五章 月と花、品種改良 2—2
信じられない。
疫神が一掃されてから、すでに三十年が経ってる。今まで生き残ってる疫神がいたなんて……。
「誰か——誰かッ!」
助けを呼んだ。が、カトレアは、その口をふさがれ、抱きすくめられた。とても常人では、あらがえない強靭な力だ。
疫神はカトレアを小脇にかかえ、屋上から飛びたった。疫神は、翼を持っていた。
カトレアは思ってもみない空中飛行をさせられ、村を見渡す山の頂上に、つれさられた。
ウロコだらけの野獣のような疫神は、そこで、カトレアをおろした。無言で押さえつけ、衣服をはいでいく。何が目的なのか、歴然としている。
カトレアは、さんざん、あばれた。それも疫神の腕力の前には徒労だった。あきらめかけたが、最後の手段で、成人男子の急所に、思いきり、ケリを入れてやった。
まさか、疫神に、それがきくとは思ってなかった。が、なんと、これが効いた。
股間をおさえて、ころげまわる疫神を見て、カトレアは爆笑してしまった。
「なんだ。やっぱり、疫神も、そこは弱いんだ」
おかしくて、涙が出る。
昨夜から、いろいろありすぎて、ちょっと感覚が、ふつうでなくなってるみたいだ。
あんまり痛がってるので、泣き笑いしながら、カトレアは声をかけた。
「おい、大丈夫か?」
うう……と、うめき声。
「言葉、しゃべれないのか?」
うう……。
「しゃべれないんだ」
「ちが……ちょっと、待て……」
のどに、からんだような声だが、人語を発してる。しゃべれないのは、カトレアの攻撃の後遺症のようだ。
しばらくして、ようやく、疫神は回復した。
「御子——」
おどろいた。
疫神は御子の存在を知っていた。
「なんだ。おれを御子だと思って、さらったのか。残念だったな。おれは御子のクローンだよ」
あからさまに疫神がガッカリした。
カトレアは傷ついた。こんな化け物にまで、偽物あつかいされるとは思わなかった。
「どいつもこいつも、御子さま、御子さま。ほんと……やんなっちゃうな」
すっと、また涙がこぼれる。
そわそわしながら、疫神が少し離れた場所にすわる。
全身ウロコで羽があって、胸まで届くような牙があって、身の丈は二メートル以上。異様に、ふしくれだった筋肉が、ぶかっこうに盛りあがり、このうえなく、みにくい。
が、その態度は、ふしぎと人らしく見えた。
「なぜ……泣く? これほど美しいおまえが」
「おまえには、わからないよ。クローンにはクローンの悩みがあるんだ」
「クローンでもいいじゃないか。おれは十五のときに、血の儀式のイケニエに、ささげられた。むりやり疫神にされたんだ。家族にも、もう会えない。こんな姿になって……どこへも行けない。ずっと遠くから人里をながめてた。野山に隠れ住んで。
そんなとき、御子を見た。この世のものとも思えないほど、美しかった。この人が、そばにいてくれるなら、ほかにはもう何もいらない。死ぬまで、ほかの誰とも会わなくていいと……思った」
「まさか、それで、ずっと、御子のこと、つけ狙ってたのか?」
疫神はうなずいた。
「ゲロゲロッ。疫神のストーカーか! やっぱり、オリジナルの威力、ハンパないな」
「おまえは、なんで泣いてた?」
「おまえに言ってもわからないと思うけど……」と言いつつ、つい語っていた。
今夜のカトレアは、ほんとに普通の心理状態ではなかった。
三人つくられたクローン。一人死んで、その死が自分たち兄弟のせいだったこと。ほんとは自分も『本物』になりたかったこと。
「おれたちは永遠に本物にはなれない。だって、クローンなんだもんな。どんなに、あがいたって、みんな、おれたちを偽物としか見てくれない」
すると、疫神は言った。
「なれるさ。本物に」
カトレアは顔をあげた。
牙のある口をつりあげて、疫神が笑っていた。食いつかれそうな笑顔だが、意外と怖くない。
「御子になろうとするから偽物なんだ。おまえは、おまえになればいい」
おまえは、おまえに——
ふるえがつくような言葉だ。
これまで、ただの一度も、思いもしなかったこと……。
「おれは、おれに……なる?」
「そうだ。おまえは、おまえの本物だ。そうだろ?」
ずっと、誰かにこう言われたかったのかもしれない。
カトレアはカトレアのままでいいんだと。
命の価値は、まちがいなく『本物』なんだと。
涙があふれた。
声をあげて泣いた。
探し求めていたものが、ようやく見つかった。
「おれ……おれになるよ。もう御子の影は追わない。今日から、新しい自分になる。本物の『おれ』に」
泣きやむころには、夜が明けていた。目の洗われるような澄んだ朝焼けだ。朝焼けを反射する研究所の白壁を、カトレアは見おろした。
もう、あそこには帰らない。あそこは自分にはせますぎる。
「おれ、世界を見てみたい。あんたが、つれてってくれるなら、あんたといてやってもいいよ」
「本気か……?」
「あッ、だからって、おれを犯そうとするなよ。おれは女としか寝ないんだ!」
「……わかった。そこはガマンする」
「あんた、名前は?」
「雷牙。カミナリの牙で、ライガ」
「疫神雷牙か。おれは——」
カトレアと言おうとして、沈黙した。
カトレアなんて、蘭の一品種だ。なんて皮肉な名前だろうか。クローン丸出し。
「今日から、おれは蓮。おれ、蘭より、ハスの花のほうが好きなんだ。研究所の連中、悪趣味な名前つけやがって」
雷牙は笑って、手をさしのばしてきた。
蓮は雷牙の手をとり、飛びたった。
自由な空は、じつに爽快だった。
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