5
止められる可能性を危ぶむのは、その行為にやましいところがあるからだ。
船室のベッドに腰を下ろし、メイラは小さく嘆息した。
テトラはお茶を淹れに行っている。ダンと上陸後の最終調整をしたかったのだろう。
膝先に据えていた視線をわずかに動かすと、先ほどまで死角になっていた所にスカーがいるのが見えた。テトラからいくら何でも近すぎると注意され、若干距離をあけた結果がその位置だ。
ほんの少し、一人ではないことが残念だった。
しかし残りの大部分心を占めるのは、孤独でない事への安堵だ。
「……ねぇ、スカー」
スカーとは傷跡の意味だ。幼いころ顔に大きな火傷の跡があった彼の、一族の中での呼び名だ。
本当の名前は別にあるのではないか。
そう尋ねようとして、黒髪黒目の一族の中で、一人だけ明るい金髪に朱い目をしていた幼子の姿を思い出す。
問いかけは、口の中で消えた。もし本当に両親からそんな名前を付けられたのだとしたら、この質問は彼の心の傷を抉ることになる。
無言で首を傾け、こちらを見ているスカーに、誤魔化すように笑みを向けた。
「ごめんなさい、なんでもないの」
『伝説の暗殺者』とまで呼ばれているのであれば、彼はとても強いのだろう。冗談ではなく。名前についてもまったく気にしていないのかもしれない。
しかし、あえて地雷になり得ることを直接聞くのは憚られた。
首を傾けたままじっとこちらを見上げる瞳は黒々としている。瞬きを忘れたかのようなその凝視には、いまだ慣れない。
「……間に合うかしら」
一番の気がかりが、ぽろりと口をついてこぼれた。
「私にできるの?」
はっきりいって自信はない。
中央神殿がメイラに望むのは、顕現するかもしれないダリウス神を鎮めることだ。果たして彼らの助けなく、御神に接触することなどできるのだろうか。そもそも帝都からこんなにも遠く離れた場所で、取るに足らない女の声など届くのか?
「怖いわ」
間に合わず、帝都がすべて消滅してしまうような大惨事になったらどうしよう。
百万を超す人々の命も、メイラにとって何よりも大切な愛する夫も。何もかもが、慈悲を乞う間もなくたった一瞬で奪われてしまったら……。
「……とっても怖い」
自身の身体を抱き込むように腕を回し、身震いした。
ハーデス公爵領よりずっと温暖な気候なのに、ぞわりと背筋に悪寒が走った。
そっと肩を掛布で覆われて、黒髪の男の方を見れば、彼の表情は相変わらずほとんど変わっていなかったが、それでも若干困惑したように眦が下がっているようにも見えた。
「お願いしたいことがあるの」
人間の縁とは不思議なものだ。
本来であれば、決して交わることのない人生だった。メイラとはまったく違う価値観のもとに生まれ育ち、彼女には想像もつかない環境で生き抜いてきた男だった。
メイラは肩にかけられた掛布をぎゅっと握り、闇と同化しそうなその姿を見上げた。
彼は、他人の命を容易く狩ることのできる暗殺者だ。金銭を介して依頼を受けて、客が邪魔だと見なした相手を消すのだろう。彼がこれまで手に掛けてきた人々がどういう人間だったにせよ、誰かの愛する者であったはずだ。簡単に奪ってよい存在ではなかったはずだ。
しかし、静かに佇んでいるスカーからは、罪咎に染まった者特有のドロドロとしたものは感じられない。むしろ、俗世とは隔絶した静謐さのようなものがあった。それは、かつて修道女だったメイラが身近で感じてきたものに似ていた。
「たとえ何が起ころうとも……誰にも邪魔はさせないで」
たとえば今、喉を突き心臓を捧げろと命じたら、彼はどうするだろう。
メイラが冗談だったと訂正する前に、ためらいもなく言われたとおりにしそうだった。
だからこそ、彼にしか頼めない。
テトラへの説明は、当たり障りのないものにするつもりだ。
御神にこの声を届けるために、必要であれば身命を賭すなどとは言えない。
メイラは自他ともに認める非力な女だが、夫や帝都の人々が助かるのであれば、迷わずそうする覚悟はある。
しかし、ダンやテトラは阻もうとするだろう。この決意を尊重してはくれないだろう。
「きっとわたくしはこの時のために生まれてきたのよ」
静かに、宣言した。
スカーしか聞いている者はいなかったが、それは己の心に深く刻まれた誓いだった。
コンコンコン、と扉がノックされた。
半開きの扉の向こう側に、テトラがいるのが見えた。
ほのかに漂ってくるのは、紅茶のかぐわしい匂いだ。
「おかえりなさい」
「……? 遅くなりました」
テトラは若干訝し気な顔をしたものの、ティーカップの乗った盆を危なげない足取りで運んでくる。
「すぐにダンも参ります。話を詰めておきましょう」
「……そうね」
やがてダンがやってくると、室内は一気に窮屈になった。
飛びぬけて体格がいいのはダンだけだが、さすがに四人で居るには部屋が狭い。
ダンはここ数日で習慣になった、メイラの体調を精査する目で見下ろしてきて、満足はできないが納得はした顔でひとつ頷いた。
「……人払いを頼む」
ダンにそう頼まれて、スカーはまるで鏡のようにつるんと黒い目をこちらに向けた。
頷き返すと、音もなく二人の背後を通って扉から出て行く。
聞かれたくない話だろうか? 席を外させてもスカーには無意味だという事は、ダンにもよくわかっているだろうが。
「これからのことを相談しておきましょう」
ダンが片膝を折って、メイラと視線を合わせた。
「グレイスによると、補給には時間がかかるだろうとのことです。見たところ、二隻の大型商船と四隻の高速クルーズ船が寄港しています。クルーズ船はおそらくどこかの貴族でしょうし、商船も大手のものですので、優先しての補給は難しいようです」
「少しというのは……どれぐらい?」
「最長で四日とのことです」
四日は長い。
ハーデス公爵領を出てから、すでに一週間になる。更にここからスカーの故郷まで二日の航海が必要なのだ。
焦っても仕方がないと分かっている。泳いでいくわけにはいかないのだから、プロのいう事を受け入れるべきだ。
頭ではそう理解しつつも、間に合わないのではという焦燥感に指が震えた。
「ギラトスには我が国の大使館があります。そこで帝都と連絡を取ることが出来ます。お聞きになりたいことはありますか?」
もちろん、陛下の御無事を。……そう言おうとして、言葉に詰まった。
陛下に万が一のことがあったとしても、遠く離れたこの場所でできることは何もない。
改めて夫との距離を突きつけられて、鼻の奥がツンと痛んだ。
「……戦況を」
怪我などなさっていないだろうか。ご苦労なさっていないだろうか。
どうしても夫の事ばかりを考えてしまい、震えそうになる声を必死で堪えた。
深く頷いて意をくんでくれるダンから目を逸らし、呼吸を整える。
テトラが紅茶を勧めてくれたが、申し訳ないが今はそれを飲む気になれなかった。
「わたくしの行動が無駄になる前に、どうしてもたどり着きたいの」
「スカーの郷里にあるという、その……御神がお眠りになっておられるという湖は、実在するのでしょうか」
テトラの立場からすると当然の疑問だろう。御息所は世界のいたるところにあるとされているが、確実とされるのは中央神殿の奥の院のみであり、あとは不確かな噂や伝承にすぎないのだ。
「ポラリス教皇猊下が、直接御神とお話になっている夢を見たわ」
「……夢」
「目覚めた後で、猊下とそのことについてお話しました」
ダンたちの表情を見るに、眉唾な話だと思っているのかもしれない。襲撃を受けた事実があるから、おいそれと納得はできないのだろう。
メイラは、手首に刻まれている細い御徴を掌で覆った。薄暗い船室でははっきりとは見えない。しかし、確かにそこに神の痕跡があるのが伝わってくる。
「では、中央神殿はその湖について知っているわけですね? 先回りされている可能性がある」
ダンが難しい顔をしながらそう言うと、薄暗い視界に浮き上がって見えるテトラの美貌が小さく左右に振られた。
「ハーデス領を出たのは、おそらく最短でした。海賊に追われて遠回りしましたが、それは向こうの条件も同じ。……補給を急がせましょう、追いつかれるわけにはいかない」
「いいえ」
メイラは震える手でぎゅっと手首を握りしめ、静かに言った。
「追いつかれても問題はないわ。あの方々も、湖でわたくしが祈りを捧げることを望むでしょう」
「……ですが」
「帝都で大規模な召喚術が行使されようとしています。あまたの人々の命が踏みつぶされ、大惨事になるかもしれない……そうなる前に御神をお鎮めしたいの」
奥の院であれば、御神に声を届けるために命を捧げる必要はなかったのかもしれない。しかし、フランを殺し、マローや他の皆を傷つけた彼らの元で祈りたくはなかった。
おそらくは真っ青になっているメイラを、二人は気づかわし気に見つめている。
笑え。
強くそう念じて、口角を引き上げる。
死ぬかもしれない。……そのこと自体は恐ろしくなかった。
黒い神職には従わないと、奥の院へは行かないと決めたのはメイラ自身なのだから。
怖いのは、間に合わない事だ。メイラの力及ばない可能性も、なくはない。
夢の中で教皇猊下は、はっきしとした意図をもって御神に声を届けていた。
同じことがメイラにできるだろうか。手首に触れられた一瞬だけでも、全身がバラバラに砕け散ってしまいそうだったのに。
御神が『探せ』と言われたものは、きっとあの湖の底にある。
それを見出し、帝都での神招きが実行される前に神意を請わなければ……
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