渡れない橋の物語
和泉 コサインゼロ
第一話 老人と少年
対岸に渡ることのできない橋のために、あなたは通行料を支払うだろうか?
今から百年前、いわゆる近世期に建造が始まった『ザッケウス市橋』は、今もまだ完成しておらず、橋としての用を為していない。しかし人々は、海上に数十メートルばかり張り出たこの建造物のために、わざわざ通行料を支払い、そしてたくさんの笑顔を浮かべてきた。
それはいったい、どういうことなのだろうか……? 少しばかり、この不思議な橋の物語を書き記したい。
条約歴四〇二年、秋。
ザッケウスの南にそびえる殺風景な岩山に、一人の老人がたたずんでいた。
老人の名はマーリィ・ロペス。政府の御用商人として街の建材の取り引きを一手に担う、ザッケウスの街に並ぶ者なき富豪である。夜闇より黒い燕尾のスーツはきわめて上等な仕立てだが、内に着るシャツはくたびれ切っている。財にも時間にも
辺りに人の影はない、それを確認して、老人は静かに息を吐く。それが秋の終わりの寒風に乗って、はるか彼方へ向けて吹き下ろす。抜けてゆく先の街は閑散として、生活臭を漂わせていない。灰色をした石造りの家々の間を駆けてゆくうちに、風は、甲高い笛のような音をたてる。これは、墓石の間を縫って流れる、
老人は足下の硬い岩を用心深く手で探り、そこにゆるやかに腰を下ろした。そして震える両の手のひらをじっと見つめて、それから強く顔にあてがった。
(手の施しようはありません)
この街……いや、内海をぐるりと統べる帝国で最高の医師は、マーリィに向けて、確かにそう告げた。
マーリィが今まで愛を注いできた、巨万とも言うべき黄金色に光るものたち。また、情熱の全てを注いで築き上げてきた、政財界への影響力。建材を運び込んで街に建てさせた、大きな病院。税逃れのためとはいえ寄進を続けてきた、神聖な寺院。それらはすべて、彼を蝕む死の病に対して、あまりにも無力だった。
当時のザッケウスを治める帝国の法は厳しく、そして非情である。継がせるべき正統な家族が一人とて居ない以上、彼が生涯をかけて成した全ての財は、土に埋められた腐肉のように、官吏の虫たちに食い荒らされる。名声もまた、海に沈められた肖像画のように、時の潮に洗われてゆくだろう。
その怖ろしくも避け得ぬ未来に、老人は痩せた身体を震わせる。日はとうに、西の岬の向こうへと姿を消した。あとは静かな闇が訪れるだけだ。
「どうしたの、おじいさん?」
不意にかけられた声に、マーリィは空耳を疑った。首をえぐるように捻り、肩の後ろを
胸の内では打ちひしがれていても、マーリィの眼光はまだ鋭さを失っていない。みすぼらしい身なりの少年が、手には何も持っていない事を見て取ってから、ゆるりと首をもとに巡らせる。強盗ではないのなら、刃物で刺される心配は無いだろう。
「ねえ。お水、要る? 美味しい水が湧く泉を、知ってるよ?」
このように言う少年は、物乞いの類いだろう。ならば、このまま黙って無視を決め込むのが、最も失う物が少なくてすむ。
しかし、次に少年が言い放った言葉が、マーリィの胸を深く刺し貫いた。
「道に、迷ったの?」
透明な痛みに、思わず顎の隙間が開き、ああ、と弱々しい声がこぼれ出た。
「どこへ向かえば……いいのだろうな」
精一杯ひねり出した皮肉めいた言葉が、己の本心からあふれたつぶやきであると、マーリィはなかなか認める事ができないでいた。
「なら」
少年は細くも
「一緒に考えてあげるね」
ともに座り込む、少年の持つ澄み切った熱が、二人を隔てる空気をも温め、老いた身体に染みこんでくる。
マーリィはしばし頭を巡らせ、どんな言葉ならば、この物乞いを追い払うことができるかを考えた。自分が街を牛耳る豪商であると告げたなら、どうだ。
「わしの名はマーリィ、」
「僕は、ティム」
邪気のない少年の名乗りに、老人は脅しのために喉から出そうとしていた肩書きと、帝国からせしめた褒章の数々を取り落としてしまった。
マーリィは、海に沈められた己の肖像画をまた胸に描いた。それはすでに朽ち始めていて、この少年の澄んだ目には自分の価値も意味も、わからないのだ。
(ならば、自分はどんな人間であると名乗ればいい?)
老人はそれから、自分自身のこれまでの生き様について、思いを馳せた。
マーリィはこの街で金貸しとして身を起こし、ただ蓄財のみに励んできた。
折しも、強大な帝国が街を支配下に置くようになり、厳しい法による統治を始めたところだった。そして帝国は全ての商品の流通を管理、掌握しようとしはじめる。食べ物、着るもの、住む場所に至るまで、全て帝国が認めた商人からしか卸せないように定められていった。
この機をいち早く読み取ったマーリィは、貸し付けた金を剥がしてまわり、ありったけの財をかき集め、使えそうな全ての伝手を無理に動かして、自分一人だけが建材を商える権利を国から買い取った。そして、街の中に数々の石の箱……その役をろくに果たせもしない建物たちを造らせてきた。
やがて幾十年の時が経ち……マーリィの財は蔵にあふれかえり、街は石の箱で満たされた。周囲の各業界に対する、きわめて大きな影響力も掌中に収めた。しかし、手元の金貨と証書が増えるほど、屋敷の中は冷たく寂れていく。そして石の箱が街を埋めるほど、帝国と民も疲弊していった。流れを阻害された帝国の経済は大きく傾き、物価ばかりが高騰を続け、国政は
自分は、この街の活力を吸い上げて、ただ己の
はたして自分は、この少年が怖れ、敬服し、
「橋だ」
思わず、口を突いて言葉が漏れる。
山と海に挟まれたこの街には、いくつもの川が入り組んで流れている。マーリィは帝国を動かして、そこにいくつもの橋を強引に架けさせた。建造のために多くの資材が買い上げられ、また維持、修復するためにも消費され続ける。そして、それらの橋を、名目だけ寺院に寄進することによって、帝国に支払うべき税も避けてきた。
しかし、橋は陸上の交易の便は高めるが、川に急流と
胸の病巣が、うずく。芽生えはじめた罪の意識が、老人の心身を
「わしはね。この街のいたる所に、橋を建ててきた人間なのだよ」
寺院で
「じゃあ、みんな、おじいさんに感謝するね!」
ティムは老人の言葉に、無邪気に、嬉しそうな声をあげた。
「感謝を……?」
「見てよ!」
思いがけぬ言葉を信じられぬマーリィは、
その灯りの位置を頭の地図と照らし合わせて、老人は気付く。
(闇市だ)
もともと橋というものは、
「橋の上でなら、いくらか自由に物が買えるんだ。それに、僕たちのような貧しい人が、日銭を稼ぐために寄り集まる。だから、みんな感謝する!」
マーリィはそれまで、闇市という存在に好意的な感情を持った事はなかった。彼は独占する側で、闇市はそれに逆らう虫けらどもの巣であった。しかし、この少年にとっては、そうではない。闇市は、生きていくために必要で、ありがたがるべき命綱なのだ。橋などというものは、ひとたび川が大きく氾濫すれば、
この街は、いつから、そうなってしまったのか。
老人はそっと目を閉じる。そしてまぶたの裏に、遠い昔の情景を思い描く。
そこには、父親の背に乗せられた、幼い姿の自分がいた。辺り一面に、人の波で賑わう市場の光景が広がる。腕を伸ばし、ぐるりと周囲を見渡して、そこにあふれるあらゆる人々、品々、光、色彩、音楽、かけ声、ざわめき、足音、香り、味わい……そして笑み顔の数々を眺める。自分の顔もほころんで、自然と笑みが浮かびだす。
貧者が歌い踊り、富者が荷物持ちを従えて歩く。
そこで父親が、我が子の手のひらに、一枚の銅貨を握らせた。
自分は、その一枚の銅貨を手にして……。
我に返って目を見開く。すると、全ては渦に飲まれて、消え失せた。手の内の銅貨も、消え失せた。そして涙で薄ぼやけた街並みが……石の棺の群れだけが、眼下で静かに眠っているのが見えていた。
マーリィは、あの銅貨を人に貸し付けた。そして利子と共に貸した金を無理に取り立てて、この石の棺たちに変えていったのだ。
(わしはただ、あの賑わいをひとかけら、この手につかみたかっただけなのに)
マーリィはおそるおそる振り返り、そっとティムの姿を見上げてみる。
彼はまだ、そこに居てくれた。にじむ視界の中で、小さく笑んでいた。こんな自分に尊敬の眼差しを向けてくれる、その淡く輝く小さな顔が、天より手を差し伸べる聖者のように見えた。
しかし、その指先を取り返そうとしたマーリィの腕が、とまどい、震え、宙で止まった。穢れきった老人の手は、大きく隔たった目に見えぬ境界を、越えることができないでいた。
自分と少年は、どうしてここまで引き離されてしまったのだろうか。少年の遠い手を取るためには、どうすれば良いのだろうか。彼の居る向こう岸にまで泳ぎつくためには、何が助けとなってくれるのか。
「橋だ」
正面に向き直ったマーリィの目が、街にともされた闇市の光を真っ直ぐに見据える。
「橋を架けよう」
強い意志を宿した目の先は、橋を巡って、川を下ってゆく。川はやがて内海へ流れ出る。
「海へ」
この帝国は、今はこの内海を囲うように領土を持っている。皇帝は今、対岸の領地に兵を行き渡らせる手立てに思い悩まされている。
この内海に、橋を架けると言い出したなら、皇帝は益があると見て動き出すやもしれぬ。
老人の頭の中の
(届くだろうか? いや……届かせるのだ)
不思議と言うべきか、マーリィの視線の先は、内海の対岸など見据えていなかった。だが、迷子の老人は、向かうべき先を見つけていた。じっと目をこらし、ただ欲していたのは、
(あの笑み顔にまで……!)
老人があらぬ方を凝視して唸りはじめたからだろう。ティムは心配のあまり、しわがれた手にそっと触れようとした。マーリィはその温かい手をしかと握り返すと、残されていた力をそこに込めた。
「手を引いておくれ、ティム」
少年はうなずくと、その手を優しく引きあげる。老人は冷たい岩の上から身を起こし、ゆっくり、しかし、力強く歩き出した。
もう少しだけ、彼に力が残されていたなら、少年を肩に担ごうとしたことだろう……かつて父親が、賑やかな市の中で、自分にそうしてくれたように。
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