誰かしらの下駄箱

クボタロウ

猫と私


「さっきご飯あげたでしょ?

それとも見送ろうとしてくれているのかな?」


 マカロンは喉をグルグルと鳴らしながら、降ろしたてのストッキングに生え変わりの抜け毛を擦りつけてくる。


「んもぅ……マカロンは甘えん坊だな~。

遊んであげたいけど、ママはお仕事に行かなきゃいけないの。

だから、いい子にお留守番してるんだよ?」


 暑さが厳しくなっている時期だ。

 私はマカロンの体調を考え、ステンレス製の水飲みに氷を浮かせると、除湿のボタンを押してからアパートを後にした。


「あっついな……」


 年々、アスファルトの照り返しが強くなっているような気がする。

 卵を落としたら目玉焼きができてしまうんじゃないか?

 でも、アスファルトで作った目玉焼きは食べたくないな。 

 そんな妄想をしながら、駅まで徒歩10分の距離を消化していく。


『次は赤羽、赤羽でございます』


 高校時代から何度も耳にしている退屈なアナウンスだ。

 だけど、社会人の私にとっては嬉しいアナウンスだったりする。

 何故なら、目の前に座っているサラリーマンが降りる合図であり、満員電車の窮屈さから逃げることができる瞬間だったからだ。


「村松さん空いたわよ! 早く座って!」


「きゃっ」


 だけど、今日は少しだけ運がなかったみたいだ。 

 空席の前に立つ私を押しのけるようにして、おば――お姉さんたちに席を確保されてしまう。


 でもまあ、こんな日もあるだろう。

 そう考えた私は、肩をすぼめてスマホをいじり始めるのだけど……

 

「きゃっ? なによ大袈裟ね」


「え?」


「はっ、若い子は良いわよね?

ちょっ~と可愛い声を出せば被害者だと思われちゃうんだから」


「べ、別にそんなことは思って……」


「はいはい、私達が席を譲れば良いんでしょ?

どうぞこちらへ、私達も悪者になりたくないから席は譲るわよ」


「わ、私は大丈夫ですので――」


「いいから座りなさいよ!」


「ご、ごめんなさい……ごめんなさい」


 私は気圧されてしまい、震えた声で謝罪の言葉を口にしてしまう。

 

「なにそれ……そうまでして被害者ぶりたいの?」


「ち、違います! そんなふうには……」


「はっ! ……もういいわ。兎に角座りなさいよ」


「は、はい」


 押されるようにして腰を下ろした私に、居た堪れなさが襲いかかる。

 まだパリっとしているスーツに皺を寄せながら。

 母親から貰った、入社祝いの鞄を抱きしめながら。

 池袋に着くまでの時間が早く経過しないかと願った。



  

「ねぇ、今何時だと思ってるの?」


「え、えっと……7時45分です」


「8時出社なのは理解してるわよね?」


「は、はい。ですので15分前には出勤しようと思いまして……」


「知ってて15分前なの?

新人なら一時間前、せめて30分前には出勤するのが普通だと思うんだけど?」


「で、ですが、大野さんは始業時間に間に合えば問題ないと……」


「はぁ!? 入社2年目で寿退社をするような――社会人としての自覚が欠けている大野の言うことは聞けて、勤務歴10年の私の言葉は聞けないっていうの!?」


「け、決してそういう訳じゃ!」


「それとも舐めてるの? 大野の後任だからって舐めてるのよね!?」


「ち、違います!」


 早枷さんは、私の顔を睨みつける。

 しかし、そうして睨みつけられていると――


「おい早枷、あんま千歳ちゃんをいびるなよ?」


 池田部長から助け舟を出される。だけど……


「い、池田部長! わ、私はいびってなどいません!」


「だとしてもだ。今はパワハラとかで世間の声がうるさいからな。

それに、千歳ちゃんはこのむさくるしい部署での唯一の華なんだからさ。もっと優しく指導してあげてよ。早枷ならできるだろ? 10年ものキャリアを積んでるんだし」


「唯一って……分かりましたよ……」


 その助け舟では、きっと誰ひとり救うことはできない。

 何故なら、私を救うという名目の元、悪気もなく早枷さんのことを貶めていたからだ。


「本当、羨ましいわぁ……

新人だからって、若いってだけで池田部長に気にかけて貰えるんだからねぇ?」


 従って、池田部長に対して好意を抱いている早枷さんが、私を敵視してしまうのも当然の結果で……


「ねぇ? あなたもそう思わない?」


 会社での私の立場は、少しずつ窮屈なものへと変わっていった。




 終電で帰った私は、コンビニに寄ってマカロンの為に高めのおやつを買う。

 嫌なことがあった反動だろうか?

 誰かが喜ぶ姿をむしょうに見たくなってしまったからだ。


「なおーん」


「マカロンただいま~」


 玄関の扉を開くと、お腹を見せて出迎えてくれるマカロン。

 私がお腹を撫でているとクルリと立ち上がり、足に身体を擦りつけてくる。

 相変わらず抜け毛が多かったけど、感じたマカロンの体温が私の心を和ませてくれた。


「ほらマカロン。 コレ好きだったよね?」


「んなっ! ふぐっはぐっ」


 マカロンは、チューブ状のおやつに必死になってかぶりつく。

 私はそんなマカロンの姿を肴に、コンビニで買ったサラダと、飲み慣れていない少しだけ度数の高いお酒を二本ほど空けた。




 ――翌日。


「ねぇ? 何回言ったら分かるの?」


 この日も早枷さんは厳しかった。


「早枷ぇ~、行き遅れてるからって若い千歳ちゃんに当たるなよ?」


 池田部長も相変わらずだ。

 私の肩を持とうという気持ちは分かるのだけど、池田部長の発言は早枷さんに火をつける材料でしかない。

 

「コピーも碌にできないのぉ?」


「お茶も碌に淹れられないのぉ?」


「まぁーた部長に色目を使って」


「ああ、そういうこと? だからこの会社に入社できたのね?」


 来る日も来る日も嫌味を浴びせられ、私にとって辛い日々が続いた。


 でも、安らぎはあった。

 それは、上京したての頃に拾ったマカロンだ。


「マカロンは何でそんなに可愛いんでしゅかね?」


「んな?」


「肉球ぷにぷに……肉球でほっぺぎゅむーって」


「なう……」


「ああん、何で逃げるの……」


 愛くるしい姿に、惚けた行動。

 癒しをくれるこの子を養う為なら、と頑張れた。




「ふふっ、やっぱり色目を使って入社したみたいねぇ?」


「千歳ちゃん……少し話があるんだけど……」


 ――だけど、その気力さえ砕くような出来事が訪れる。

 その日、会社のホワイトボードに張られていたのは、私のあられもない写真だった。


 男性経験のない私からすれば、それは間違いなく合成だと断言できる。

 けど……誤解を解くためにソレを伝える勇気を私は持ち合わせていなかった。


 それにだ。

 私が否定したところできっと会社の人たちは信じないし、正直なところどっちであろうと構わないのだろう。

 それよりも重要なのは、降って沸いた過激な話題をどう楽しむのかで……


「へぇ、細いと思ってたけど、割と良い身体してるんだな」


「それそれ、妙にエロい身体付きしてるよな?」


「いや、流石に合成かなんかだろ?」


「まあ、合成の可能性も高いけど、そういうことをやられる時点で問題があるんじゃねぇの? 火がないところに何とやらって言うだろ?」


「いやいや、流石にやる方に問題があるだろ」


「なるほどな。じゃあ、良識のあるお前はこんな写真なんていらないよな?」


「まあ、あれだ。それとこれとは別問題だろ?」


 私に向けられたのは好奇の視線――いや、性の対象へと向けるネットリとした視線で、私はそれに耐えることが適わなかった。


 


 ――だから私は、その視線に耐えられず、無断欠勤をしてしまった。

 当然、それは社会人として許される行為ではない。


『社会人としての自覚が足りないんじゃないの?』


 早枷さんからお叱りのメールが届いた。


『大変だったみたいだね。でも大丈夫、俺が守ってやるから。

けどその前に、詳しく事情を聞きたいから二人だけで飲みに行かないか?

いや、特に深い意味はないけど、お酒が入った方が千歳ちゃんも喋りやすいかと思ってさ』

 

 下心が窺える。そんなメールが池田部長から届いた。


『会社から連絡来たぞ。無断欠勤しているんだってな?

まあ、仕事が辛いと思う気持ちは十分に分かる。けど、それを乗り越えてこその大人であり、社会人だろ?

千歳ならきっと乗り越えられる! お父さんは何時でも応援しているからな! 頑張れ、ファイトだ千歳!』


 事情を聞かされていないのであろうパパから、善意のメールが届いた。 




 私は、電気を落とした部屋で考えていた。

 早枷さんの言うことはもっともだ。

 池田部長の言うことも、下心を除けば優しい上司の言葉でしかない。

 パパの言葉も娘を気遣う言葉で、パパからすれば100%の善意なのだろう。

 

 だから私は考えた。私の考えが間違っているのか?

 だから私は悩んだ。私が大人になって我慢すれば良いのか?


 いくら悩んだところで、私はその言葉たちを受け入れることが出来なかった。

 その代わり膨らんでいったのは、適応できない自分に対する嫌悪感。


 私は社会人として不適合者なんだ。

 私に価値はなく、女性としての価値しかないんだ。

 大学まで通わせて貰った親に、心配を掛けてばかりの迷惑な存在なんだ。


 そんな思いばかりが日に日に膨らんでいった。




「マカロン……今日はおいしいの2つ用意したよ」


「なおっ!」


 明かりを浴びるのが嫌だった私は、蝋燭の火でうす暗く部屋を照らしていた。

 数日間髪を洗っていないから髪がべたつく。

 頬を触れば高校以来できていなかったにきびができていることに気付く。 

 ゴミだって出してないから、若干の生臭さが漂っている。

 

 そんな状況だというのに、マカロンはいつもと変わらない様子で、無邪気にグルグルと喉を鳴らしていた。

 

「おいしい? おいしいよね?」


「かふっ、かふっるるる」


 喉を鳴らしながら必死になってチューブ状のおやつに食いつくマカロン。


「覚えてる? あんたちっちゃい頃は凄くやんちゃで、私のお気に入りのぬいぐるみを何個もボロボロにしてたんだよ?

今は落ち着いてそんなことも無くなったけど……必死になって食べてるところを見てるとあんまり変わってないのかも? とか思っちゃうな」


「なう?」


「良いタイミングで鳴くね? 私の言ってること分かるのかな?

ふふっ、分かんないよね?」



 おやつを食べ終えて満足そうなマカロン。

 そんなマカロンに視線を送った後、私はクローゼットの取っ手に巻かれたタオルに視線を移した。


「無責任だよね? 

他の人たちはこんなことでって思うかもしれないけど、私なりに悩んだんだよ?」


 私は窓のカギを開けると、網戸をスライドさせる。

 

「マカロンなら二階くらいの高さならピョンって飛べちゃうよね?

本当はパパとママに面倒見て貰おうと思ったんだけど、二人とも猫アレルギー持ちだし、マカロンを手離す理由を言ったら止められちゃうと思ったからさ」


「ふなぁ~」


「ふふっ」


 鼻の下に皺を寄せ、大きな欠伸をするマカロンを見て思わず笑みが零れる。

 けど……

 

「こんな時に欠伸? でも、マカロンらしいっていえばマカロンらしいか。

……それじゃあマカロン。私がいなくても元気に生きていて欲しいな。

本当に無責任だけど、本当に無責任だけど……元気でねマカロン」



 私の決意は揺るがない。

 タオルに首、そして体重を預ける。


「かひゅ」


 喉の奥の方が、強制的に絞められていくような感覚。

 私は、それに抗うことなく力を抜く。そうすれば楽になれるからだ。




 ――だけど。


「なふっ」


 私の覚悟など知らないといった感じで、ふとももに顎を乗せるマカロン。


「ふなぁ~」


 やっぱり、覚悟なんて知らないといった感じでのんきに欠伸を漏らした。


 その瞬間。私の腕に力がこもる。

 

「がはっ! げほっ!」

 

 私は大きく床を蹴って体勢を立て直す。

 続けて首からタオルを外すと、歪んでいるであろう顔で声を荒らげた。


「なんでそうなのよ! 分かるでしょ!? 分かってるでしょッ!?」


 支離滅裂だ。

 マカロンに対して声を荒らげても、欠片ほど理解できる筈がない。

 理解できる筈がないと理解しているというのに、私は声を荒らげる。


 だというのに。


「なぁ~お」


 『分かってるよ』そう言っているようなタイミングで鳴き声を返すマカロン。

 それはまるで、『馬鹿だな』と、言われているようだった。

 それはまるで、『そんなことしちゃ駄目だ』と、言われているかのようだった。

 

「まがろん……」


 これはきっと、私の都合の良い思い込みだ。


 それでも――


「ふなっ」


 太もも越しに伝わる喉の振動に、私は救われたのだと思う。




 後日。



「ご迷惑をお掛けしました。申し訳ありませんが退社させていただきます」



 私は退社届けを提出する。


「は? それが通ると思っているの?」


「そ、そうだよ! 千歳ちゃんの肩を持とうと思っていたけど、流石にそれは社会人として――」


「十分承知しています。ですが――」


 二人が言っていることは社会の常識だ。

 だけど、私は非常識と言われようと、その常識を受け入れることができない。


 急に辞めると言ったら誰かに迷惑を掛けてしまうことは分かっている。

 周りにいる社員が、如何にも「面倒だ」と、いった視線を向けてくる理由も分かっている。

 入社を喜んでくれた両親をガッカリさせてしまうことも分かっている。


 でも、そうしないと私の心と身体が死んでしまう。

 常識を受け入れようとした場合、私の心は殺されてしまうのだ。


 そして……恐らくだけど、これは私に限った事ではない。

 人によって心の置き方、比重の置き方というものは様々だ。

 人から見れば些細なことであったとしても、そんな些細で心が壊れてしまう人がいる。

 下らないと思われるようなことで、間違った一歩を踏み出してしまう人がいることも確かなのだ。

 

 だから。笑ってくれてもいい。後ろ指を指してくれてもいい。

 私は、社会不適合者だと否定されようと、自分の心を守る為に一歩を踏み出す。


 本当、人の言葉や価値観には様々なものがあると思うけど――


「これからもチューブのおやつをあげ続けたいので」


「「へ?」」

  

 こんな馬鹿げた考え方を原動力にして、時には逃げ出しても良いと思うんだ。

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