ときめき
伴茉莉
第1話 蝶々結び
彼女という人は、見た目にこそわからないがとにかく面倒な人間だった。子供の頃から大抵のことは器用にこなし、誰からも嫌われることもなければ、執着されることもない人生を過ごし、親の言うことに従い、20歳までは全うな人生を歩んできた。ところが彼女の本心はと言えば、頭の中は紐の真ん中で動けなくなった固い結び目のようなことばかりを考えていた。それは、人によっては結び目のないただの紐にしか見えず、難しく考えることもなく、彼女が抱えているハードルをいとも簡単に越えていく人が世の中にはたくさんいた。
例えば川瀬七菜が産まれたとき、彼女の母親は当然"母親"だったのだから、母親がどうやって母親になったのかだなんて、正直彼女はこの年になるまで考えたこともなかった。とは言え、彼女の母親もかつては少女で、当時は青年だった彼女の父親と出会い、恋をして、付き合い、プロポーズを受けて、結婚をしたはずだった。だからいくら反抗したり憎んだりするようなことがあったとしても、今の自分を振り返ると自分の母親はなんて偉い人なんだろうと思えて仕方なかった。
ハタチになったらけっこんする。
川瀬七菜が子供の頃、思い描いていたことが現実的ではなかったことに、彼女が気がついたのはその年齢に近づいた頃のことだった。同じ世代の男の子がどれだけ子供だかわかるとゾッとして、180度考えを翻した。とても人生を委ねることなんて出来ないと思った。
ずっとお姉さんだと思っていた「耳をすませば」の雫と同じ年になってしまった15歳、少し落ち込んで、高校球児が年下になった時には違和感。サザエさんが24歳で、結婚していて、子供がいることも信じがたかったし、もっと年上だと思っていた「おもひでぽろぽろ」のタエ子の歳を追い越したときは正直、堪えた。年を重ねても、自分の器だけが大きくなるようで、心は取り残されているような気がしてならなかった。
「30歳になったら誰も相手にしてくれねえよ?」
職場で先輩にかけられた言葉を笑ってかわしていくうちに強くなった気がしてたが、実際はそうでもなかった。頭ではわかっているフリをしていても、心の中ではそうではない自分がいた。その想いを振り払うかのように、仕事に没頭した。仕事は面白く、1番頑張りたいことが結婚よりも、仕事になるまでに時間はかからなかった。ただその一方で、仕事を頑張るために、目の保養になる人はいてほしいと願うこともまた事実だった。恋人ではなく、目の保養と呼ぶことは別に言い訳ではなく、川瀬七菜は誰かと付き合うことを億劫に感じていた。
「もっと早く出会ってたらよかったのに」
川瀬七菜の記憶の中で最後に付き合った恋人には奥さんと子供がいた。想いを伝えるより先に唇を奪われ、そんな言葉を後出しのジャンケンのように言われ、ジャンケン負けてしまった自分はどうしたらよかったのか、当時をいくら振り返っても正しいと思える答えを見つけだすことはできなかった。ただ、食事とセックスだけを繰り返す不毛な関係に嫌気がさして、連絡を絶って以来5年間、川瀬七菜には好きな人すらいなかった。
そんな30歳の誕生日それまで結婚をしろとは口にもしてこなかった彼女の母親が、子供を持つ喜びを知ってほしいと、送って寄越した手紙の中で初めて本音を零した時、彼女は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
ごめんなさい、お母さん。私にはすごく、難しいみたいです。
彼女は何度も考えた文章を書いては消し、書いては消し、終には便箋をを丸めて、捨ててしまったきり、返事を出すことはなかった。
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