喫茶店で甘い夢を見る

無月弟(無月蒼)

第1話

 誰にだって、至福の一時と言うものは存在する。


 私の至福の一時。それは行きつけの喫茶店で、カフェオレを飲んでいる時。

 そこはまるで、80年代から時が止まっているようなレトロなお店で、大学の一つ上の先輩、野上君の家でもある。

 家族経営のお店で、野上君もよくウェイター服姿でカウンターに立っているけど、それを少し……ううん、とても格好良いって思っている自分がいる。私が喫茶店に通うのは、もちろん美味しいカフェオレを飲むためでもあるけど、野上君がいると言うのも大きな理由なの。


 大学では、頼れる先輩。お店では、イケメンウェイター。そんな彼の事を、良いなって思って……もとい、好きだなって思っているのだ。

 ええ、そうですよ。恋していますよ。愛しの野上君に会う為にお店に通っている、プチストーカーですよーだ。だけど仕方が無いじゃない、好きになっちゃったものは。


 さて、そんなわけで。時間とお財布に余裕があれば、ちょくちょく喫茶店通いをしているのだけれど、今日はいつもと少し事情が違っていた。野上君の喫茶店に、行くことは行ったのだけれど……


「野上君、三番テーブルにアイスコーヒーを二つ」

「了解。ナポリタンができたから、1番テーブルに運んでくれる?」

「分かった」


 カウンターの奥。先ほど取ったオーダーを野上君に伝えて、出来上がったナポリタンを運んでいるのが、今の私。事情が違うと言うのは、いつもはお客さんとしてこの店に来ているけど、今日は働いているという事。


 今から少し前、夏の暑さを冷ましてくれるアイスカフェオレを飲みにお店までやって来たのだけど、入ってみてビックリ。いつもはいるはずの野上君の御両親が見当たらなくて、野上君一人で、忙しそうにお店を回していたのだ。

 そしてそこで、こんな会話があった……


『いらっしゃい、永井』

『こんにちは野上君。ずいぶん忙しそうだけど、お父さんとお母さんはどうしたの?』

『それが、親父が熱中症で病院に行って、母さんもその付き添い』

『え、大丈夫なの?』

『軽いものだったから心配無いって連絡があった。っと、永井はいつものカフェオレだよな。すぐ用意するから、座っててくれ』


 そう言って準備を始めた野上君だったけど、やっぱりとても忙しそうで。店内を見ると、お客さんも少なくないし、一人で何とかするのは大変そうだ。よーし、だったら。


『野上君、私で良ければ手伝うよ』

『え、俺は助かるけど……良いのか?』

『私は構わないよ。前にファミレスでバイトした事があるから、要領は分かると思うけど……ダメかな?』

『永井がそう言うなら。ありがとう、凄く助かる』


 凄く助かる。そう言った時の野上君、とても嬉しそうに笑っていて、思わず見惚れちゃったなあ。

 それからエプロンをつけて。オーダーを取って、野上君が用意した料理や飲み物を運んで。目まぐるしい忙しさだった。

 だけど全然、苦にはならなくて。やっぱり好きな人と一緒に働けると言うのは、テンションが上がっちゃうみたい。野上君が働いている姿は、お客としてきた時だっていつも見ているはずなのに、同じカウンターの奥で見る野上君は、何だかまた違った魅力があった。


 店員とお客かとしてではなく、一緒に仕事をすることで、いつもとは違う素敵を感じられるみたい。と言うことは、反対に野上君も、私がいつもとは違って見えているってことなのかなあ……

 ハッ、いけないいけない。今は仕事中なんだから、遊び半分にやって、野上君に迷惑をかけるのなんて絶対にダメなんだから。ここ、重要だから!


 そうして忙しい時間が過ぎて。残っているお客さんは、カウンターでコーヒーを飲んでいる、常連客のおじさんだけ。ようやく落ち着いた私と野上君は、溜まっていた洗い物を片付けることにした。


 野上君が洗った食器を、私が拭いていく。でも、ちょっとだけ残念なのは、今の彼が半袖の制服を着ていたという事。長袖の時は、洗い物をする際に袖が水で塗れないよう、腕を捲り上げるのに、半袖だと当然そんな事をする必要なんて無い。あーあ、腕まくりは私の好きな胸キュン仕草なのに。

 ただ腕を見るだけでなく、腕を捲り上げるという動きに、たくさんのキュンが詰まっているの。これ、重要だから!


 もっとも、洗い物をする時以外にも、露出した腕や、うっすらと見える血管や筋を堪能できるのは利点だから、半袖も長袖も一長一短なんだけどね。何より野上君はそのどちらも似合うから、季節ごとに衣装が変わるのは嬉しい。


 そんな事を考えながら洗い物をしていると、カウンターに座っていたおじさんが話しかけてくる。

「マスターが熱だして病院に行ったって聞いたけど、熱中症は、大した事ないのかい?」

「おかげさまで。病院で少し休んだか帰ってくるって、連絡がありました」

「それは良かった。だけど今日は大変だったんじゃないか? 昼時に一人で店回して」

「最初は大変でしたけど、永井が手伝ってくれたおかげで、だいぶ楽になりましたよ。ありがとな、永井」

「わ、私は大した事してないよ」


 ありがとうって言われた事が嬉しくて、照れながら返事をする。するとおじさんが、そんな私達を見て一言。


「そうやって二人並んでいると、何だか新婚さんみたいだな」

「し、新婚⁉」

「タカさん、冗談言わないで。永井が困ってるじゃないですか」


 野上君はそう言ったけど、私は困ったと言うより、ビックリした。そうか、私と野上君って、他の人の目にはそんな風に映っているのか。本当は違うって分かっているのに、つい嬉しくなってしまう。


 新婚、かあ。もしも……もしもだよ。本当にそんな事になったら、いったいどうなっちゃうのだろう? 

 例えば……



『楓。おーい、楓』(新婚さんだから苗字じゃなくて名前で呼んでいる)

『なあに、アナタ?』

『洗い物をしてたんだけど、捲り上げていた袖が落ちてきた。もう一度捲り上げてくれないか?』

『ふふふ。これは私の想像の世界だから、夏でも長袖を着ているのね。しょうがないなあ。それじゃあ、腕をかして』


 そうしてほど良く筋肉がついた野上君の腕に、私の手が触れる。ずり落ちていた袖を捲り上げると、ゴツゴツしすぎず、だけど引き締まった腕が露わになる。目の前に広がる前腕屈筋群。上下する筋肉、くっきりとした血管、筋。肘辺りまで捲られたシャツが、腕を動かす度に上下して、肘関節の部分が見えたり見えなかったり……


「永井。おーい、永井」


 折込みが甘かったのか、せっかく捲り上げた腕がまたずり落ちてきて、私がもう一度捲り上げて。同時に、無防備に晒された腕をそっと指でなぞって……


「永井! な・が・い!」

「はっ⁉ な、なに、野上君?」


 見ると洗い終わったお皿を、野上君が差し出していた。いけない、私が受け取って拭かなくちゃいけないのに、つい新婚生活を想像しすぎちゃってたよ。


「ごめん、ボーっとしちゃってた」

「別に謝らなくていいけど、どうした? まさか永井も熱中症?」

「ううん、違うの。これは全部、前腕屈筋群が悪いんだよ」

「何言ってるか分からないけど、とりあえず大丈夫なんだな?」


 大丈夫大丈夫。平常運転だよ。

 ボーっとしていた分の遅れを取り戻そうと、急いで差し出されていたお皿に手を伸ばした……が!


「あっ!」


 慌てていたのがいけなかったのか、お皿を受け取った瞬間、手を滑らせて落としてしまって。するっと手からすり抜けたお皿は、そのまま重力に従って、床に向かって降下していく。そして……


 バリーンと言う、耳を突くような高くて嫌な音が、お店に響いた。

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