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大きめのテーブルの上に広げられているのは、帝都の地図だ。初見でわからかなかったのは、今とは街の形が違うからだ。
書かれている文字から、相当に古いものだとわかる。しかしそう言われてみてみると、一番内側の城壁や、メインの広い道路の位置は変わっていなかった。
「専門的なことはいずれ詳細な報告書に上げますので省きましょう」
リアンドル老師の皺の多い手が、なぞるように城壁を辿った。
「お探しの召喚陣ですが、もしかすると帝都そのものかもしれません」
「異界から力あるものを召喚するためには、精密な魔法陣を描くための広い平らな場所と多くの魔力が必要だと聞いたが」
故に内部にある程度広さのある建物、具体的には貴族の邸宅や無人の家屋などを調査させてきたのだ。
ハロルドの疑問に、老師は深く数回頷いた。
「魔法陣の大きさは、呼ぶものの容量に比例します。小さな魔方陣に小さな魔力を込めても、小物の召喚しかできないように、かつては力あるものを呼ぶために広大な平原に魔具を埋め込んで魔法陣を作成したと伝え聞きます。精密な魔法陣と多くの魔力が必要だというのは、陣の大きさを補うために、魔法を圧縮する必要があるからです」
「口を挟んで申し訳ございません、よろしいでしょうか」
「ピアヌ中将閣下、どうぞ」
「サッハートの街での事件を思い出したのですが」
サッハートの街といえば、メルシェイラが誘拐されて囚われていたところだ。そこで髪を切られ、大変恐ろしい思いをさせたのだ。
「後宮からメイドや女官、下位のお妃さまがたを駆け落ちあるいは宿下がりしたかのように見せかけて誘拐し、サッハートの街まで連れてきて惨殺していました。何かの儀式の為だったようで、調査を進めていますが詳細はわかっていません」
「その報告書は読みました。余計な仕事など放りだして、早々に調査に行くべきだったと後悔しております。おそらくは今回は、それのもっと規模の大きなものだと思います」
ハロルドは、老師の指先が辿る城壁のラインを目で追った。
古の人々が設計したもともとの街の形は、城を中心に綺麗な円形をしている。現在は巨大に膨れ上がって、街を覆う外壁も三重、場所によっては四重になり、更にその外にも街は広がり続けていた。
「もともと街をつくるために守護の方陣を模すのはよく使われた手法です。帝都は長い年月とともに巨大化し、ご覧のように現在は形そのものが崩れております。逆にサッハートは特殊な地形で、できた当初からそれほど街の形は変わっておりません。サッハートの街の各所で贄の血肉が捧げられたという事は、もとある方陣を上書きする形で別の何かを発動しようとしたのではないでしょうか」
「帝都が今や方陣の形状を維持していないのなら、老師が危惧しているような召喚は難しいのではないか? あとで詳細な報告書を見せるが、ハーデス公爵領で黒竜を召喚した方陣は、街から少し距離のある古い教会跡に描かれていた。今回もそうであろうとある程度の広さの場所を探させていたのだが」
「魔法師団にも協力要請がきておりましたので、そのあたりは把握しております。ですがどうしても気になりましたので、調査班に特定のか所を見てくるようにと頼んでおいたのです」
「何か見つけたのか?」
「いいえ。危惧していたようなものは何も。しかし、その場所ではよく事故が起こるそうで、先だっても若い少女が馬車に跳ねられて亡くなったそうですし、別の場所では火事で子供が死んでいたり、心中事件があったりと、どこも近隣の住民からはあまりよい地合いではないと言われたそうです」
「それは……偶然ではないのか?」
「崩れた方陣が何らかの影響を及ぼした可能性はないわけではないです。ですが、何者かがそこに贄の血肉を捧げたのだとも考えられます。一般的に召喚術に用いる贄は、特定の儀式によってほぼ同時刻に捧げられるものですが、サッハートの街同様、時間ではなく正確な位置が重要だったのかもしれない」
「それでは、すでにもう召喚は執り行われた後という事ですか?」
「いえ、帝都そのものを陣としたものである場合、相応の力あるものが召喚されるはずです。いくらなんでも我々がそれに気づかないなどと言うことはあり得ません」
「……つまり?」
「はい、現在進行形で術が形成されている途中なのではないでしょうか」
老師が指し示した古い地図の複数のか所には、赤いインクで星形のようなマークが描かれていた。地元民のいう『地合いの悪い』場所を示すものなのだろう。
「ですがそもそも、贄を捧げるだけでは発動に不十分なのです。儀式には魔力が必要です。これほどの大きな魔法陣を起動させるための魔力を集めるなど、本来であれば不可能なはずでした」
……過去形だ。
老師の言葉の意味を正確に読み取り、ハロルドは軽く目を閉じた。
膨大な魔力を必要とする魔法陣の側で、万の軍勢が命のやり取りをする。それは魔力の代替となる魂を捧げる行為といっても過言ではない。
「これ以上もう戦うなという事か?」
まだ召喚が成されていない以上、魔力が足りていないという事なのだろう。
「端的に言えばそうなのですが、現状それが難しいのはわかっています。いまだ発動が実行されていないということは、何か条件が満たされていないのでしょう。それが魔力なのか、贄なのか、術式なのかは不明です。ですが言い換えれば、今するべきことはその条件をそろえないようにすることです」
「だがすでに贄は捧げられてしまっているのだろう? つまり発現に必要な魔力の供給を止める……つまりは敵味方共にこれ以上の被害を出させないという事ではないのか」
「あるいは、浄化するかです」
「浄化」
「捧げられた贄を浄化し、効力を失わせるのです」
「……神官か」
ハロルドは思いっきり不快を露わにした。
これまで帝国は中央神殿と程よくいい関係を築いてきた。皇室の冠婚葬祭は枢機卿以上の高位神官が執り行うものだし、皇族の中には神職として生涯を送る者も少なくない。
ハロルド自身が敬虔な教徒とまでは言えなくとも、歴代の皇帝以上に手厚い庇護を与えお布施も欠かしてこなかった。
少なくとも、彼が中央神殿へ隔意を持っているなどと、噂にすらなったことはないはずだ。
「複数の巨大竜が召喚されようとしていると言ってきたのはその中央神殿だ」
「なんと」
老師は不快感も露わに吐き捨てるハロルドを見て、心底驚いたような顔をした。
「贄の浄化で事足りるのであれば、何故それをしないのだ?」
「実際にどういう召喚陣が使われるかまではわからなかったのでは?」
冷静な指摘に、そんな訳はないはずだと不愉快さがいや増す。
自称祖父だという教皇の存在も気に入らなかったが、メルシェイラを連れ去ろうとした行為そのものが彼にとっては許しがたい事だった。
おそらく彼らは知っていたはずだ。今から帝都で起ころうとしている何かを。
忠告すると見せかけて、神殿側は召喚陣の発動を望んでいるのではないか?
「いいだろう。帝都にいる高位神官たちに触れを出せ。その『贄』により穢された場所を浄化して欲しいと。……謝礼は布施として後日皇室から出す」
「陛下」
あえてそんなハロルドの方へは視線を向けず、珍しく真剣な表情で地図を見下ろしていたピアヌが、ふと何かに気づいたように声を上げた。
「ここは後宮内の西の庭園があるあたりですよね」
古い地図そのものに魔法陣が描かれているわけではない。しかし、老師が示唆した例の『地合いの悪い』という星印が、地図の中央部分を大きく占める皇城の一角にも刻まれている。
縮図からして非常にアバウトなもので、現在の城の形とも差異があるが、確かにそこは奥と呼ばれる皇帝の居住区、おおよそ後宮のある位置だった。
細かい距離感まではわからないが、大きな離宮などがある場所ではなく、ピアヌが言う西の庭園の端あたりのようにも見える。
歴代の皇帝が本拠地としてきた城なので、過去をさかのぼれば贄の条件を満たす流血沙汰などいくらでもありそうだが、ピアヌが気にしているその位置がハロルドにも引っかかった。
丁度そのあたりに、メルシェイラが姿を消したあの小さな神殿があるのではないか?
ドルフェスが、がちゃりと音を立てて剣の柄を握り身構えたのはそんな時だった。
まっさきに反応した近衛師団長に続き、その一瞬後にピアヌが老師を守る位置に身体をねじ込む。
近衛騎士たちがハロルドを守るように動こうとしたところで、ぎゅん、と空間がたわむような独特の感覚に見舞われた。
「……っ」
ハロルド自身も自衛の為に愛剣を掴んだが、鼓膜に強い圧が掛かって平衡感覚に異常をきたした。
とっさに両足を踏ん張り、倒れないようにテーブルに片手を付く。
「ああ、失礼いたしました」
最初、その声も良く聞こえなかった。意味は分かるのだが、まるで水中にいるかのようにくぐもって聞こえる。
物理的に陽光が瞼を刺したので、天幕の布がめくられていることが分かった。
遮音の術を強引に突き破り、外部から誰かが侵入してきたのだ。
「なんと無茶をする」
「急いでおりましたもので」
片方は老師の声。もう片方は……
「リ、リオンドール卿。耳が……耳が……」
「おや、素敵な顔色ですね近衛師団長殿」
おおよそ前線にいるのにはふさわしくない、普段着に近い軽装。その上から一枚肩にかけただけのマントは薄く、今の時期には寒そうだ。
パッと見ただけで所属が判別するようなものを身にまとっていないその男は、騎士として手足の一部であるはずの剣を放り投げ、その場で両膝をついて耳を押さえた近衛師団長に向かって、至極のんびりとした口調で言った。
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