若さ 青さ 儚さ

「ねぇ天使A、貴方さっきから下界を覗いて何を見てるの?」


「うーん?ヒトの子だよ天使B」


「貴方、また下界で悪さするつもりなの?」


「な、悪さって。この前のはヒトの子に愛を売っただけじゃないか。それより、下界って差別用語だよ?」


「下界は、下界じゃない。それよりあの子?貴方がさっきから見ているヒトの子は?」


 ____


 小鳥遊翔子は腹が立っていた。

 小鳥遊は普段は至って冷静で人に怒りを向けたことはほとんどない。


 けれど今日は違う。


 後輩の西尾麻里に言われた一言。それが何度も小鳥遊翔子の頭の中を駆け巡っていた。


「小鳥遊さんって、昭和生まれなんですよね?それで令和の時代に結婚してないって。無いわー」


 どうしてそんな話になったのかは覚えていない。最初は西尾の業務ミスを指摘した所から会話が始まったのだが、なぜ結婚をしているしていないの話になったのかは分からなかった。


 それでも小鳥遊は薄々と気付いていた。周りの社員からお局様おつぼねさまと呼ばれていることを。


「昭和って言っても私は、昭和64年生まれなのよ」小鳥遊はトイレにある鏡に映る自分に向けて言った。


 昭和64年とは、1989年1月1日から1月7日までのわずか7日間で、1月8日からは平成元年へと変わった。「だから実質、私だって平成生まれなのに」と小鳥遊は小さく呟く。


 鏡に映る小鳥遊の顔には小さいながら皺が刻まれていた。「嘘、やだ。こんな所に皺?」小鳥遊は持っていた化粧ケースを出してファンデーションで皺を隠した。小鳥遊は鏡をもう一度見る。なんだかほうれい線も目立ってきた気がしてならない。


 あれやこれやとファンデーションで気になるところを隠していたそのときである。


「お姉さん」と背後から声がした。


 トイレには入った時から今まで誰も出入りしていない。もちろん個室に最初から入っていたということもない。全ての個室ドアが半開きになっているのを小鳥遊は確認していた。だから小声ながらも独り言を呟いていたのだ。


 背後から声が聴こえたのだ、いくら鏡に映る自分の顔に集中していたとはいえ、後ろに人がいれば気配を感じるはずだ。何より鏡に声の主も写っているはずなのだ。しかし、小鳥遊は声の主を確認できなかった。それはファンデーションを塗るのに集中していたからではない。


「お姉さん、後ろだってば!聴こえてないの?」


 小鳥遊は意を決して後ろを振り返った。


 するとどうだ、身長の低い男児がニコニコ笑顔を浮かべて立っていた。目鼻立ちが整い子供ながら美形で中性的な顔立ちをしている。


 なんだ、身長が低くて鏡に写っていなかったのか。と、小鳥遊は胸を撫で下ろした。

 いや、そうなると別の問題が発生する。この子は一体何者?それが小鳥遊の頭を巡った。


「迷子かな?」とりあえず小鳥遊は冷静を装って聞いた。


「違うよ」


 男の子の答えから迷子ではないらしい。

 だが、男の子が女子トイレに入っているとは如何なものか。


「君、お父さんかお母さんは?」

 きっと社員の誰かが仕方なしに子供を会社に連れてきたのだろうと小鳥遊は聞いたが、目の前の子は「そんなことより」と切り出した。


「え?」


「だから、そんなことよりお姉さん老けるのを止めたいんでしょ?」


「え、ふ、老けって」。小鳥遊は目の前の純粋無垢な子から突然鋭利な刃物を突きつけられた感覚に襲われた。


「あ、ごめんなさい。少しストレート過ぎたかな?老化だ。老化を止めたいんでしょ?」


「ろ、ろうか、廊下、老化⁈」


 小鳥遊は自分にはまだ先に感じていたその言葉を単刀直入に言われたじろいだ。


「君、本当に誰の子なのかしら?あのね女性には使って良い言葉と悪い言葉があるのよ?」


「誰の子って、みんな神の子でしょ?」目の前の子はケロっとした顔で答える。


「神の子って……貴方の家はキリスト教か何かなの?」


「キリスト?あぁ彼には何度か会ったことあるよ。でも今はその話より、お姉さんの話だ。」


「私の話?」


「そ、お姉さんの話。若さが欲しいんじゃないの?」


「何でそれを⁈」


「ずっと見てたから」


「ずっとって?どこから?いつからよ?」


「質問が多いなぁ、ヒトの子は。上からだよ。ずっとはずっと」


「よく分からなけど、貴方は私をからかいにでも来たの?」


 目の前の少年は首を振って「だから、お姉さんの望みを叶えに来たんだって」と言った。


「私の望みって……その、若さを保ちたいってことを?」


「そうそう、これを飲んでくれるだけで良いから」そう言って目の前の少年は小さな錠剤を取り出した。


「……なにこの怪しい薬」

 小鳥遊は素直な感想を口にした。


「怪しい薬って……わざわざヒトの子に分かりやすいようにこの形にしたのに」少年は何処か落胆しながら「この前は愛をゼリーにして売ったけど、は疑い無く食べていたよ」と話す。が、小鳥遊にはなんのことやらさっぱりだった。


「うーん。」と少年は少し悩んだ後、こう続けた。「お姉さんテロメアって分かる?」「し、知らないわよ。なにそれ」「えっとね。テロメアっていうのは身体の中にある時計の様なものだよ」


 小鳥遊は「身体の時計?」と首を傾げた。

 目の前の少年が話すのは以下の通りだった。

 テロメアの長さが人間の寿命になっているらしい。「言うなれば命の蝋燭だよ」と少年は笑って話す。テロメアは細胞分裂を繰り返す毎に短くなっていくらしく新生児なら長く、老人なら短いということだった。


「それで、そのテロメアがなんなのよ?」


「察しが悪いなぁ」

 少年はやれやれという仕草をして、さっきの錠剤をまた見せた。


「これを飲めばさ、テロメアの消費を止められるんだよ」


「え、それほんと?」

 小鳥遊は半信半疑だった。そんな魔法のようなサプリがあるなんて聞いたことがない。


「副作用とかは?」


「無いよ。だって僕が作ったんだから」

 どうしてが作ったから副作用が無いと断言できるのかは分からなかったが、「ほら飲んで飲んで」少年が急かし言われるがままに小鳥遊はそれを飲んだ。


「飲んじゃった」


「うん。それじゃあ僕は行くね。あ、ちなみにこれは特別なんだけど、貴方の肉体も若返らせてあげたよ。ヒトの子が最も美しいと言われる20歳の身体だ」


 それを最後に少年は消えてしまった。


 小鳥遊は鏡に向き直り「あれ、私何してたんだっけ?」と一言。すると、トイレの入り口がキィィと音を立てて空いた。開けたのは涙目の西尾麻里だった。


「小鳥遊さん……私悔しくって……小鳥遊さんいつも正論言ってなんか私凄い攻撃されてる様な気がしてついあんな事言っちゃいました。……すいませんでした」


 小鳥遊は西尾のそれを聞いてか、はたまた別の理由からか分からないが、もう最初の頃の腹立たしさは何処にもなかった。

「いいよ、いいよ。ミスくらい誰にだってあるよね。今度から気をつけてね」自分でも驚く言葉を小鳥遊は西尾に掛けていた。


「はい……って、なんか小鳥遊さん雰囲気変わりました?見た目若返った様な……」


「なにそれ、お世辞のつもり?今更褒めても駄目よ。」そう言って笑顔を浮かべる小鳥遊の顔にはさっきまで気にしていたほうれい線が消えていた。



 _____


「それで、天使A?」


「それでってなにが?天使B?」


「それからあのヒトの子はどうなったの?」


「知らないよ。見てないから」


「貴方、無責任ね」


「無責任って、僕は彼女の願いを叶えたんだよ。褒めて欲しいくらいなんだけど」


「勝手にヒトの子の下へ行って、勝手にテロメアを弄って、褒めて欲しいって貴方それ何て言うか知ってる?」


「なに?なんて言うの?」


「傲慢よ。私達は神さまじゃないのよ。ヒトの子の人生をどうこうして良いわけないじゃない」


「傲慢かぁ。でも僕のおかげできっと彼女は素敵な人生を送っているはずだよ」


「だからそれを傲慢って言うの。ただでさえ天使がヒトの子と会うなんて……」


「いいだろ、別に。ヒトの子は僕ら天使と出逢ってもすぐ忘れちゃうんだから」


「そう言うことを言っているんじゃないの。神さまが禁止している事には必ず意味があるのよ。それを貴方は平気で破るなんて、呆れた」


「そんなに言うならさ、会いに行こうよ彼女に」


「嫌よ、私は神さまの教えを破りたくないもの」


「あぁ、そうかい。それじゃあ僕一人でまた行ってくるよ」


 ____


 とある一室で小鳥遊翔子は眠っていた。

 その部屋は明るく白い部屋だった。


「お姉さん。僕だよ」

 天使Aは小鳥遊の耳元で囁いた。

 けれど彼女は起きる素ぶりを見せなかった。


「ねぇ! お姉さんってば!」

 一際大きな声で小鳥遊に呼びかけたがピクリとも動かない。


「あら、なんだか声が聞こえると思ったら貴方どこから入ったのかしら?」

 天使Aが小鳥遊に気をとられている間に、部屋の扉が開き見知らぬ白衣姿の女性が入ってきた。


「彼女に面会かしら?」


「うん、まぁそんなところ。それで彼女はどうして起きないの?」


「あら、面会人なのに彼女の奇病を知らないの?」


「奇病って?彼女病気なの?」


 白衣の女性は少し訝しんだ顔をしたが、そのまま天使Aの質問に答えてくれた。


「彼女ね、こう見えて120歳を超えているの」


 へー、僕がちょっとばかり天界に帰ってただけでヒトの子の世界ではそんなにも時間が経っていたのか。と、天使Aは内心で呟く。


「テロメアって知ってるかしら?人の寿命の様なものなんだけど。彼女はそれが20歳前後で止まっているの」


 天使Aはそれを聞いてどこか誇らしげな顔をして見せたが、白衣の女性はそれを気に留める事はなかった。


「で?それで何でお姉さんは動かないのさ?」


「私もね聞いた話なんだけど、彼女には最愛の人が2人いたそうよ」


「2人も?」


「そう、最初の人は彼女がずっと変わらない姿だったから段々と気味悪がって離れて行ってしまったんだって」


「じゃあ、2人目は?」


「2人目の人は、見た目が変わらないことをなにも気に止めなかったそうよ。『それは貴方の個性なんだ』って褒めてくれたんだって」


「それじゃあ、その人とはずっと一緒だったの?」


「そうね。そう、彼女は彼の最期を看取ったらしいわ。彼女がまだ元気だった頃話してくれた。『仲のいい友人、最愛の人、沢山の人が私の周りを過ぎ去るように逝ってしまう』って」


「それで?なんでお姉さんは動かないのさ?」


「人間がね、健康でいられるのは肉体だけじゃなく精神も関係しているんだって。彼女の肉体は20歳のそれかもしれないけど、彼女の精神は120歳を超えているの。」白衣の女性は「だからね」と続ける。「彼女は周りの人が亡くなるのを見て、置いていかれたと思ってしまったのね。いつの日にか彼女の心は壊れてしまったの」


「心が壊れた?」


「そう。テロメアが止まっているなんて事例一件しかないから確かなことは言えないけど。肉体に寿命があるように人間の精神にも寿命があるってことを彼女が証明してくれたの。肉体と精神の年齢が釣り合わないと人間は正気を保てないのね」


「それで、お姉さんはもう起きることがないの?」


「えぇ。彼女が起きることはもう無いわ。だってが死んでいるんだから」


 ____


「それで、どうなの?この結末は天使Aの望むものだったのかしら?」


「天使Bは意地悪だね。そんな聞き方をするなんて」


「あら、ごめんなさい。そんなつもりなかったのだけれど、気に触ったのなら謝るわ」


「いいんだ。僕はこの結果にも満足しているから」


「あら、そうなの。以外ね」


「若さは、幻なのさ。一瞬で終わるもの。儚いからこそ、その一瞬を懸命に踠き生きようとする。それがヒトの子の良さなのさ。それを改めて知ることができたから僕は満足しているよ」


「呆れた。どの口が言うのかしら……天使A貴方はやっぱり傲慢だわ」



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