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 その後も海賊船に追尾されたようで、航路の変更を余儀なくされた。

 多少の遅れはよくあることだが、到着予定日が五日もずれ込むと、これだけ大きな船の乗員すべての需要を満たすのは難しい。

 もともと遠洋航海も可能な交易船ではあるが、今回の船旅に用意した物資は少なく、ドートス島で復路用を含む補給を予定していたのだ。

 やむを得ずドートス島ではなくギラトスという観光地用の島に行き先を変え、そこからスカーの故郷を目指すことになった。

 教会が教える子供向けの学校では、リッチェラン諸島という名前は学ぶが、ギラトスという島については聞いたことがない。テトラによると、帝国だけでなくいろいろな国の裕福な貴族、商人たちが観光目的に訪れる島らしく、物資の補給をするには十分な港で、観光客の安全を守るために独自の護衛船隊まで保有しているという。

 寄港するまで三日もかかると聞いて、焦りがこみ上げてきたがどうしようもない。

 どうにかしてスカーの故郷に早く着く方法はないのかと聞いてみたが、至極困った顔をされた。風と潮流の都合は人間にどうこうできるものではないのだ。

 三日後の昼にはギラトス島に到着し、補給に半日。そこからスカーの故郷まで最短で二日。……当初の予定より五日はずれ込むことになる。

 テトラに説得されて、その間は体力を戻すことに専念した。

 自力でまっすぐ歩けないようでは、とても深い森の中に踏み入ることはできない。

 情けないがその通りで、せめて担いで運ばれるのだけは避けたい。

 まずは食べる事。短い距離からでいいので、歩く事。

 メイラは黙々と体力の回復に努め、ギラトス島が近くなる頃にはミルク粥を椀に一杯程度であれば食べきれるようになった。

 栄養が満たされてくると顔色も良くなり、足が萎えることも無くなった。

 ダンやテトラだけではなく、あまり表情筋を動かさないスカーも、もちろんグレイスや他の気のいい商船の乗組員たちも、甲板を散歩する彼女の姿にほっとしているのが目に見えてわかった。

 そんなに体調が悪いように見えていたのだろうか。

 テトラに尋ねてみると、苦笑された。笑い飛ばされなかったことが、彼の心配を代弁していた。

「今にも死んでしまうのではないかと」

 ゆっくりと側舷の甲板を歩きながら、胡乱な顔をして彼を見上げる。

「船酔いで死ぬなんて聞いたことないわ」

「船酔いではなかったでしょう?」

「……それは、まあ」

「随分顔色も良くなってきたし、島に着いたら軟らかく煮た肉か卵を食べましょうね」

 忘れているわけではないが彼はれっきとした男性なので、本来であれば言葉を交わすことすら禁じられている。

 それなのに、背中をさすられて感じるのは、くすぐったさでも緊張でもなく、深い安心感だった。

 警戒する必要はないと判断したからこその信頼だったが、精神状態が落ち着いてくれば、距離の近さにドギマギもする。

 更には、見た目彼が綺麗な女性にしか見えないから、同性を意識しているようなおかしな気分になってしまうのだ。

「ああ……はっきり見えてきたわ」

 視線を合わせるのは照れくさくて、メイラは水平線上に浮かぶ島影に目を向けた。

 あれがギラトス島。

 リッチェラン諸島の南端付近に位置しており、年中気候が温暖で、水資源も豊富だという。

 吹き付けてくる風は、北国育ちのメイラにとっては春風のようだった。故郷とはあまりにも違う暖かさに、改めて遠くまで来たのだと思う。

 乱れる髪を手で押さえ、目に見えて大きくなっていく島影をじっと見つめた。

 島の周りに、帆船のマストが乱立しているのが見えてくる。

 メイラたちが今乗っているのはマストが三本立った巨大商船だが、見た所二本マストの中型船が多い。といっても武装しているのが遠目にもわかるほどで、砲口が太陽の日差しを反射させギラギラと光っているのが見えた。

 ばさり、と向きを調整した帆が風をはらむ。

 見上げると、メインマストの天辺に、エゼルバード帝国の略式の国旗と商船を示す緑の旗が掲げられていた。

 海の近くで育ったメイラは、それが敵意がないという意思の表れだと知っている。

 港の方を見ると、砲口をこちらに向けていた中型帆船の上にも、緑の旗が掲げられた。

 来航を歓迎するという意味だ。

 このあたりは海賊も多く、聞いた話によると商船を装っての襲撃もよくあることらしい。警戒する船隊がすんなりとこの船の寄港を許したのは、グレイスが所属するチャーリーソン商会への信頼度だろう。

 ダンがどうあってもグレイスに船旅を依頼したかった理由の一つがそれだ。

 傍らで、テトラがほっと息を吐いた。

「どうやら昼前には地面に足を着けれそうね。保存食ばっかりで飽き飽きしていたから、美味しいものでも食べましょう。ギラトス島には観光地らしくお店もけっこうあるのよ」

「味の濃いものはまだちょっと」

「あっさりした鶏ダシのホーファンという麺料理がおいしいの!」

 聞いたことのない料理名だ。

「乾麺もあるから、お土産に買って帰りましょうね」

「あの、観光に来たわけでは……」

「メルベル」

 ものすごく近くに顔を寄せられてぎょっとするより前に、ふにっと唇に指を乗せられた。

「観光地に来て観光しないと目立つわよ」

 にっこりと目を細めて笑うテトラの顔は、輝かんばかりに美しい。

「最初からギトラス島を中継地に選ばなかったのは、航路の都合もあったけど、ギトラス島には厄介な連中がいるからなの」

「……厄介な?」

 笑いながら言うようなことなのかと疑問に感じつつも、顔が近いので自然と声を潜める。

「わかっているだけで八カ国の諜報機関が拠点を持ってる」

 ぎょっと目を見開き、まじまじとその美しい顔を見上げると、笑っているように見えて彼がひどく緊張しているのがわかった。

 どこから見ても観光を楽しみにしている若い女性にしか見えないが、至近距離にいるメイラにはその目の色がはっきりと読み取れる。

「目を付けられたら本当に厄介よ。……味方もいるけどね」

 味方? 帝国の諜報機関の拠点もあるという事だろうか。

「あそこで師団長に連絡が取れるから、帝都の様子もわかるし、伝言があれば聞くわ」

 甲板が急に騒がしくなってきた。

 入港に向けて、船員たちが仕事を開始したからだ。

 メイラは可能な限り表情を変えないようにしながら、テトラの美しく綻んだ顔を見つめた。

「港に降りれるようになるまでしばらくかかるから、船室に戻りましょう」

 そっと肘に手を添えられて、寸前まではそんな些細な接触にも感じていた安心感が緊迫したものにかわる。

「そろそろ説明してくれてもいいと思うの」

 耳元で囁かれる声は、甘く優しい。

「あなたがどうして名もない離島に行きたがっているのか」

 誰が聞いても女性のものだと思うに違いない、少し低めのアルト。

 メイラは促されるままに歩き出しながら、もう一度至近距離にあるその美しい顔を見上げた。

「ダンの説明で閣下はある程度理解できたようだけど、もう一度ちゃんと聞いておきたいわ」

 彼は内緒話をするような表情で、口元にこぶしを当てている。それが話の内容を唇の動きで読み取れないようにしているのだと察した瞬間、彼がどういう職務でここにいるのかを思い出した。

 もちろん忘れていたわけではない。

 彼はルシエラと同じ憲兵師団員。おそらくは、より深く情報を探ることに特化した諜報部員だ。

 彼がメイラに仕える一介のメイドだなどと、勘違いしたわけではない。

 しかし、知ってはいても理解はしていなかった。

 ずっと守ってくれていたから、ずっと励まし支えてくれていたから。このままずっと味方でいてくれると、錯覚してしまったのだ。

 彼が敵に回ると疑っているわけではない。ただ、メイラの行動を止める可能性があることから、目を背けていた。

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