最果ての村便り

津麦ツグム

第1話 ある雨の夜、誰かと誰か

「涙が止まらないんです」

 見ればわかるよ、と先生は言った。飴色の古びたテーブルの上には2人分のコーヒーカップが並んでいる。僕の目の前に1つ、そして先生の目の前に1つ。先生は変温動物のように温度の感じられない目を僅かに伏せて、口に咥えた煙草に火を点ける。頼りない灯りの下、一瞬だけ先生の彫の深い顔に影が出来る。昔、わくわくしながら見た白黒映画のワンシーンのようだと僕は思った。先生の右手に置かれたアルミ製の灰皿には煙草の吸殻が3本、雨上がりの土に横たわるミミズのようにひしゃげて転がっている。また、ぼろりと右目の縁を水滴が零れ落ちていく。それは塩分にすっかり弱った皮膚の薄い目元ではまるでアルコールのように熱いのに頬を滑っていくうちに急速に冷えていく。死に往く生き物の温度にそれは良く似ている。あまりテーブルを汚すのも良くない、と僕は先生から手渡されたタオルで顎までさしかかった涙を押すように拭う。少しだけ俯いた衝撃で今度は左目の縁から雫が零れ落ちた。

 もう1週間もこんな感じで、うんざりしてしまう。

 「少し待ってておいで」

 先生はそう言って不意に席を立った。僕はすっかり水分を吸って湿ったタオルの端から離れていく先生の背中を見送った。固い音を立てて木製のドアが閉まり、僕は手持無沙汰に西向きの窓を見上げる。すっかり暗くなってしまった空を背景に、窓の近くに植えられた植物のシルエットが風に揺らされて絶えず形を変える。ここに来た時はずいぶんと激しく降っていた雨は、やや落ち着いたようだ。窓を激しく叩く水の礫はすっかり鳴りを潜め、今は大人しく空から地面へと自由落下していく水滴レベルになっている。砂が流れる音によく似たその音は気まぐれに密度を増して耳に迫り、同じタイミングで僕の視界はじわりと滲む。

 僕はすっかり途方に暮れて冷たいタオルに顔を押し付けた。金属が擦れる音がして顔を上げると片手にタオル、もう片方の手には蝋燭を持った先生が立っていた。火のついた蝋燭は心細そうに揺れて木の壁に映った先生の影が歪む。カモミールの花の匂いが薄絹を広げたように静かに落ちてきた。甘く、少しだけ苦いその香りは記憶の奥底の輪郭の表面だけを柔らかく撫でた。それは木の洞で眠っていたあの夜。それは草原で走ったあの朝。それは暖かなベッドに丸まったある昼。そういうようなものと一緒に在った香りに良く似ていた気がした。それが一体いつの記憶だったか、ほとんど形を残していない、そういう有象無象。

 「流石にもうそのタオルも役に立たないだろう」

 「すみません、ありがとうございます。すごく懐かしくて優しい香りがします」

 「瑛がくれた。そのうち使うことがあるかもしれないから、と」

 「使っていいんですか」

 「たぶんな。私自身での使い途は思い当たらないし」

 「なんだか申し訳ないです」

 「気にしなくていい。きっと瑛はそれも見越してのことだろう」

 僕は気づかない内に随分心配させていたのかもしれない、とここにいない彼女に頭を下げた。赤銅色の髪の彼女が若草色の瞳を細める。

 「それにしても、今年はずいぶんと長雨ですね。こうもずっと雨が降っていると気が滅入ってしまいます」

 「ああ、そうだな。もう1週間近くになるか」

 「少し前にトウから教えて貰ったんですが、ヒトの心って天気にも影響されるらしいですね」

 瑛特製の蝋燭のお蔭か少しばかり落ち着いてきた僕は最近仕入れた知識を先生に披露した。もちろん褒めて貰えたらとてもとても嬉しいけれど、それ以上に先生はとても物識りなのでもしかしたらもっと色々教えて貰えるかも知れない、と僕はいつも期待している。この古くて小さな村から出たことのない僕は何時だって新しい知識に飢えている。知っていることだって沢山あるけれど、知らないことを知るというのは何時だってとても楽しいのだ。何年生きていても変わらないのでどうやらそういう性分らしいと思っている。

 「天気が優れない季節に体調や精神状態のバランスを崩すというのは珍しい話ではない。特に顕著なのは夏至や冬至の時間差が大きな地域だな。日照時間というのは神経系統の切り替えに大きく作用している。だから、交感神経と副交感神経のバランスが崩れやすくなるんだ。それがストレスや疲労となると、免疫も下がってしまい結果体調も崩しやすくなる、と私は考えている。

 まあ、そういうことは誰にだってある。あまり気に病むな」

 ぼろり、とまた水面張力を振り切って落ちてきた涙を僕は新しい乾いたタオルで拭う。先生は何か言いたげな表情を浮かべたけれどそれだけだった。たまに先生はそういう顔をする。不器用なひとなのだろうと思うし、僕はそういう先生の不器用さに憐みと好感の入り混じった感情を抱いている。

 雨がまた少し酷くなったようだ。砂から小石くらいに変化した雨音に僕は耳を澄ませた。さっきまでは、少しばかり落ち着いていたはずの涙はできたばかりの水痕を通ってほろほろと頬を転がり落ちていく。


 「そろそろ帰ります」

 彼はそう言ってやおら立ち上がった。華奢な外見と穏やかな物腰のせいでどうにも座っていると小柄に見えるが立ち上がると私とそう変わらない位の身長がある。20代前半ほどの至って平凡な青年にしか見えない。話す言葉も、リアクションも、どれを取っても彼はあまりに普通だ。普通で平凡で純朴な、都会を知らずにこの小さな村で育った田舎の青年。多少付き合いは長くなったといえど、最初に感じたその印象だけは彼をとりまく様々な事象を多少見知ったところでどうにも拭える気がしない。

 むしろ瑛の方が数倍人間離れしていると思うが、それは彼女がえてして行っている演技めいたものも感じるので彼女と彼を比べるのはまた筋違いというものだろう。

 多少は落ち着けたのか、彼は瞳から涙を零しながらもどこかすっきりした表情をしていた。彼が来るまでは激しく降りしきっていた雨も今では落ち着いて、あと少しで止む気配がする。うちにいる間、彼は泣いていた。しかし表情が別段苦しげに歪むわけでも、悲しみに沈むでもない。困っている、という表情が一番相応しいだろうか。感情の伴わない涙というのは人に違和感を与えるものなのだと、私はのんきに考えていた。

 涙というものが基本的には感情とセットであると長く私の中で認識されているからなのだろうし、そしてそうではない涙というものを私が目の当りにするのが初めてだということも理由のひとつなのだろう。

 ある意味では私が初めて肌で感じた、彼の本質。彼の異質さ。

 知ってはいてもどうにも不思議なものだと、私は他人事のように彼を観察していた。実際のところは他人事であって他人事ではない、というなんとも微妙なラインではあるのだが。これ以上雨が降られていてはおちおち町へ買い出しに行くことも難しかっただろうし、家の裏手にある山の土砂崩れも心配だった。なんにせよ、雨が止むことは良いことだ。私はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲みながら、小雨の中に消えていく彼の背中を見送った。

 じりりりり、と部屋の隅に置いた古い黒電話が震えた。

「もしもし」

「私のあげたアロマキャンドル、役に立ったでしょ?」

 電話越しの女の声はどこか得意げだった。

「ああ、私にはなんの変哲もないただの蝋燭だったけどな」

「あら、寂しいヒト。でも、そういう方がよっぽど幸せで健康的かしらね。

 いいじゃない、今を生きてるって感じがして」

 電話の向こうで魔女が柔らかく微笑んだ気がした。

「放っておいてくれ。今日の夜には雨はたぶん止む。これでいいだろ」

「上出来よ、先生」

 それじゃあね、と上機嫌な魔女は一方的に電話を切った。

 私は役目を終えた無臭の蝋燭の火を吹き消した。


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