白鶺鴒
増田朋美
第一章
白鶺鴒
第一章
蘭は落ち込んでいた。
別になにか重大なことがあったとか、そういう訳ではない。ただ、自分が今、何の役にも立たないことを、強く感じているのである。人間にとって、集団からはずれて、除外されてしまうことほど、寂しいと感じることはないから。
自分以外の者は、みんな製鉄所へ行ってしまった。と、蘭は思っていた。杉ちゃんも、ブッチャーも、由紀子さんも、製鉄所で水穂の世話をしている。自分だって、なにか力になりたいのに、みんな自分のことを邪魔者と見ているような気がする。
最近では、唯一自分のそばにいてくれたアリスも、妊婦さんたちの相談事があるからと言って、すぐに出かけてしまうのである。家に帰れば、妊婦さんたちからの相談電話で、引っ張りだこなのであって、蘭の方は見向きもしないのであった。
今日も、刺青師の仕事を終えて、家の中でぼんやりしていると、
「一寸、蘭。お手紙よ、お手紙。」
アリスが蘭の肩をポンポンとたたいた。
「ちょっと、何ボケっとしてるのよ、お手紙よ、お手紙が来てるのよ!」
そう怒鳴るようにいわれて、初めて気がつく蘭だった。
「ほらあ、受け取ってよ。」
「あ、ああ、すまんすまん。」
蘭は、急いでお手紙をアリスから受け取った。達筆な万年筆で自分の名が書いてあるが、それも見たくなかった。誰かなあと思って、差出人を探してみると、手紙は国際郵便で、差出人は、青柳教授からであった。
「まったく、今時なんで。」
蘭は、封を切って中身を出してみる。手すき和紙のような紙に、綺麗な文字で、次のような文字が描かれていた。
「謹啓、日本ではそろそろ春になる頃ですね。平成ももう少しでおわりになるのでせうか。皆さん、お元気で過ごしていると存じます。」
何だ、ただの挨拶状か、と、蘭は読みながらがっかりする。でも取りあえず、読み進めてみた。
「さて、先日は彼女の背を施術して下さり、ありがとうございました。おかげさまで、ニューギニアのパプア人たちは、僕たちのことを、なかまだと思ってくれた様です。昨年訪れた時は、日本人何て信用できるもんかと怒鳴られて、追い出されてしまひましたのにね。」
蘭は、こんなことあったっけと一瞬面食らったが、あ、そうかそういうことがあったなと思い出した。
話は、夏に遡る。一人の、大学生の女性を連れて、青柳教授が、自分の仕事場にやってきたのだ。一瞬、やくざの親分が、新しい子分を連れて、お願いにやってくる、いわゆる「奢り彫り」と同じかと思った。まあ確かに、日本では、18歳以上であれば、誰でも刺青を入れてもいいことは確かなのだが、まさか大学の教授が、自分の生徒を連れて、刺青をお願いにやって来たとは、前代未聞である。彼女は偉く怖がっていたが、青柳先生、そんな弱い意志では、パプア人たちへの医療指導に行くことは出来ませんよ、としかりつけて、彼女の背中に龍でも入れてくれとお願いしたのだ。蘭は、さすがに、龍というものを若い美人の女の子に入れることは出来なかったので、代わりに、鳥の一つである、ハクセキレイを彼女の背中に彫った。
「今回、僕たち援助隊が全員刺青をしていったので、パプア人たちはとても喜んでくれて、土着のお酒までごちそうしてくれました。電気もガスも水道もない種族に、なぜ酒というものはあるのだろうかと不思議な気持になりました。」
確かにそうである。どんな原住民であっても、酒というものは飲む。若しかしたら酒というものは、どんな人間でも共通のツールなのかもしれない。
「死んでも帰れぬニューギニアといわれる地域ですが、僕たちも帰るのは難しくなりさうです。パプア人たちは、学生たちのことを、お嫁さんがやってきたと勘違いし、学生の中には、本当にニューギニアで暮らしたくなるほど、恋仲になった者もおります。みな、機械社会の日本には戻りたくないと言っています。」
やれれ、そんな風になってしまったか。原住民たち、愛情とか、恋情をストレートに表現するから、そうなるんだろうな。と蘭は思った。それに、日本人以上の愛を感じて、こたえてしまう学生も多いのだろう。いずれにしても、青柳先生が帰ってくるのは、まだまだ先になりそうだ、と蘭はちょっとため息をつく。ある意味、そういう所で暮らせるのは、しあわせなんだろうなとも思う。
でも、パプア人たちが、医療の事を知ってしまったら、必ずしも全部が幸せになれるかというと、そうでもないと思う。若しかしたら、パプア人独自の文化や死生観が、ぶち壊しになってしまうこともあるのではないか。そこらへんは、青柳教授の教えかたによって、変わってくるだろう。手紙にはそんなことは全く描かれていないが、多分、そういうこともあるんだろうな、それをめぐって衝突することだってあるだろうにな、なんて考えをめぐらせた。
「とりあえず、僕たちはニューギニアで元気に暮らしています。皆さんも、寒暖差の激しい季節になりますが、体に気を付けてがんばってください。今日は急いでいるので、こんな短い文書しかかけませんでしたが、時間があれば、写真何かも一緒に、また手紙を書きますね。敬白、青柳懍。」
一通り読んでみたけど、本当に嫌な文章だった。写真何か送られても、迷惑なだけなんだけどなあと思いながら、蘭は、ため息をついて、天井を見上げた。
「良かったじゃない。青柳教授から手紙を貰えて。蘭はエアーメールの書き方くらい知ってるんでしょうから、ちゃんと返事を出しなさいよ。」
アリスが、そんなことをいっている。本当は、原住民と一緒にいる青柳教授の写真何か貰ったって、ちっとも嬉しくないのだった。それに、パソコンではなく手書きの手紙であることが、またいやらしかった。そうなると貰った手紙や写真は、すべてこちらで処分しなければならない。返事を書くのにも、便箋を買って、郵便局に国際郵便の手続きをして、さらにお金がかかりすぎる。何もいいことはない。全くむかしの人は、こういう細かい所を利用して、若い奴をくるしめているんじゃないのか。と、蘭は、困ってしまうのであった。
とりあえず、蘭は、自身の寝室に行って、返事を書くために机に向かった。すると、机の上に置いてあったタブレットが、ピピピと音を立ててなった。
何だろうと思うと、メールであった。いそいで、メールアプリを開いて、内容を読んでみる。
「こんにちは。蘭さんお元気ですか。最近はだいぶ暖かくなって来ましたね。きっと、北海道に比べると、静岡は暖かいんでしょうね。これは私事ですが、今月いっぱい、東京で展示会を開くことになりました。家庭内暴力問題を研究している女性評論家の方が、私の活動を高く評価してくださって、私の作品を展示したいというのです。なので、私も先生の意向に添って、作品を展示する事にしました。場所は、東京の八王子にある、カフェスペースこみやという所です。ちゃんとバリアフリー仕様にもなっております。よかったら、私の作品、もう一回見に来ていただけないでしょうか。名寄でお会いした時のアドバイス、私、まだ忘れていません。本当にアドバイス通りになっているだろうか、蘭さんに評価していただきたいです。今回は、自信をもって彫りました。よろしければ、連絡下さい。渡辺勝代。」
蘭は、おもわずパソコンを抱きしめたくなるほど、嬉しくて、涙が出てしまった。
「どうしたのよ。蘭。」
アリスが、洗濯物をもって、部屋に入ってくる。
「タブレット見て泣くなんて、感動する小説でも読んでるの?」
最近は、タブレットで小説を読むことは、そう珍しくなくなっている。なので、彼女もそういったのだろう。
「いや、そうじゃないけどね。今度の土日、ちょっと東京行ってくるよ。」
蘭は、何食わぬ顔をして、アリスに言った。
「東京?何しに行くの?」
アリスが素っ頓狂に言うと、
「いや、彫菊師匠のなかまから呼び出されて。行先は八王子だ。」
と、蘭はこたえた。
「そう、わかったわ。新幹線の障害者スペース、空いているかどうか、すぐに連絡した方がいいわよ。」
と、こたえるアリス。こういうところが、日本人らしくなくて良かったと思う。日本人によくある、必要以上に他人に干渉しすぎることはしない。なので、時折亭主をほっぽらかしにすると、第三者から、言われてしまうこともある。
こういう妻で良かった。と蘭は思いながら、急いで新富士駅に電話をかけ始めた。
「もしもし、あの、土曜日の10時9分初の新幹線についてお問合せしたいのですが、」
ところが、新富士駅の駅員は申し訳ありませんといった。もう障害者席は満席になってしまっているというのだ。その次のならまだ余裕があると言うが、蘭は、どうもその次の新幹線には乗りたくなかった。
なぜかわからないけど、そういう気持になってしまったのである。
「だったら東海道線で行けば?最近では沼津から小金井まで、直通する電車もあるようじゃないの。」
蘭が、がっかりして電話を切ると、アリスが、なにか書き物しながら、そういうことを言った。確かに、富士からそういう電車はないが、沼津からであれば、栃木の小金井まで直通する電車も何本かあった。当然の事であるが、小金井までの間に、東京駅は存在するから、結果として、東京駅に停車してくれる。蘭は、そうすることにした。
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