七章 記憶の亡霊 2—3
理性をつかさどる左脳のオーガスが、ショックガンをあびて失神した。かわりに目ざめたのは、オーガスではなく、胡蝶の脳だったのだ。
「胡蝶……」
胡蝶は無言のまま、蘭にショックガンをつきつける。最大メモリ。脳が沸とうするレベルだ。
あれで撃たれれば、たとえ不死身の蘭でも、脳が完全に破壊される。細胞は再生するだろう。でも、記憶は失われる。
オリジナルのオリジナルたるゆえん。
蘭のパーソナリティが失われる。
それは、蘭の死に等しい。
(そんなに……僕が憎いのか。胡蝶)
いやだ。死にたくない。体が殺されるのは、まだいい。でも、それは魂の殺人だ。
(僕の愛した人たち。大切な思い出……なくしてまで、生きてたくない)
不老不死になったとき、この世の条理から、蘭は外れた。
大切な人たちは、いつか必ず、一人ずつ、蘭の前から消えていく。
だとしたら、蘭にとって、もっとも大切なのは記憶だ。
愛する人たちと生きた証し。
その思い出こそが、守らなければならない、ただひとつのもの。
「いや…だ……忘れたくない。猛さん。水魚……かーくん……みんな、みんな……」
大地に、はいずったまま、蘭はみじめに、すすり泣く。
見おろす胡蝶の目に迷いが生じた。
双眸から、ひとすじ、涙がすべりおちる。
「あなたを消しても……手に入らない。その記憶は……」
蘭は気づいた。
胡蝶は、まだ『本物』になろうとしているのだ。
蘭を——オリジナルをこの世から抹殺することで、同じ遺伝子を持つ自分自身が、オリジナルになろうとしている。
おそらくは、自分が何者で、なんのために、そんなことをしようとしているのかさえ、わからぬままに。
それほどまでに強いのか。
胡蝶をしばる思いは。
「僕は……あなたには、なれない」
胡蝶は銃口を自分に向けた。
自分の——オーガスのこめかみに、ぴたりと押しあてる。
「よせ。胡蝶。そんなことしたら……オーガスまで、死んでしまう」
「あなたになれないなら、死んだほうがマシ……」
蘭は唇をかんだ。
(どうして、かんじんなときに動かないんだ。この体は——)
また一人、蘭のために友達を亡くしてしまうのか……。
蘭があきらめかけたときだ。
上空にボートが現れた。円盤型のUFOみたいに、スッと音もなく飛来する。
と思うと、そこから、ぽつりと黒い点が飛びだしてくる。
エモノをねらうハヤブサのように、翼をとじて急降下した。
「——蘭ッ!」
猛だ。
羽を持つ猛の姿が目の前にせまったとき、胡蝶の表情に変化があった。ほのかに微笑が刻まれる。
「そうだ。僕にもあった。僕にしかない、オリジナルの記憶……」
つぶやくと、ふっと糸が切れたように、オーガスは倒れた。胡蝶が去ったのだ。
「蘭! 無事かッ?」
「大丈夫……まだ、ちょっと、体がしびれる……けど」
猛に抱きおこされ、どうにか、蘭は立ちあがった。そのころ、オーガスも目をさました。
「これは……私がやった——わけではないですよね? 蘭が射止めたのですか?」
アグネスのことだ。
どうやら、胡蝶の意識が現れていたあいだの記憶はないらしい。
「それどころじゃない。おれが上空で見たとき、あんた、蘭に銃を向けてた。いったい、どういうつもりなんだ!」
今にも、なぐりかかりそうな猛を、蘭はとどめた。
「そうじゃないんです。猛さん。あれは胡蝶だ。ショックガンをくらって、オーガスが失神したから。かわりに胡蝶が……」
はあっと、猛は深々、ため息をつく。
「胡蝶……なんてこった。それじゃ、今後、こいつになんかあるたびに、胡蝶が出てきて、蘭の命を狙うのか? とんだジキルハイドだ」
オーガスは意気消沈する。
でも、蘭は首をふった。
「その心配はありません。胡蝶は満足して眠りについたみたいだから。たぶん、もう出てこないと思いますよ」
「へえ……」
「胡蝶が死んだ日のことだと思うんですけどね。猛さん、もしかして、胡蝶に何か魔法をかけました?」
あの日、蘭は薬屋の研究所のなかには入らなかった。だから、そこで猛が胡蝶に明かした秘密を知らない。
「……ふうん。あのことかな?」
猛は身に覚えがないでもないらしい。
蘭の心はおだやかでない。
猛と胡蝶のあいだに存在する、つながりを感知して。
「なんですか? それ」
「ナイショ。おまえに言うと、すねるから」
「なんですか、それ! よけい気になるじゃないですか」
猛は笑う。
「そうか。あのときのことは、使者として同行してた、オーガスの記憶にも残ってる。それで、思いだすことができたんだな。胡蝶」
蘭が妬けるような笑みを、猛は浮かべる。
「よかったな。大事な記憶、なくさなくて」
けっきょく、猛が言わなくても、蘭はすねた。が、あきらめた。猛が決心したことを翻意させるのは難しい。
「よくわからないのですが、私の容疑は晴れましたか?」と、オーガス。
猛が答えた。
「ああ。もういいよ」
「それは、よかった。ふしぎなものですね。自分のなかに、もう一人いるっていうのは。でも、そういえば、あのモヤモヤした気分がなくなってる」
しかし、オーガスの晴れ晴れした表情は、長く続かない。かつての恋人を見て、すぐにくもった。
「蘭。アグネスも私のように、もとの人間に戻すことはできますか?」
蘭は猛と顔を見あわせる。
「それは……ムリだと思うよ。彼女のクローンを造って、脳細胞を移植することはできる。けど、それは、もう一人のクローンの死を意味する」
「私たちはクローンだ、クローンが自身の命を救うために、クローンを殺す。そんな自己矛盾はありません。自分で自分の存在を否定するのと同じだ」
そう言って、オーガスはショックガンを恋人のひたいにあてた。
「オーガス——」
蘭が止める前に、オーガスは引き金を引いていた。
血を流して苦しんでいたアグネスが、動かなくなった。数瞬おくれて、口や鼻や耳から、血があふれてきた。
「オーガス……」
「いいんです。これはもう、アグネスじゃない」
その後、胡蝶が現れたことは、一度もない。
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