も一日頑張ったなあ、ところで何だかモヤの向こうから、小さな燕尾服を着て、首に赤い蝶ネクタイを巻いて、背中で白い翼をぱたぱた揺らしている三匹の子豚が次々に現れて来て、そして周りをぐるぐると飛び回りながら、アニメキャラクターのような高い声で賑やかに歌った。


『──バカが見ーる』『豚のケーツ♭』『粗挽きポーク。』『お昼ご飯はまだなの?』『腹がペコペコ~♪』


 そのまま繰り出される子豚の歌声を聞きながら。背中で揺れる翼から抜け落ちて、白い羽根がふわりと宙を舞う様子を眺めながら。


 ──私はその内。夢の中へ。夢の中へ……。


 彼女が眠りに落ちようとする間際。教室の生徒達は人それぞれという反応を見せていた。心配そうな顔。微笑ましいという風に見守る顔。中には、衝撃的な光景を目にして興味津々といった表情で見つめてくる顔も。


 ──何時もこんな調子なのだろうか。

 ──何時もこんな調子なのかも知れない。


 それなら仕方ないな。

 それなら仕方ない。

 とはいえ眠りについてはいけない、生徒が心配してしまう。

 人の心は以外と傷付きやすい、生徒を悲しませてはいけない。

 格言にも確かそうあったな。

 確かにそうあったな。

 よしそれでは再び、やる気を出そう。

 よしそれでは再び、やる気が沸いてきた。


 たちまち目が覚めた担任教師は再び、神憑り的なやる気が沸いてきた。


 沸いてきたぜ!


 ご機嫌な目覚めで調子良く、誇らしげに腕を組んで、それからニッコリとご満悦な様子を伺わせる。ただし、もう色々とやり切ってしまったので、この後はどうしようかと悩む。


 悩むんだぜ……。


 そこで見かねたスリップが落ち着いて駆け寄り、手にしたボードを掲げた。


『──存在感を増した謎の雰囲気が漂う女の子はご満悦な様子で腕を組んでいるこのクラスの担任教師だった。もっとも、ウケを狙った極端な事をわざわざ嫌われるちゃちなもんじゃねえ。存在感を増したこのクラスの担任教師だった様子で漂う女の子は腕を組んでいる謎の雰囲気がご満悦な──』


 頼れる奴なんだぜ!


 ばばん。頼れる奴だった。


 そう言われてみると頼れる奴だった。


 そう言われてみるとそうだった。


『──あっ、無敵のーっ。ガンマン!!!』


 そうだった、そうだったと、教室に居る生徒達の間で当然のやり取りが交わされる。それから段々と調子の上がっていく様子が感じられた。悪乗りをするのにもってこいの雰囲気。手拍子を加えたらもう、生徒達のボルテージが上がってしまう。


 大変だ!


 誰がクラスで頼れるのって口ずさみながら、我こそはと席を立った生徒が間もなく駆け出した。それに続け、続け、続けと、クラスの生徒が全員、担任教師の元へと駆け寄っていく。集まってそれから、どうぞどうぞと譲り合う。


 よっ、担任教師のお目覚めーっ!


 ──こうなるともう誰にも止められない。


 待ってました、担任教師!


 掛け声も上がり、困惑した顔を異様な熱気で包み込む。


『──あっ、無敵のーっ。山賊!!!』


 スリップ邪魔ぁーっ!


 ──こうなるともう誰にも止められない。


 引っ込めスリップ! フリップスリップ!


 これからまるで舞台にでも──。



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とある教室の風景~~~誰が貴方にやったサイン帳の又貸しなどした覚えはねえっ!! まおおずみ @id83431892

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