6
ぎゅっと目を閉じ、深呼吸する。
ただの小娘にすぎないメイラだが、今にも死ぬというその境界線に立てば腹もくくろうというものだ。
傷ついた両手でぶら下がっているマローを揺らさないように、背負い紐の内側に納めていた腕を抜いた。
「っ、御方さま。動かないでください」
マローの声が苦し気だ。痛むのだろう。重くて辛いのだろう。
「……御方さま!!」
「大丈夫よ、あそこにも木が」
斜め下方、なんとか触れれそうな距離に、もう一本木が生えている。
そしてよく見れば、その木の根元にほんのわずかだが岩の出っ張りがあって、人ひとりぶんであれば立てそうなのだ。
マローがつかまっている木もそうだが、ほんの少しの岩と岩の隙間に根を張っており、つまり木が生えている部分は足場になり得る。
抱っこ紐の結び目に手を伸ばすと、身をよじられた。
「手を離さないで!」と声を上げると、片手を木から離そうとしていたマローの顔が苦痛に歪む。
「……お願いです、どうかこのまま」
「二人分の体重でこの枝はいつまでもつの?」
正直怖い。恐ろしくてたまらない。高いところは苦手だし、木登りなども男の子のように上手にできた試しはない。
「マローも一人なら、足場になりそうな場所まで身体を引き上げることが出来るでしょう?」
抱っこ紐が、大きめの布であったことが幸いした。結び目がそれほどきつくはなく、手探りで解くことが出来たからだ。
「御方さまっ」
「……っ」
布が溶けた瞬間、重力に従って落下しそうになった。慌ててマローの首にしがみつき、ぶらぶらと揺れる足をその腰に絡ませる。
「動かないでください。すぐに助けが来ます。ルシエラがいるのです、ダンも。ほんの少しの間で構いませんので、どうかご辛抱を……!」
「マロー」
必死で落とすまいと身をよじるマローに、メイラはぎゅっとしがみ付き、頬を寄せた。
いつも面倒ばかりかけている……過分なほどに。
それが彼女の職責なのは間違いないが、ただの仕事という以上の想いをかけてもらっているのは自覚していた。
常に守られて、助けられて……その献身には頭が下がる。
だからこそ、苦しんでいるときには助けになりたい。彼女ばかりにリスクを背負わせるわけにはいかない。
「絶対にあなたを死なせないわ」
「……御方さまっ」
うまくいく自信はなくとも、迷っている時間はなかった。
意を決して手を離す。ただ手足を伸ばすだけでは届きそうになかったからだ。
たちまち落下しながら、必死に崖の岩肌を蹴ろうとした。正確には、不格好に伸ばした足は空を切っただけだったが、細かい枝状の茂みが落下のスピードと軌道を変え、おおむね思惑通りの場所に落ちた。
しかし落下の勢いを見誤っていて、枝に激しく脇腹をぶつけて息が詰まる。
痛みに目がくらんだが、なんとかつるりとした木の枝にしがみつけた。マローがつかまっているものより頼りない細さで、メイラの全体重を受けるとミシリと軋んだ。
「御方さま、御方さまっ!!」
呼ばれている。意識を遠くしている場合ではない。
いや、この状況で気絶してしまえば、すぐにも遠い岩浜めがけて落ちてしまうだろう。
かろうじて受け止めてくれている枝を両手で抱きしめながら、激痛をやり過ごした。この痛みは経験がある。ろっ骨が折れてしまったかもしれない。
小さく短い呼吸を繰り返した。
吹き上げてくる風がスカートを巻き上げる。裾を暴かれることよりも、その抵抗で身体を持っていかれそうになるほうが怖かった。
風が弱まるのを待って、木の根元のほうに這い進む。細い幹の上ではバランスを取るのが非常に難しい。
昔から、木登りも高いところも苦手だった。
男の子の遊びに付いていけた試しはなく、自他ともに認めるドンくさい子共だった。
だが、巻きあがるスカートを太腿で挟み、両手両足を使って尺取り虫のように這い進むテクニックは覚えていた。
「……下を見ちゃダメ、見ちゃダメ、見ちゃダメ」
ぶつぶつと呟きながら、ただバランスを崩さないことだけを念頭に亀の歩みで前に進む。
木が根を張るささやかな岩棚に上半身を乗せるまで、体感的にはものすごく時間がかかった。尺取り虫になっていた距離は掌二つ分に過ぎないが、恐怖が勝ってミリ単位でしか移動できなかったのだ。
痛みを感じて指先に目を落とすと、数日前にテトラが磨いてくれた爪が割れていた。木の皮か土が入り込み、爪先が黒くなっている。
修道女だった頃には爪を磨く習慣などなかった。子供に怪我をさせないよう爪先は常に短くカットしていたし、栄養が足りていないせいで爪が割れる事などしょっちゅうだったが、それを気にする余裕もなかった。
爪が欠け、切り傷ができた指をぎゅと握りしめる。そこにはあかぎれも肌荒れも湿疹もない。
いつのまに、こんなに柔らかな掌になっていたのだろう。毎日子供たちの服を洗っていたころは、もっと皮膚は硬く傷だらけだったのに。
顔をあげ、心配そうにこちらを見ているマローに笑顔を向けた。
たとえ傷つき、爪の欠けた手であっても、それがやけに誇らしかった。
「やったわ!」
「……肝が冷えました」
「マローも上にあがれそう?」
「いえ、この木の根元に足場になりそうな場所はありません」
マローがつかまっている木は、崖が急角度に反っている部分に根を張っていた。メイラが壁を蹴りこそねたのは彼女の足の短さ故ではなく、抉れたような岩の形状が原因だ。
「茂みがあって、そちらの様子がよくわかりません。私が行っても大丈夫そうですか?」
メイラは自身が情けない恰好でしがみ付いている岩棚に目を向けた。思っていたよりも随分狭く、子供ひとりが横たわるのがやっとの幅しかない。
「……無理じゃないかしら」
そう言おうとして、マローの服の袖に血が伝っているのに気づいた。剥がれた爪から滴ったのだろう。
「背負い紐にしていた布を垂らせる? せめて下まで落下してしまわないよう、括りつけましょう」
メイラが解いた背負い紐は、クロスする形で胸の前と腹部に巻き付けられていた。解いた瞬間外れたのは胸部だけで、長さ調整のために巻かれた布はまだ腰に巻き付いたままだ。
マローの腕をこれ以上酷使することなく、どうやって布の端を掴めばいいのか頭を悩ませているうちに、ふと、陽光が遮られるのを感じた。
日差しが陰ったのかと思った。メイラの生まれ故郷と違って、この島の空は雲が多い。
違うと気づいたのは、いまだ下半身が乗ったままの木の枝が、ほんのわずかに下方に沈んだからだ。
「……えっ」
首だけ巡らせて、自身が目にしたものが果たして現実なのかと訝しんだ。
メイラ一人乗せただけでギシギシと軋み、折れそうにたわんだ幹が、ほとんど沈むことなくそこにある。
ただし、細い枝先に男がひとり。
まるで重さなどないかのように、行儀よく両足をそろえて膝を折り、こちらを見つめている。
眩いばかりの来光が逆光となって、男のシルエットをくっきり黒く際立たせていた。
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