ある夏の日

エイドリアン モンク

ある夏の日

 蝉の鳴き声が私の眠りを妨げる。

 小さい頃は夏の訪れを知らせる蝉の声が大好きだった。 夏になれば水遊びができる。川に行って泳ぐのもいいが、庭にビニールプールを出してもらって、思いっきりバシャバシャと遊ぶのもまた楽しい。私があまりにも水をまき散らすので、一緒に遊ぶ人間に文句を言われたのも、今となっては良い思い出だ。

 今の私にはそんな元気はない。今の私にとって最高の夏の過ごし方は、冷房の効いた部屋で、ひんやりマットの上に横になって昼寝をすることだ。

 目が覚めてしまったので、起き上がった。大きく伸びをして、前脚と後脚のストレッチをする。最近は、急に動くと関節が痛くなる。階段をのぼるのも一苦労だ。まったく、歳はとりたくないものだとつくづく思う。

 器に入ったたっぷりの水を飲むと窓の方に行き、カーテンで口と鼻をふく。このくせだけは何度怒られてもやめられない。

 窓に映った自分は、また白髪が増えた気がする。昔は金色のつややかな毛並みが自慢だったのに・・・・・・。窓の外は、雲一つない青空だ。今日もきっと暑いだろう。夕方の散歩は気を付けないと肉球を火傷しそうだ。

 こんなに暑いなかでも、お父さんと、お母さんは朝から仕事に向かった。ご苦労なことだと思う。それにひきかえあいつは・・・・・・仕方ない、起こしに行こう。私は関節が痛むのを我慢しながら、階段をのぼった。


 私が飼い犬としてこの家に来たのは、今から15年前だ。一人っ子だったこの家の男の子と私はすぐに仲良くなった。遊ぶ時も、寝る時もいつも一緒、本当の兄弟のようだった。

 一つ強調しておきたいことがある。彼は私を自分の弟と思っているようだが、それは違う。確かに、生きてきた歳は彼の方が1歳上だ。だが、犬は人間の何倍も早く歳をとる。彼はまだ悩める10代だか、私は人間の歳ならはるかに年上、人生を知りつくした老紳士だ。だから、私が兄だ。

 高校生になった彼はいつも部活で、このごろは私が一緒に遊んであげることもだいぶ減った。

 寂しくなんてない。そう、断じて寂しくなんてない。

 そんな彼が、今日はめずらしく部活をサボった。お母さんが声をかけても、ベッドから出ようとしなかった。一体、どうしたというのだろう?

 なんとか階段をのぼりきり、彼の部屋の前についた。ドアは閉まっていたが、ドアノブに飛びついてドアを開けた。こんなとき、大型犬に産まれてよかったと思う。


 部屋はカーテンが閉められていた。この暑いのに、彼は布団をかぶって眠っていた。生きているだろうか?私は布団に顔を突っ込んだ。最近の彼は少し汗臭い。それを彼も気にしているのか、制汗スプレーを使うので、鼻のいい私としてはいい迷惑だ。

 彼の顔が見えた。私は彼を鼻で突いた。彼は無視して反対側に寝返りを打つ。そんなことでへこたれる私ではない。ベッドに飛び乗り、彼の顔をなめた。

「もう、なんだよ・・・・・・」

 彼が起き上がった。私は尻尾を振った。彼は私が喜んでいると思っているだろうが、違う。私が彼を喜ばせているのだ。彼はいつもなら、ここで私の頭を撫でてくる。さあ、いつでもどうぞ。

 ……あれ?

彼は頭を撫でなかった。顔を見ると、虚ろな目をしている。

 寝起きだからか?違う。これは、もしかして……。

彼はしばらくぼんやりしていたが、突然、私をぎゅっと抱きしめた。

 ああ、やっぱりそうだ。

 彼は嫌なことがあると、私を抱きしめる。小さい頃は、親に怒られていじけるたびに、私を抱きしめていた。体が大きくなっても、まだまだ子どもだ。私は心のなかで微笑んだ。

「あいつ、今日、行っちゃうんだ」

 少し違った。「あいつ」とは、彼が密に想いを寄せている同じクラスの女の子だ。彼は彼女に夢中だ。

 なんでそんなこと知っているかって?私が彼の部屋に一緒にいる時に、彼が全て話してくれる。私がしゃべれないと思って油断しているようだが、犬が骨のおもちゃで遊ぶしか能が無いと思ったら大間違いだ。彼女は今日、親の仕事の都合で転校してしまうらしい。

「しょうがない。こうなる運命だったんだ」

彼は私をさらに強く抱きしめた。顔を私にうずめ、情けなくつぶやいた。

 本当は、違うだろう?

 彼は学校で、彼女と話ができたらそれだけで喜び、嬉しそうに私に話し、彼女からスマホに届く何気ないメッセ―ジに、スマホを抱えていちいち一喜一憂していた。

 いつだったか、彼女が本を借りに家に来た。その時、私も彼女の姿を見た。活発そうな子だった。なにより、私のことを見て、カワイイと頭を撫でてくれた。犬好きに悪い人間はいない。間違いなく、彼女は絶対にいい子だ。

 彼は彼女を自分の部屋に通した。若い男女が二人っきりで間違いがあってはいけないので、私も監視役でついていった。

 彼は、彼女が私と遊んでいる間に、大慌てて部屋を片付けたらしい。いつもより少しきれいになっていた。彼は彼女に本を貸すと、お茶とお菓子を持ってきた。彼なりの精一杯だったのだろう。

 二人はお菓子を食べながら、友達や学校のこと、色々な話をしていた。私は二人の横で伏せをして、話を聞いていた。彼が彼女に、私に寄りかかるようにすすめた。彼はよく私をクッション代わりにしていた。

 彼が私を呼んで、彼女の横で伏せをするように合図した。仕方ない、協力してやろう。私は言われた通りにした。彼女はためらいながらも私に、寄りかかった。彼よりずいぶん軽い。初めての体験に、彼女は感動したようだった。彼女は無邪気に笑い、彼も笑っている。

 だが、私は見逃さなかった。テーブルの下で、彼の手が彼女の手に近づいていた。手を握れ、もう少しだ。私はポーカーフェイスで応援した。だが、彼の手は彼女の手の数センチ手前で止まった。

 そんなに彼女のことが好きなら、さっさと想いを告げればいいのに、なかなか彼はそうしようとしなかった。いま流行りの草食系男子なんだ。もっとも、私もドックフードに入った野菜を食べる雑食系オス犬だから、人のことをあまり言えないのだが……。

 そして、彼女の転校が決まった。昨日、彼と同じように彼女に想いを寄せている男が告白したらしい。彼はその一部始終をたまたま見かけ、逃げるように帰ってきた。


「元々、叶わない願いだったのさ」

気の毒に-とは思うが、少々情けないとも思う。

「お前も分かってくれるのか?」

 違う、そうじゃない。ああ、彼を叱りつけてやりたい。私が人間の言葉をしゃべれたら……。

 人間の言葉をしゃべれたら?でも……いや、今がそのときだ。

「お前さんなあ……」

彼が顔を上げた。どこから声がするのか辺りを見回している。

「ここだよ、ここ」

彼が私を見た。

「私がしゃべってるんだよ」

 やや間があって、彼は私から飛びのいた。

「い、い、い、犬、犬、犬、が、が、が」

「なんだ、発声練習でもしているのか?」

ここは年上の余裕を見せる時だ。私は彼に向かって微笑んだ。

「い、犬がしゃべってる」

私の小粋な冗談が彼に多少落ち着きを取り戻させたようだ。

「犬がしゃべって何が悪い?長い間人間と暮らしているんだ。言葉くらいわかるさ」

「そんなのってありかよ……」

「私がしゃべれるかどうかはどうだっていい。それよりお前さん、なにを情けないこと言っているんだ。ちょっとそこに座りなさい」

 彼は起きあがり、ベッドのふちに座った。

「お説教の時は正座だ」

私が厳しく言うと、彼は姿勢を正し、ベッドの上で正座した。やはりどんな時でも礼儀は大切にしなければいけない。

「お前さん、彼女のことが好きなんだろう?なぜ想いを伝えないんだ?」

「……俺じゃあ無理だよ。それに、もう手遅れだ」

彼はいじけたように、ぶっきらぼうに答えた、

「やってもいないで、なんで無理だと決めつける?それに、彼女が告白されているのをお前さんが見た後、結果がどうなったかは知らないんだろう?」

「それは・・・・・・そうだけど」

「じゃあ、まだチャンスがあるかもしれないじゃないか?」

「でも……俺、イケメンでも何でもないし……」

 女心が分かってないな。そういう事じゃないんだ。だが、それをこんこんと諭している時間は無い。

「そうか。じゃあ、今日は彼女に想いを告げないという自分の決断に納得するだろう。でも明日は?来月は?来年は?同じように自分の決断に納得できるか?」

「……」

彼は何も答えず、うなだれた。

「もう一度だけ聞く。お前さんは本当にそれでいいのか?」

やや間があって、彼は首を横に振った。

 彼もやるべきことは分かっている。でも、その一歩が踏み出せない。誰かに背中を押してほしいのだ。仕方ない。

 私は、マクラの横に置いてある彼のスマホをくわえ、床に置いた。スマホのホームボタンを押すと、「メッセージ」と叫んだ。こうするとメッセージアプリが起動する。老犬といえども、最新の技術に遅れをとってはいけない。

「お前、なんでスマホが使えるんだよ?」

「言っただろう?何年、人間と一緒に暮らしていると思っているんだ?」

 アプリが起動した。「伝えたいことがある。今から行くから待ってて」私の声が、文字として入力される。

「ちょっと待て」

彼がスマホを取り返す前に送信ボタンを押した。

「お前、何を勝手に……」

「さあ、これでやることは決まったな」

 私はニヤリと笑った。

「行ってこい。もしダメだったら、帰ってから思いっきり抱きしめさせてやる」

「そんなこと言ったって……」

「いいからさっさと行け。もたもたしてると噛みつくぞ」

 私がうなり声をあげると、彼は転がるように部屋を飛び出した。寝ぐせ頭で、パジャマ代わりの半袖シャツとハーフパンツのままだった。冷静に考えると、着替えぐらいさせた方がよかったかもしれない。

 まあいいか。まったく、世話が焼ける。でも、彼はどこか吹っ切れた顔をしていた。

 きっとうまくいく―根拠はないけどそんな気がした。

 私はリビングに戻ると、また水を飲んだ。きっと彼は戻って来たら、興奮して話し通しだろう。でも、私は二度としゃべらないつもりだ。彼が何を言っても、「何を言っているの?」という顔をして首をかしげてやろう。

 またカーテンで口と鼻を拭いた。

 彼はどんな顔をするだろうか?想像すると、おかしくて仕方なかった。

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